こしあん/つぶあん
こしあんが好きか、つぶあんが好きかと聞かれて、心底どうでもいいと思っていた。
アンパンを食べるときに、こしあんかつぶあんか気にするのだろうか。でもそういう質問があるということは、一定の人は強い気持ちをもって、こしあんか、つぶあんかを選択しているのだろう。
どうしてそんなことを思ったのかとえば、昨日の夜、「アンパンが食べたいと思ったことがないな」と気が付いたのだった。もう寝ようとする直前であった。
私の使っている無印の布団カバーは、見た目も肌ざわりも申し分ないのだけれども、布団とあまり良い関係を結べていない。布団カバーの下のほうが閉じられないので、布団はカバーの中で意思をもったように形を変形させる。私の意思なんておかまいなしである。布団カバーは私を端から端まで覆ってくれない。私のおなかのほうにもりもりと不格好に高く盛り上がっている。まるでカメの甲羅のようだ。手足を縮めて窮屈な思いをしながら布団におさまるか、手足を伸ばしてのびのびとした気持ちで寒い思いをするか。どちらかしかない。
無印という会社は、そこそこの値段で、実用的な道具を提供しているのだと思っていたが、なぜこのような商品が生まれてしまったのだろう。どのような意思決定で、この商品が生み出されたのか、と架空の会議を考えることもある。無印の会議室の机は無印なのか、社長机も無印なのかしら、と考えているうちに、眠りに落ちていく。
昨日も同じようなことを思ったのだが、気づけばアンパンのことを考えていた。布団の不格好さに、私はカメではなく、どちらかと言えばどら焼きなのではないか、という連想から、アンパンのことを考えはじめたのかもしれない。
私はアンパンが好きだが、特に食べたいと思わない。食べるならどんなアンパンがいいかと想像した。想像するとすぐに理想のアンパンが出てきて、私は頭の中でかぶりつく。するとそれは、つぶあんであった。ああ、私はつぶあんが好きだったのかと気づいた。
というわけで、昨日の夜に私はつぶあん派である自覚をしたのだけれど、やっぱり心底どうでもいいなと思っている。つぶあんのほうが、豆の触感が残っていて好みであるが、こしあんだからといって特にがっかりしない。だが、世の中のこしあん派は、つぶあんだとがっかりするのではないか。
つぶあんが好きな人は、どっちが好きか聞かれると、「まぁ、つぶあんかな」程度の返事をするが、こしあんが好きな人は「こしあん!」と答えそうな気がする。なんなら「こしあんは食べられるけど、つぶあんは……」と言う人もいそうである。思い入れが違うのである。
食の傾向として、こしあん的なものと、つぶあん的なものがあるように思う。
例えば私は、カレーにじゃがいもが入っているのを好まない。触感が邪魔だなと思ってしまうのである。これは、こしあん的感覚だといえる。
「カレーにじゃがいも入れる派? 入れない派?」
と聞かれたら、「入れない派!」と熱く答える。「だいたいさ~、カレーのおいしさって言うのは」と聞かれていないことも喋ってしまうだろう。
一方で、カレーに対してつぶあん的感覚の人は、
「えっ、じゃがいも? まぁ、あったら嬉しいけど。うん。じゃがいも美味しいよね」
くらいの曖昧なことを言うのではないか。たぶん心底どうでもいいと思っている。
そして私は汁物についても、こしあん的な感覚を持っていて「具だくさん」がアピールポイントになる感覚が一切理解できない。汁物は溶けだした具の旨味を味わうもので、具はおまけだと思っている。むしろノイズである。具って仕方ないから食べているんじゃないの? 汁物の汁物らしさは、汁にあるわけで、具が食べたい人は鍋でも食べればいいんじゃないの? ポン酢でもつけてね! くらいのけんか腰である。
つぶあん的感覚にこだわりを持っている人もいるのかもしれないが、こしあん的感覚よりも穏便なように思える。「具だくさんだったら嬉しいですね」くらいのコメントをにこやかに残すのではないか。
こしあんはタカ派、つぶあんはハト派。
そして人間の中には、こしあん的感覚とつぶあん的感覚は同居している。
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