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あらゆる全ての唄がハローとグッバイであるということ(アンチミームに関する駄文)

前書き

「今日のライブ、これだけたくさんの人が来てくれて、でもその誰一人欠けても、こんないい夜にはならなかったと思うし、本当に感謝しています。どうかまた会いに来てください。」

いつか行ったライブで好きなミュージシャンがこんな趣旨のことを言っていた。

ライブの熱に浮かされてじんと来る自分と、「そんなわけないだろう」と少し醒めている自分もいた。

タイトルについて

アンチミームという曲を書きました。

自分の曲を解説するのは野暮だと感じるタイプなのですが、想うところがあったので備忘録代わりに珍しくセルフライナーノーツを書いてみます。(恥ずかしくなったら消すかもしれません)

ミームという単語は今や当たり前のように目にする言葉ですが、改めて定義を見てみると

インターネットミーム(英:Internet meme)とは、インターネットを通じて人から人へ広がってゆく文化・行動である[1]。一般的に、ジョーク、噂話、動画、ウェブサイト等のウェブ上のコンテンツが伝播していく現象を説明する際に用いられる。発生元の形のまま広がる場合もあるが、他ユーザーの派生物がしばしば生み出され発展していくことがその特色とされる[2]

WikiPedia「インターネット・ミーム」より引用

タイトルのアンチミームは辞書風に書くと「anti - meme」でしょうか。
ここでのアンチは日本語でよく使う、いわゆる「アンチ巨人」のように、巨人が憎くてたまらない!というニュアンスではないです。(この例え、古いかもしれませんね)

ミームが「強く拡散し、伝播していくこと」だとしたら、それの反対。「簡単に伝わってしまうことへの抵抗」あるいは跳躍して「ずっと自分の中にだけあって、どうしても伝わらないもの」それはそのまま「捻くれ続けて戻らない自分」でもあり「伝えることから逃げてきた自分」であって

ただ、ちゃんと調べてみるとアンチミームという言葉(熟語?)は既にあるようで、英語が堪能な方からすると、とんでも和製英語なのかもしれません。
でも、なんとなく響きが気に入ったのでこのままで。

曲を作ることについて

子供の頃に音楽を聞いて、そこに乗る言葉を聞いて、自分が世の中に感じている、心の底で想っている不自然や不調和や不協和を、どうしてこの人たちはうまく表現出来るのだろうと、
よく音楽に救ってもらったと言う。救済は大袈裟な表現だと思う。でも、言葉遊びじゃないけど、自分は自分の感情を音楽に掬ってもらったような気持ちでいたし、なら、誰かに掬ってもらわずとも、自分の気持ちくらい自分で掬いたいと思って、誰にも見せずに詩を書いたりメロディをつけたりし始めました。
誰に見せるものでもないから、言ってしまえば自慰行為だし、独りよがりだし、表現というよりは、ほとんど日記ですらあると思います。

曲を公開することについて

詩を書いて、メロディをつけて、時折読み返したり振り返ったり、やっぱりそこには自分がいて、「あのときは暗かったな」「こんなことに傷ついていたな」
それはやっぱり日記を読み返すようであり、あるいは鏡を覗き込むようでもあって。

そんなふうにしてずっと過ごしていたのですが、ある日、ふと気が変わって、今まで書いた曲やこれから書く曲を世に公開してみようと思いました。

かれこれ3年くらい経つでしょうか。まー、鳴かず飛ばずなこと!笑
心の何処かで自分の曲って案外あっさり世間に受け入れられるんじゃないのと思っていましたが、当然のように幻想でしたね。
日記は所詮日記だし、簡単には伝わらないし。

そりゃそうだよな、と思います。
音楽に掬ってもらったと同時に、若くて青くて未熟だった頃は、何故こんな何も掬えないような音楽が売れているんだ!と憤ったり
それは、その音楽に掬われている誰かを無視した、自分本位で浅はかな想像力に欠けた視点だし
限られた人しか掬われない音楽を聞いている自分は選ばれたんだとふんぞり返ったり
それは、言うまでもなく傲慢で失礼な態度だし
今はもうそこまで捻くれてはいないけれど、それでも、他人という視点がいつでも自分には欠けていて、自分のことばかりで、つまり伝えることから逃げてきて、たとえ伝播されなくともそれはそれでいいんだと、むしろ簡単に理解されてたまるかと居直ったり、嗚呼、なんて自分は複雑なんだ!

それって本当に素晴らしいことなの?

曲を公開してみて、数字にすれば少ないかもしれないけど、聞いてくれる人やいいねしてくれる人、コメントをくれる人は確かにそこにいて、本当に嬉しかったです。日記のようなものに過ぎないけれど、それを肯定してもらえると人生を丸ごと認めてもらえたような、これはお世辞ではなく、本気でそう思います。不出来で恥ずかしい部分も多々あるけれど、公開して良かったなと思うし、今は生きがいだとすら感じます。本当に反応を貰えたときの喜びったら、聞いている人が思っている何百倍も嬉しいですからね!いいねしてくれた人のことは全員認知していると言っても過言ではないです。

だから、誰一人欠けちゃいけないって言ってくれたのだって、きっと半分は本当なんだろうな。
この感覚がきっと、他人と接続するということで、自分に欠けていた視点で
そうやって繋がってくれた人に自分は何か言えただろうか
あるいはこれから繋がっていく人に自分は何を言うのだろうか
何を言っても結局伝わらないような気がするし
何を言ってもやっぱりもう遅いような気もするし
そもそもわざわざ伝えるほどの言葉は自分の中にない気だってするし
掬えるものなんて自分にあるんだろうか
でもこれからも唄を作るんだろうな
それ以外の方法を知らないので

アンチミームはきっとそういう唄です。

ハローとグッバイについて

今、改めて自分の曲を振り返ると、少し見え方が変わったような気がします。
そこにいるのはいつも通りいつかの自分だけれど、でも思い出すのは聞いてくれた誰かのことのようで。

旅行先で、通りがかった知らない人に写真を撮ってもらって、その写真に写っているのは自分だけど、見るたびに撮ってくれた人のことを思い出すような。この写真はひとりじゃ撮れなくて、向こう側に誰かがいるんだって。その人はきっとそんなワンシーンを次の日には忘れてしまうけど。大事に写真を持っているのは自分だから。

あらゆる全ての曲は、きっと、聞いてもらった瞬間にハローになってグッバイになるんだなと思う。想いが唄になって、たくさんの人と出会って、そして別れていくんだなと思う。たった数分、そんな短い時間で何を大袈裟なと思うかもしれないけど。

入学式の次の日に卒業式をやるみたい。大きな声で唄って、わあわあ泣いているのは自分だけ。隣の人が言う。「さっき会ったばかりで、あなたは私の何を知っているの?」何も知りません。でも恥ずかしげもなく思う。どうかあなたのこれからに幸多からんことを!そして、長い人生の中で、いつかまた会えますように。

私は私でがんばります。

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