明治時代のイカナゴ漁(「兵庫県漁具図解」より)
先日のnoteでイカナゴの漁法について紹介しました。
その中でも触れましたが、1897年(明治30年)、神戸で開催された第2回水産博覧会に出展された「兵庫県漁具図解」という資料があります。
これは、この博覧会のために大日本水産会兵庫支会が編集・刊行したものです。
現在、関西学院大学デジタルライブラリーで公開されており、誰でもその内容を読むことができます。とてもありがたいですね。
以下、特記あるものを除き、上記サイトからの引用またはキャプチャーです。
このサイトに掲載されている「兵庫県漁具図解」の説明を引用します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この『図解』は、1883(明治16)年東京上野公園で開催された第1回水産博覧会に続いて、居留地廃止直前の1897(明治30)年神戸の和楽園(わらくえん)で開催された第2回水産博覧会に出展するために、大日本水産会兵庫支会が編集・刊行した資料です。当時、和楽園には日本で初めて循環濾過装置を設置した水族館が水産博覧会と同時に開館し人気を集めました。
「富国強兵・殖産興業」を謳い文句に近代化を進めていた明治政府は、その一環として、第1回内国勧業博覧会(1877)、第2回内国勧業博覧会(1881)を上野公園で開催する一方、1879(明治12)年から国内の漁業慣行の調査を開始し、内国博覧会や水産博覧会でその成果を公表していました。このような府県水産誌の編纂と博覧会への出展という流れは、その後、明治20年代も続き、1890(明治23)年の第3回、1895(明治28)年の第4回の内国博覧会、さらには1897(明治30)年の第2回水産博覧会へと引き継がれていきました(井上善博「明治の博覧会と水産誌編纂事業」『明治時代の水産絵図:明治の博覧会へ出品された水産業の絵図』大田区立郷土博物館編 1995.6)。
このような流れの中で製作された『兵庫県漁具図解』は、兵庫県下の地域ごとの魚名、漁期、漁具の構造、漁具の新調費、使用法などの詳細な解説と漁具の構造図、使用図、漁船などを調査・記録し、鹹水(塩水)漁業、淡水漁業の二部で構成され、前者は摂津・播磨・淡路・但馬の地域別に編集されており、当時の兵庫県沿岸各地の漁業の実態を把握できる貴重な資料です。本学図書館には「鹹水漁業 第二播磨国 巻四」(大学図書館が入手した時点ですでに散逸)を除く図解全てを所蔵しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「播磨国」の一部が欠けているのが大変残念です。
その中からイカナゴ漁に関する記載が4箇所あります。
神戸(塩屋)での「地引網」
イカナゴから、どろめ(イワシの稚魚)の漁法です。1月4日から八十九夜(5月2日ごろ)までとの記述があります。
淡路での「地引網」
3月から6月まで、暁(夜半から夜明けまで)行うとの記述があります。
淡路の津名で「刺し網」
3月から6月まで、夜間に行う、とあります。
明石・林崎では四艘張網
正月より6月15日までとの記述があります。
まだ動力がありませんので、手漕ぎの船や、地曳網で獲れていたのが隔世の感があります。
それだけ大量に獲れていたのでしょう。
江戸時代の和漢三才図会という百科事典には、いかなごを鍋で煮て、行灯の油をとるとの記述があります。
そこには、布網ですくい取る、とも書かれていますので、時代に応じて手に入る漁具で工夫して漁をしたということが推測できます。
網の素材も時代によって変わってきているはず。
高性能になりすぎて、獲りすぎているという側面もあるかもしれませんね。
兵庫県漁具図解では、他の魚類を獲るための漁具もたくさん掲載されています。
もっと読み込んでみたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました! 伍魚福の商品を見つけたら、是非手にとってみて下さい。社長のいうとおりになってないやないかーとか、使いづらいわー、とか率直なコメントをいただけるとうれしいです。 https://twitter.com/yamanaka_kan