見出し画像

文字を書く

オリンピックの前にできたような古いマンションに引っ越した。

引っ越し自体がとても大変だったけれども、集中して書きたい原稿もあった。

「20代の集大成になるような仕事だと思う」

と、友人の直江さんに言ったら「そう思ったら書けなくなるよ」とケラケラ笑われた。

「やっぱりそうかな」
「そうそう、先延ばしするって」
「そうね、じゃあ完成を目指す」
「お、ええやん、それで」

直江さんとはここ最近、毎週仕事の進捗についてのミーティングをしていて、自分を良く知っている人からそう言われるとありがたいなと思う。

引っ越しして、一人暮らしの生活が上手くいくのか不安なのだと直江さんに続けて言ったら、

「一人暮らしに失敗とかなくない?」

とケラケラ笑い飛ばしてくれたので、また気が楽になった。

※ ※

引っ越しの準備はなかなか進まなかった。あれもこれもと考えているうちに、どうしたらいいのかわからなくなって、どうして私はこんなに要領が悪いのだろうと苦しくなる。一人暮らしに失敗はない。その言葉を呪文のように心の中で唱える。

原稿のほうももっと集中して取り組みたかった。頭の中で走っている二本の直線が、鋭い角度で交わる。その鋭い角度がそのままペンの先になる。尖った硬いペン先で書き続けたい。

いつも頭の中で浮かべているイメージが、私に原稿を書かせなくしているのかもしれないと気づく。先の丸まった鉛筆でも、書ければいいじゃないか。とにかく書き上げれば。何度も自分に言い聞かせた。

原稿ができたら、すぐに編集さんに見せるようにした。皆さん丁寧にコメントをくれたり、電話で感想をくれた。なんとか書き上げられた。一人でなんでもやろうとせず、素直に頼っていけばいいのだと思う。

※ ※

住所変更の手続きをしに、昼ごろに、前に住んでいた地域へ行く。

区役所では様々な書類に、文字を書いた。ペン先が柔らかくて、字が汚く見えるのが気になった。でも伝わればいいのだと、黙々と書き続けた。

税務署では、怖そうなお姉さんが受付だったのでひるんだ。前に並んだ人が、
「そんな曖昧に言われてもどれかわかりません。ちゃんと会社にどの書類が必要か確認してください」
と厳しいことを言われていて、肩を落として帰っていったのだ。

だから私はお姉さんに、「住所変更をしたいんです」と言ったあと、「青色申告しているんです」と必要のない情報を伝えた。

そうですか、とクールにお姉さんはいい、住所変更の紙を二枚出して、
「これを使うと転写できていいですよ」
と、折りたたまれたカーボン紙を取り出した。お姉さんが両手でカーボン紙を開くと、折り目の部分でビリビリと破れた。
私が思わず吹き出したら、
「難しいんですよ」
とお姉さんも吹き出した。
「難しそうですね」
私は同調した。
「とにかく、強く書くことがポイントなんですよ。筆圧を強く」
とお姉さんはまたクールに言う。
「難しいので、クリップで止めるといいですよ。難しいので」
2つのクリップをかしてくれた。

2つの紙の間に、カーボン用紙を挟み、筆圧強く書きつけたが、ペン先がやはり柔らかくて難しかった。全部書き上げてカーボン用紙を外すと、2枚目の紙の文字は大きく右上にずれていた。

クリップ二つを返しながら、二枚目の紙を見せると、
「ふっ、やっぱり難しいんですよね」
とお姉さんは嬉しそうに私に言い、
「わかるのでいいですよ」
と書類を受けとった。

※ ※

今住んでいる地域に戻り、役所に行き、もろもろの手続きをした。やはりペン先は柔らかく、字が汚いままだった。

すっかり陽が沈んだ。免許証の更新は明日に回そうと思う。駅前の百円均一でこまごましたものを買って家へ向かった。

家の300メートル手前で嫌な予感がした。荷物を調べると、やはり財布がなかった。一度荷物を家に起き、もう一度調べてもなかった。歩いてきた道を戻りながら、目を凝らしてみたがなく、百円均一にもなく、もう一度道を調べてもなかった。今日は手続きをたくさんしたので、あらゆる重要な証明書が財布に入っているのだった。

完全に失くしたなと思う。私の頭は隅々までさえわたり、中途半端な住所変更の途中で、なにをどのような順で申請すべきなのかを考えだした。財布を落としたのは最悪だが、私はきっと対処することができる。大丈夫なのだと思う。

警察署に行く。

「財布を無くしました。今日、引っ越ししたばかりなので、重要な証明書が全部入っています」
と言うと、書類を記入するように言われる。お札や硬貨の枚数まで記入するらしい。

「正確に覚えていないんですけど」
「だれも正しく覚えていないですよ」

そういわれたので、10円玉5枚、と書いた。ここもやはりペン先が柔らかく、字が汚くなった。書類を提出すると

「10円玉、5枚」

読み上げられたので「今は引っ越しなので、カードで買い物をしているんです」と私は言わなくてもいいことを言った。そうですか、とクールに言った警察官の方が、なにやらパソコンで打ち込み、

「駅前の交番に、かなり近いものがありますよ」

と教えてくれ、駅前の交番に電話をしてくれた。深々とお礼を言うと、本当に良かったですね、と言ってくれた。

駅前の交番に向かう。ショートカットの女性警察官に事情を話すと、私の青い財布が交番の奥から出てきた。駅前の道に落ちていたのだという。
「中が抜かれていないか、確認してください。所持金は13円です」
と言われる。さっきは見栄を張ってしまったと思う。届けてくださった方は、謝礼の受け取りを断ったようだ。なんだか申し訳ない気持ちになった。

じゃあ、受け取りの書類を記入してください、と言われる。今日はずいぶんと文字を書いた一日だった。

渡されたペンで、一文字目を書きだして、思わず声が出た。

「このペン、書きやすいですね」

ペン先が硬くて、書きやすかった。ふふふ、そうですか、と警察官が笑った。すごい書きやすいですよ。と私はつづけた。今までで、一番書きやすいです、とは言わなかった。言いたかったけど。財布を落とした分際で、あまりにも反省していないと思ったからだ。

とはいえ、字は汚いままだ。深々とお礼をして帰った。新しい街は、きっと良い街だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?