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 「モースブラン冬の旅」

 モースブランが、その村に着いたのは陽も沈んだ夕暮れだった。雪と泥の混じった表通りにある宿が見えてくると、女将が入り口から出て待っていてくれた。二階に四室の宿、一階はビストロ。寂れたこの村では客も少ないのだろうが、女将が待っていたのは、自分自身の夕食と酒場の準備に取り掛かりたかったためらしい。
「もうすぐで真っ暗になるところでしたよ」 女将は足早に二階の角部屋へ案内すると、暖炉の薪が少ないことと、夕食のスープは自分で温めるように言い置いて、階段を下りて行った。パンとチーズがテーブルの上にあった。モースブランは暖炉の前の椅子に腰かけ、冷え切った足を暖めながら、言われた通り小鍋のスープを温めた。
 パリから三日間の旅だった。サンブリウまでは鉄道を使えたが、そこからは北海岸沿いの道に入り、昨日は荷馬車に乗せてもらえた。今朝早くパンポルの宿を出てからは、ずっと歩き通しだった。本当にこの村で、あのコーテツが客死したのか?モースブランはまだ半信半疑だった。それに、葬儀の問題はおそらく片付いているとして、この辺鄙な田舎で当局の目がどこまで届いているのか?慎重に話を持っていかなくてはならない。
  モースブランは、カチカチの黒パンをスープに浸して食べ、やがて足も温まったので階段を下り酒場へ向かった。カウンターには一人の中年と見える男が座り、女将と話していた。隅のテーブルには旅の者が四人、ひっそりと飲んでいた。他に客はいなかった。モースブランは、カウンターの隅に腰かけるとジンを注文した。その間もカウンターに座った男はずっと喋っていた。
「このみぞれ雪じゃぁ、畑の荒起こしは無理だって言ってるのに、シャトーの主様は聞かねぇだ。新しく買った土地に早く種を蒔きてぇと言う。気持ちはわからねぇでもねぇが、お天道様に逆らっては上手く行きっこねぇだ」
 女将は、モースブランの前にジンを差し出すと相槌を打った。
「畑のことは何も知らない主様だ。麦の収穫しか頭に無いのさ」
「まったくだ。無駄と分かってやる仕事くれぇ、バカバカしいことはねぇ」
「まぁ、でも、あんたは良い方だよ。この生まれた村で暮らせるんだからねぇ。若い者はどんどんパリやランスに出ていく。紡績だの石炭だのってねぇ」
 モースブランは、グラスに口を付け記憶を遡った。炭鉱か、、、リエヴァンから届いたコーテツの手紙はまだ元気そうだった。労働者の組織を作って、ストライキで対抗しなければ問題は解決しないと書いてあった。しかし、それは彼の望む道だったとは思えない。あの一九0三年の、パリで開いた絵画展を見に来たコーテツとは、一晩飲み明かし旧知の仲となった。初めて見る東洋人だった。不思議なヤツだった。彼は自由主義と個人主義を求める求道者のようでもあり、そのくせ酔えばそんな主義などドブに捨ててしまいそうな、無頼と虚無といささかの悲観を持っていた。昼間の大通りを歩くより夕暮れの路地裏を好むヤツだった。一年にも満たない付き合いだったが、よく飲み歩いた、、、。
「おかわりはいかが?」
 女将の声で我に返ったモースブランは、「エギュベルはあるかね?」
 と聞いてみた。
「ありますよ。そちらがお好みでしたか」 カウンターの男が席を立ち、店を出て行った。隅のテーブルの四人は、トランプを配り始めたところだった。モースブランは差し出されたエギュベルを一口飲み、それとなく隅のテーブルに注意を払いながら、女将に小声で聞いてみた。
「実はこの町で、知り合いの男が死んだと聞いて来たのだが」
「あら、あの東洋人のことかしら。それならこの先のサイヨウ爺さんが詳しいんじゃないかねぇ。棺桶屋の爺さんさ」
 モースブランは、隅のテーブルの一人がこちらを見たような気がしたが、定かではなかった。手短にそのサイヨウ爺さんの家を聞き、グラスをあおり席を立とうとした。
「おや、これから出掛けようというのかい?そりゃ無駄骨ですよ。サイヨウ爺さんはもうヘベレケに出来上がっている頃だし、みぞれ雪もひどくなってきている。入り口で爺さんに怒鳴られるのが関の山さね」
 モースブランは、一瞬迷ったが座り直した。
「エギュベルをもう一杯いただこう」
 隅のテーブルの四人は、トランプに熱中しているようだった。モースブランはジンを一口飲んでから、
「その死んだ男は、この村にどれくらい滞在していたのか、知ってるかね」
「ええ、ええ、ここにも一晩泊まりましたからね。随分やつれた様子でしたよ。酒場にも降りては来ませんでした。でも翌朝出掛けた後に、安物のウィスキーの小瓶が空いていました。それから二、三日して、サイヨウ爺さんの所に居候がいるって、飲みに来た人が噂してたんですよ。それからもう、一月半は経ちますかねぇ」
「すると彼は、その爺さんの家で死んでしまったのかね」
「そういう噂です。ちょうど吹雪になった晩のことで、誰だって外に出るのは無理ですよ。ましてやサイヨウ爺さんの足じゃ、医者を呼ぼうにもたどり着く前に爺さんが凍えてしまいますからねぇ。その人は翌朝冷たくなってたそうで、爺さんは泣きながら棺桶を作ったそうですよ」
「そうか、最後は医者にも診てもらえなかったか」
 モースブランは酒代と、明日は早く発つからと宿代も済ませて部屋に戻った。テーブルの四人はまだトランプに興じていた。

 翌朝、薄明るくなった頃にモースブランは宿を出た。道は昨晩のみぞれ雪が、凍っている所とシャーベット状になっている所が混じり合っていて、歩きにくかった。やがて朝日が射し始めた頃、モースブランはサイヨウ爺さんの家の扉をノックした。
「誰じゃい?朝早くから、ご苦労なこった」「コーテツの友、モースブランという者です」
「モースブラン?おぅおぅ、話は聞いていますだ、お入りなせぇ、カギは掛かってねぇです」
 扉を開けたが、中は暗くて何も見えなかった。薪を燃やした匂いと微かにアルコールの匂いがした。じきに目が慣れてきて、モースブランは一歩中に進み扉を閉めた。小さな小屋だった。中央には作業台が一つあり、その脇の壁にはさまざまな道具が掛けてある。右奥に水瓶と小さな炉、左奥には狭いベッドがあった。入り口の脇には、作りかけの棺桶と材木が立て掛けてあった。二つある椅子の一つをサイヨウ爺さんは勧めてくれた。モースブランは、おおよその見当は付いているものの、コーテツの死因について尋ね最後の様子を聞いた。サイヨウ爺さんは、うつむきがちに話し始めた。
「あのお方は肺を病んでおられたんで。もう自分の寿命をご存知だったんでしょう。北の海が見たい、最後にそれだけが見たいと言っておられた、、、。ここに来た時には、もう暗くなって吹雪いていて、先には進めなかったんですよ。この裏の物置でいいから泊めてくれってね、、、。いやぁ、話は尽きねぇんでさぁ。こんな所でよかったら、昼からでも飲みやせんか?ゆっくり話しやしょう。あっしも、片付けてしまいてぇ仕事もあるんで、大急ぎでとりかかりやす」
「わかった。お世話になろう」
 モースブランは、海までの道と酒屋の場所を聞いて、いったんサイヨウ爺さんの小屋を出た。もう春先とはいえ、北の海は荒れていた。岩場には荒波が砕け、飛沫が煙の様に流れていた。モースブランは、かつてコーテツが「海は荒れ狂う日本海がとても美しい」と言ったことを思い出していた。日本海は知らないが、ここだったんだろう。そうだ、ヤツの魂はこの海に共鳴しているんだ。北からの鈍色の雲が襲い掛かってくるような、みぞれ混じりの雪が横殴りに吹く抜けていく、そんな海だ。北の闇に秘められた情念を、モースブランはコーテツから受け取ったような気がした。背中に北風を受け、モースブランはぬかるむ大通りを歩き、村でただ一つの雑貨屋に立ち寄ったが、そこには安酒しか置いていなかった。昨晩のビストロに立ち寄り、女将に訳を話しエギュベルを一本分けてもらい、肴にと料理を見繕ってもらった。女将が早速取り掛かると言うので、珈琲を注文し待つことにした。窓際の椅子にもたれ雲行きを眺めていると、昨晩の四人が階段を降りてきた。三人はそのまま出て行き、一人がモースブランに近寄って来た。
「失礼ながら、タカーシ・コーテツのお知り合いですかな?私は総合情報中央局から来ましたガディ・ゼルノーと申します。少々お話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか?」
 モースブランは内心、やはりと思いつつ、彼の礼儀をわきまえた姿勢に、
「どうぞおかけ下さい。私はモース・ド・ブラン、画家です」
 と席を進めた。
「恐縮です。やはり画家のモースブランさんでしたか。実は、タカーシ・コーテツがある人物に宛てた手紙に、暗殺計画ともとれる部分がありまして、それでこんな辺鄙な村まで出張して来ている訳でして」
「それはご苦労なことです。しかし、コーテツは決して他人の命を奪うことなどしない人だ。そうだ、彼はタカーシと言っていましたな。久しく忘れていましたよ」
「この村にはどれ程ご滞在の予定ですかな」「まだ何とも、なにせ死亡通知を受け取ってから、ようやく昨夕着いたところですからな。これから、コーテツを葬ってくれた棺桶屋の爺さんに、最後の様子などを聞きに行くことになっています」
「何故、タカーシ・コーテツは最後にこんな所に来たのでしょうな」
「今朝、爺さんから少し聞いたところでは、最後に北の海が見たいと言っていたそうですよ。彼の故郷は、東洋の北の海辺の町だったようですから、故郷を感じたかったのでしょう」
 ガディ・ゼルノーは微かに落胆の色を浮かべ、
「いや、どうも、お邪魔いたしました。それにしても北風の厳しい土地ですな。モースブランさんもお身体に気を付けて下さい。失礼します」
 店のドアが閉まる音が、表の北風にかき消された。総合情報中央局か、最近できたと聞いてはいたがご苦労なことだ、すると先の三人は、サイヨウ爺さんの所に聞き込みに行ったということか、爺さん、仕事を中断せざるを得なかったろうな、とモースブランが思いを巡らしていると、女将の声がビストロに響いた。
「出来ましたよ」
「ああ、ありがとう。先に勘定を済ませておこう。もう少しここにいてもいいかな?」「どうぞ、どうぞ、ごゆっくりなさって下さい。風が強いのも昼前までですから」
 モースブランはスケッチブックを出して、窓から見える表通りを描き始めた。ほとんど人通りのない閑散とした道が、北の海辺に続いている。表通りと言っても、途中に小さな教会があり、両側に数軒の農家や倉庫らしき建物があるだけだ。ビストロの南側には雑貨屋が一軒あり、同じような家並みが数軒続き、少し離れた場末には鍛冶屋が一軒あるだけだった。みぞれ雪でぬかるんだ道に、馬車の轍が影を落としていた。頃合いを見計らいモースブランは、ビストロを後にしてサイヨウ爺さんの小屋に向かった。先客は既に立ち去っている様子で、サイヨウ爺さんは、棺桶を荷車に縛り付けているところだった。
「あぁ、これはこれは、なにせ急な客がありやして、仕事が遅れやした。なに、届ける所はこの先で、すぐ戻ってきやす。中で先にやってて下せぇ」
 早めの昼食がてら飲み始めた二人は、酔いが回って行くほどに話がはずんでいった。「あの方は騎士の様な人じゃった、いつも背筋がピンとしてましたわい」
「そうだ、どんなに酔ってもピンとしていたな。こんなこともあったよ。パリの裏通りで飲み歩いていて、ゴロツキにからまれた時も、相手を魔法のように投げ飛ばして難を逃れた、、、そうだ、ムガイリューコダチの技と言っていた」
「そうそう、それで思い出しやした。あなたに渡してくれと頼まれていたんだ。そのムガイリューに関わる物なのか、、、魂の欠片だと言っていましたよ」
 サイヨウ爺さんは、鍔をひとつモースブランに手渡した。
「欠片にしては重い、、、確かに受け取った」
 モースブランは首を垂れ、丁寧に胸ポケットに仕舞った。
「彼は、ここにたどり着くまでの話を何かしてたかね」
「いえ、以前の話はほとんどなさりませんでした。ただ、長く炭鉱で働いて肺を患ったことだけで。むしろこの辺の暮らしぶりの話を、興味深げに聞いていなさった。あっしは自分のこれまでの来し方を、まるで親兄弟にでも話してるような気がしやしたよ」
「そうか、自分の故郷と重ね合わせていたのかもしれないね」
 サイヨウ爺さんから聞いたコーテツの一ヶ月ほどの暮らしは、サイヨウ爺さんのための薪集め、水汲み、そして時に魚を釣ってくることだったようだ。サイヨウ爺さんはおおいに助かったようで、懸案になっていたマリア像の木彫にも取り掛かることができ、結果としてコーテツの葬式まで出してやれたという話だった。その晩は、コーテツが寝泊まりしていた裏の納屋に泊めてもらい、翌朝コーテツの墓に案内してもらった。細い板切れがポツンと立っているだけで、周りの十字架の中で一層寂しげだった。
「これは、ソツーバという物だそうで、表の東洋文字もあの方自ら書かれました。あっしにはピンとした背筋に見えまさぁ」
 サイヨウ爺さんはしきりに涙ぐんでいたが、モースブランは悲しみ以上に、心の中には叫びが充満していた。なんで、ここで、死んでしまったんだ!ヨミガエレ!コーテツ!

 帰路、モースブランは、十年前のパリでのコーテツとのやり取りを思い返していた。「城があって、領主が君臨している時代は終わった。一人一人が平等に暮らせる時代となるはずだった。ところが、資産家が産業を一手に握り、政治家と結託して利を貪っている。領主が二人に増えて君臨しているようだ。しかし、いずれその時代も終わる。僕らは時代を進めるように生きるべきだ。社会変革だ」
 とコーテツは言っていたが、自分は、
「君は社会変革の道を生きるべきだというが、僕はそれ以上に一人一人の自由を重んじる」
「確かにそうだ。その通りだよ。しかし、資産家と政治家に好きにさせていては、一人一人の自由も死ぬんだ。圧政、というか、複雑に歪んだ政治に支配される時代になってしまうんだよ」
 モースブランは揺れる客車の中で、コーテツは今にして思えば、集団主義と個人主義の間を揺れ動いていたとも言える。彼の言う社会変革も抽象的な概念の域を出なかった。社会と個人、どちらに重きを置くか、どちらを自分は選択するかという問題を、我々は論じていたということだったんだ。そして私は、今、絵を選択している。私は集団を信じることができなかったからだ。しかし、コーテツよ、見ていろ。私は、
「おまえを呼ぶ絵を、呼び戻す絵を、おれは描く!」
 思わず口に出して、モースブランは周りの客席を見渡した。誰も気に止めている風もなく、列車の音だけが響いていた。モースブランの頭の中には、北の海辺の村に吹き荒ぶ寒風と、揺れる梢と、そしてコーテツの魂が渦巻いていた。

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