ペヨトル興亡史3−1
暑い締め切ったアトリエの中で、あやつは俺のモデルをしながらうたた寝をしていていた。モデルをしながら、寝るやつがあるか、と言おうと思ったがその言葉を飲み込んで、このまま描いたほうが面白いものができるかもしれないと思い直した。
ダメ男の肖像を描きたいからモデルをやれと言った時、やつは俺の死絵を描くならやっても良いと言った。
顔を髑髏にしてやろうか……。首を飛ばしてやろうか……。首が飛んでも俺は死なない。そんなことを言いそうなやつだからな。今野は。
うな垂れて眠っていた、今野が顔をあげた。そして言ったのだ。
首が飛んだ夢を見た。と、自分はもう駄目かもしれないと。
母親と母親の金と実家の鍵を弟に持っていかれたから?か。と聞くと
それはもちろんある。さらに生きていけないのは、夜想でやってきた幻想の捉え方が、もう通用しないのかもしれないと。
自分には寺山修司の演劇が、青木画廊で身に付けた幻想のあり方が、土方巽と出会って感じた踊りが、勅使川原三郎や、井上八千代が幻想を見せてくれ、それを体験してきた。ヨーゼフボイスの身体から灰色の粉が舞ったのも見た。それは、その感覚は今もそのまま生きている。
今回のカフカの取材でモードの松本修にあって、少し違ういやかなり違う演劇のあり方を体験した。かつて天井桟敷に居た、高田啓徳や福士恵二の身体を通じて、その魅力と有効性を体感した。絵画も青木画廊で出会った川口起美雄に直伝された混合技法を幻想の技法として身体に染み込ませた。
さて、でもその幻想は有効なのか……。
やつはまたうな垂れてぶつぶつ言っている。
名残りの夢。そう1行書いた栞が挟まれて夜想『山尾悠子』特集がとどいて、ぱらぱらとめくった時に思い出したのは、そうアトリエで灰色に打ちひしがれていた今野だった。
ぱらぱらとめくった山尾悠子特集の夜想にあいつは、居なかった。
巻頭の金井美恵子『入子話』は、『飛ぶ孔雀』の文庫本の解説と対になっていて、文学の[幻想]について書いている。
____書くものたちは、当然のことながら書くよりもずっと多くのものを読んでいるので、読者である私たちは、何冊もの本、何人もの作者の言葉でできた世界の影を一冊の本の背景に見ることになる。
それ/幻想を眼に見える映像として実際に見たことがあるのかもしれないと、ヘルダーリンやネルヴァルのように思わせる詩人は存在するが、たいていの者たちはそうした狂気や幻想を「本」によって経験し、言葉の性格上、増殖する生命を生きることになるので____________
そうだ。はじめて気がついた。やつは、夜想も放棄せざるを得ないところにまで追いつめられているんだ。
夜想はオブジェの幻想。今野は幻視者であるのだ。書かれたものに生起する幻想ではなくて、現実の、舞台の上の身体や、インスタレーションした美術に幻想を見える人間なのだ。そして作家と共闘してそれを伝えようとしているのが夜想なのだ。
幻視者である作家の、身体を通して見えるものを、共感できる読み手を必要としているのだ夜想は。
やつは見巧者になろうとしていた。なっていると思うし、その先、作家の手とも共感したいと願っていた。そんなことを希求しているやつの雑誌が、今、読者にとって必要だろうか。そして共感できるだろうか。
やつは、分かっていたのだ。自分がもう存在していないことを。
夜想『山尾悠子』特集はとんでもないできのよい編集だ。ダメ男の気配はない。
やつはどうしているのだろうか。大丈夫か?最後の砦も明け渡したように見える。
俺は……。
やつのためにできることはない。
せめて未完成だった、寝姿のピエタ。巨大なオブジェを抱いて、骸骨の首を飛ばしているピエタを完成してやろう。いや、永遠の未完、描き続けて完成しないカフカのピエタだ。
それが俺のレクイエムだ。
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