面白くない話

大学生の時、付き合っていた男の人に、その日に起きたことの他愛もない話をした。
「話が面白くないよ、オチとかさぁ」
とその人は言った。

東西線に乗っていて、私とその人は吊革を握って立っていた。

人間の話を、面白いか面白くないかでとらえていなかったので、少し驚き、私はそれまで自分のことを、根拠なく面白い話をする人だと思っていたので傷ついた。

面白い人と面白くない人の間に線がピッとひかれて、私は面白くない人の側に入れられてしまったのだ。

当時は素直だったし、その男の人に好かれたかった。だからその言葉を飲み込んだ。そうやって傷つけられると、今度は人を傷つけてしまうもので、私は面白いか面白くないかで他人をたくさん判断してきた。

あれから10年以上たち、インタビューの仕事をするようになった。でも私は人の話を聞いて面白くないと思ったことがない。「とりとめのない話でごめんね」と謝られることも多いが、たいていは本当に面白い。

だから、面白くないと思うなら、聞き手の問題で、オチがあるほうが面白いというのは、あなたの狭い価値観の中ではそうなんでしょうね、と今は言い返せたり、思ったりできる。

それに、他人に線を引く傲慢さは、私に一定の高揚感を与えてくれたが、継続するのは苦しいものだとわかった。自分がどこにいるのかが問われるからだ。他人から問われなくても、自分から問われる。自分を「面白い」側に入れて線を引く場合は、そんなのは欺瞞だろうとすぐに気づくからだ。

でもふとした時に、私は面白くないからなぁと、思うときがある。東西線の吊革の、つるつるとしたプラスチックの感覚も思い出す。吊革のぐらぐらとした心もとなさも。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?