見出し画像

現実とか物語とか体験とか記憶とか嘘とか本当とか

自分の人生ではそれほど心を揺さぶられるような出来事は、残念なことに、正直あまり多くない。

だけど、物語を読んでいると、心をこれでもかというほど揺さぶられる。

生きている感じがする。

読んだ後、不思議な高揚感に包まれた後に、時々これは物語の中の出来事なのだと虚しくなることもある。


これほど強烈な物語を大量に摂取しながら毎日生きている。
現実で生身に起こる出来事より、物語の方が心に響いていたりするのに、自分の現実に起こった事と物語の世界の話を区別できてるということが、改めて考えると、なんだかすごいことのように思う。

時々、夢(寝てる間に見るやつ)で、物語と現実が混合した世界に自分がいて、起きたときにとても混乱することがある。
(今朝、進撃の巨人の悪夢を見てしまった・・・)

物語は私の人生にいろいろな影響を及ぼしているし、物語に支えられて生きているけど、物語の中の話と自分の人生を混合してしまう事はない不思議さ。

自分の過去の出来事と、物語で読んだ話が、どちらがどちらだか分からなくなることはない。

体験した記憶と、読んだ記憶が、混ざることもない。

読んだ記憶の方が心に響いていたりするのに。

不思議だ。

いや、もしかしたら気づかない間に、過去と物語のすり替えは起きているのかもしれない。

自分が過去の出来事として思い出した風景は、物語で読んだワンシーンだったりするのかもしれない。

今の自分の持つ記憶と、過去の日記の間に齟齬が生じていたり、友人と自分の共通の出来事の記憶が大きく乖離しているなんてことも、よくあることだし。

脚色して誰かに話したり、誰かに話を聞いたり、自分の中で考えたりしているうちに、過去を書き換えてしまっている部分は多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。

そうすると、「過去」は「嘘」にまみれていることになるのだろうか?
「本当」の「本当」は「今この瞬間」しかないのだろうか?

そもそも「本当」ってなんだろう。

過去に起こった出来事について、その時感じていた感情と、今感じている感情と、どちらが「本当」だとか「嘘」だとか、どの時点の自分が決められることなのだろうか。

その時は出来事を一面的にしか捉えることができていなかったのに、後になって、その当時のことを詳しく知っている周囲の人からの話を聞いて、その出来事をいろんな角度から捉えることができてしまった場合、出来事自体が、当時自分が見ていたものと全く異なっていたりもする。

感情だけではなく、出来事自体、後から書き換えられることもある。

何が言いたいか分からなくなってきた。

思いつきで文章を書くと悲惨なことになることだけは分かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?