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小倉城下町さんぽ 秋月街道⑧片野周辺

片野周辺

(周辺の地図を載せました)
九州有数の交通の要衝、小倉北区・三萩野交差点を過ぎて最初の交差点(黄金一丁目)から左に。

まっすぐの道(片野6号線)が北九州市民球場に続いています。

黄金1丁目交差点。
まっすぐ行くと「市民球場」

ここの通りはかつてこの先にあった三萩野競馬場に行くために作られたものだと地元の人に聞きました。
右手に「角神社」。

約1200年前の貞観2年(860)、神功皇后がかぶった甲を門司・甲宗八幡に納めるときここに1泊したという由緒があり、片野、三萩野、黄金地区の氏神となっています。

角神社
角神社拝殿
角神社鳥居

境内に文政4年(1821)と刻まれた猿田彦等がありました。

角神社境内の猿田彦

片野というのは現在は三萩野の南にある地名ですが、古くは魚町なども含む広大な地域の名称でした。

紫川の東岸はほとんどが砂洲で、古くは海辺の野原であったことから「潟の野⇒片野」という地名になったのではないかといわれます。
もう少し進み三萩野病院の交差点を右折、横に入ると「西蓮寺」。
西蓮寺は以前は鳥町(小倉北区)にあり、今のJR小倉駅建設の時、現在地に移転しました。

西蓮寺山門
西蓮寺本堂
西蓮寺本堂の額

豊臣秀吉の九州平定の際、黒田官兵衛と共に来た一世了空は天正15年(1587)中津に西蓮寺を建て、住職となりました。

その後、細川忠興が豊前を拝領した時、中津から小倉(鳥町)に移ったということです。
1600年代には「キリシタン禁止令」による城下の踏み絵が行われ、判行寺と呼ばれたなどの歴史を持ちます。

当寺が鳥町にあったときには、目通り9尺(約2.7m)もある本堂を見下ろす大イチョウがあったそうで、昔は海行く船の目印となったと言われています。
昭和3年、当時の住職と親交のあった詩人、野口雨情の歌詞に西蓮寺が現れています。

「小倉西蓮寺のお庭の銀杏は 月も宿せば 日も宿す」。

野口雨情は『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『波浮の港』『船頭小唄』などで有名な童謡詩人・作詞家です。
当時八幡や小倉に文化人のサロンがあり、よく来られていたようで、皿倉山の帆柱ケーブル山上駅に詩碑があります。

皿倉山にある野口雨情の詩碑

西蓮寺は若い副住職さんが「地域に開かれた寺院にしたい」と、雑貨や軽食のイベント「おてらマルシェ」や、近隣パン店に呼び掛けて「おてらパンパク」などの開催に取り組んでいるのが新聞に載っていました。

#秋月街道 #小倉城下町 #北九州市 #片野  #

















小倉城下町さんぽ 秋月街道⑩富士見町~城野

元の旧北方線電車道に戻ります。

右手に浄土真宗「正圓寺」。

東京・築地の西本願寺のようなモダンな建築です。

城野四つ角に向かって進み、信号の先でJR日豊線のガード下をくぐると小倉南区に入ります。

この辺りは富士見町といいますが、江戸時代、城野に「富士見の茶屋」があったのが由来。若園と同様に戦後名付けられた地名です。


「お茶屋中最も美麗にして 御成り座敷から足立山を眺めれば山姿富士山に似るを以って富士見の茶屋と…」と、足立山を富士山に見立てて楽しんだのでしょう。

茶屋といっても、お茶屋さんでも、カフェでもありません。

藩主や役人が狩りや地方の見回りに来た時、休息する所です。

藩内で最も美しい茶屋だったそうです。

若園の若宮神社辺りにあったとの説がありますが、城野は広く一帯は陸軍練兵場だったので残っておらず正確な場所はわかりません。

ご存じの方がおられたら、教えてください。


周辺からいろんな角度で足立山を眺めると、確かに美しい姿に見えました。


元イオン前のバス停横の細い道を入ると、臨済宗妙心寺派「泰清寺(たいせいじ)」 。

泰清寺は太宰府・戒壇院と並んで、日本で最初の禅寺である博多・聖福寺の山内付き寺院となっています。

本堂前は泰清寺が経営している花園保育園の運動場になっており、園児達が元気よく遊んでいました。

「銀河鉄道999」の作者松本零士さんの母校、小倉南高校の前を通り、城野三差路の信号から右は旧電車通り。電車を通すため切り開いた道です。

左斜めへ伸びる旧道に入ります。

左手、料亭「川蝉」の横、一段高いところに墓地。

この中に「櫟木(くぬぎ)哲造の墓」があります。

西南戦争の折、小倉駐屯の第14連隊は熊本・植木で西郷軍に連隊旗を奪われました。責任を感じ自決しようとした乃木希典連隊長を説得して止めたのが櫟木哲造兵曹長。

この兵曹長の行動を称え、在郷軍人会がこの墓を建てました。

この時、連隊旗を奪われたことが、のちの自刃につながったのではといわれています。

小倉城下町さんぽ 秋月街道⑪城野

国立小倉医療センター方向へ通りを南に進みます。

左手、スーパーマックスバリュー手前の道に入り、辻で左折、細い道を行くと民家の間に小さな墓地。その中に「化龍先生の墓」①がありました。

化龍先生とは小倉藩士福島正信のことで、歌道、茶道、生花に通じ、寺子屋でも教えていました。

藩主が狩りの時に休憩した「富士見の茶屋」の司も務めていたそうです。門人たちが明治9年に遺徳を偲んで墓を建てました。

スーパー真裏の上城野公民館敷地内に「五輪塔と地蔵堂」③。

一緒に一石五輪塔、花こう岩で造られた万霊塔や、江戸墓も大切に祀られています。

辻から奥の道路角に文化2年(1805年)の銘が刻まれている石碑。②

表面に、青面金剛(しょうめんこんごう)と彫られており、病魔を退散させる威力があるものとされています。

元の道、いわゆる「城野街道」に出ます。

小倉城からはるかに離れているのになぜ城野?

そのわけは、現在の若園一帯に東西200m南北200mくらいの「丸城」という平城があり、その裾野ということで城野と呼ばれたいうことです。

応永戦覧記に「大内盛見が、城野台に陣す」とあります。

戦後まで城台の地形、濠の跡など残っていたそうですが、現在、遺構は全く見られません。

城というと小倉城のような天守のある堂々としたものを思い浮かべがちですが、昔の城は石垣もなく、土塁と木で出来た質素なものです。

ちなみに「城(しろ)」という字は、「土」と「成」という字から出来ており、土を盛り上げ、人を入れて安定させるという意味を表しています。

城が天守を備え立派になったのは、織田信長の安土城以降だといわれています。

城野地区は明治30年以降の北方の軍事施設の拡張に伴い、商業・住宅地として発展しました。

左手に真言宗「光明寺」④。二市一郡新四国霊場の本部の看板がかかっています。

小倉や門司を歩くと、各地に「二市一郡新四国霊場」と書かれた小さなお堂によく出会いますが、ここが本部なんですね。

北九州市にはほかに「北九州西国三十三観音霊場」「筑前国西国三十三カ所」や「帆柱四国八十八カ所」など霊場がありますが、根強い信仰があるようです。

向かいに浄土真宗「専妙寺」⑤

創立は永正2年(1505)、開基は村上治右衛門が本願寺の弟子となり名を道念と号し修行、帰国して一宇の坊舎を建立したとあります。

長州との戦争でこの辺りは激しい戦いがありましたから、その際、焼けたそうです。


小倉城下町さんぽ 秋月街道⑫城野から北方


通称「城野街道」を進みます。

その先左に「国立小倉医療センター」。

真向かいに「天疫(てんえき)神社」。

病院と神社、病気平癒には最強の組み合わせですね。

境内にはクスノキや赤松等の大木があり、北九州市の保存樹に指定されています。 


この辺りが、城野と北方の境でしょうか。

以前はここに一里塚があったということです。

北方は、古くは蒲生郷に属し、南北に分け、北県(きたあがた)・南県(みなみあがた)といったことによるそうです。


 現在の「国立小倉医療センター」は、明治8年、歩兵第14連隊が創設され、旧小倉城内(三の丸)に営所病院として開設されました。


明治21年「小倉衛戍(えいじゅ)病院」に名称を変更、同32年4月に北方に移転しました。

森鷗外さんが第12師団軍医部長として小倉に赴任しましたが、たびたび指導、視察で来院したようです。


太平洋戦争中に陸軍病院となり、終戦後は国立小倉病院、そして平成16年に現在の国立病院機構小倉病院(病床数400床)に。

構内には、「衛戍病院」「陸軍病院」記念碑があり当時の歴史を物語っています。


城野・北方の発展は、明治29年ごろから北方に第12師団に属する各部隊の駐屯地建設が始まり、同30年7月に兵舎が完成、城内にいた新設の歩兵第47連隊がまず移転してきました。

今の国立小倉医療センターの周辺には瞬く間に町並みが形成され、客馬車や鉄道馬車まで走り出しました。

歩兵連隊を皮切りに明治30年9月、騎兵12連隊が移ってきました。

その後続々と、野戦砲兵12連隊、工兵12大隊、輺重兵12大隊とやってきました。

軍隊が北方に来てから出来た現医療センター前の通りには、軍隊をお得意さんとする商店が47連隊正門付近まで軒を並べていました。

旅館、雑貨屋、飲食店、陶器店などはいうにおよばず、軍装屋・馬糧屋・瓦屋・鍛冶屋・饅頭屋などは大半が軍隊のみに依存している店でした。

昭和40年代まで面影が残っていたそうです。






小倉城下町さんぽ 秋月街道⑬北方


国立小倉医療センター前の旧道を進むと左に「北方1号公園」と北九州高校。

水・食料・武器弾薬・資材などを扱う輜重兵(しちょうへい)第十二大隊があった場所で、昭和49年、有志によって記念碑が公園内に建てられています。

ここには戦後、福岡学芸大学(現福岡教育大学)小倉分校がありました。


その先、都市高速をくぐると、自衛隊西部方面隊第4師団第40普通科連隊です。

塀の中に見えるのは明治30年頃に建てられた「歩兵第四十七連隊将校集会所」(見学は要予約)で史料館として残されています。


明治の歩兵第14連隊以来、小倉にかかわりのある陸軍史料が残されており、小倉南区横代出身の杉山元(はじめ)・元帥に関しては1部屋設けて遺品やさまざまな史料が残されています。

元帥とは大将よりも上の軍隊における最高階級で、歴代で30人しか拝命していませんが、そのうち二人が小倉出身です。


昭和20年9月12日夕方、元陸軍大臣で終戦時に3人いた元帥の一人である、杉山元帥が、終戦処理を終えた後、胸に拳銃弾4発を撃ち込んで自決、その翌日、賢夫人として有名だったけい子さんが後追い自殺しました。

前庭には、第2代連隊長乃木希典と杉山元帥の胸像があります。


小倉は「軍都」といわれましたが、小倉に初めて配置された軍隊は「西海道鎮台」。

明治4年(1871年)のことです。

その後、明治8年(1875年)に歩兵第14連隊が置かれます。

隊長心得を務めていたのは乃木希典大将です。


明治9年10月、秋月の乱・萩の乱に出動、同10年には西南戦争に従軍、2月に軍旗が薩摩軍に奪取されるという事件が起こります。


明治31年(1898年)、日清戦争終了後の軍備拡張政策の中で小倉に第12師団が新設されました。

第12師団司令部は、森鷗外さんが軍医部長として赴任していたことでも有名です。


庁舎は小倉城本丸跡に、その他の部隊や施設も小倉城内に設置されました。今も小倉城内にレンガの門が残っています。

ただし全て収容することは難しく、企救郡北方村(現在の小倉南区北方)にも兵営(軍人が住む兵舎のある地域)が置かれました。

ここが現在の陸上自衛隊小倉駐屯地です。



小倉城下町さんぽ 秋月街道⑭小倉競馬場


秋月街道(香春街道)から少し寄り道。

北方では「小倉競馬場」に触れないわけにはいきません。


明治政府の富国強兵策で軍馬育成の重要性から競馬が奨励され、各地に競馬場が作られました。

北九州市に初めて競馬場が出来たのは、1908年(明治41年)、戸畑の名古屋崎(現在の日鉄八幡製鐵所の敷地内)というところです。

そこが製鉄所に買収され、三萩野に移転しました。


1930年(昭和5年)、三萩野競馬場が手狭になったことや、借地の期限などの理由で移転を検討していたところ、北方の第12師団が久留米に移転した後に軍馬関係の施設が遊んでいることが分かり、競馬場を運営する小倉競馬倶楽部は1坪3円という割安な価格で11万3千坪の土地を求め移転しました。

現在の小倉競馬場です。

1931年(昭和6年)7月に開場、「東洋一の競馬場」とうたわれました。

今年で開設90周年になります。

戦争による中断を経て、1947年(昭和22年)に再開、50頭の地元馬のほか大阪淀競馬場から150頭が特別列車で乗り込んできました。

1954年(昭和29年)には日本中央競馬会小倉競馬場となり、馬場をゴルフ場に開放するなど新しい試みもあり、大人気だったそうです。

1954年(昭和29年)には民営となり、馬場をゴルフ場に開放するなど新しい試みもあり、大人気だったそうです。


現在はモノレールと直結した、とても便利な競馬場として親しまれています。

場内にはレストランや日本庭園、馬頭観音、ミニ遊園などもありファミリーで楽しめるところになっていますが、新型コロナのため今は中に入れませんでした。


あの「日本競馬界のレジェンド」と称されている武豊さんも小倉競馬場をとても気に入っていて、かつてエッセイに、「プロデビューした時から小倉とは相性が良く周囲の誰にも小倉がすきだ、小倉はいいところ、肌に合う街であると言っている、縁もつよく感じる。通算1000勝も、最多勝記録を達成したのも小倉競馬場」と書いています。

ちなみに今年の小倉競馬は1月16日から2月7日まで行われましたが、コロナのため無観客での開催でした。


小倉城下町さんぽ 秋月街道⑮北方線・北九州市立大学

再び秋月(城野)街道です。

陸上自衛隊小倉駐屯地の前に北九州市立大学、ここで322号線に合流します。


北九州市立大学は旧小倉市時代の1946年(昭和21年)、旧工兵隊兵舎を利用し外事専門学校で発足、1953年(昭和28年)、北九州大学に改称、2001年(平成13年)北九州市立大学に。


今は北方に外国語学部・経済学部・文学部・法学部、地域創生学群、そして若松区・ひびきのキャンパスに国際環境工学部もあります。


著書『ペットボトルは英語じゃないって知っとうと!?』やテレビのコメンテーターで人気のアン・クレシーニさんはひびきのキャンパスの准教授です。


ここは旧西鉄電車北方線の終点でした。

当初は北方の旧道を走っていた馬車鉄道を経営する小倉軌道合名会社いわゆる馬鉄は毎年、黒字経営が続き1916年(大正5年)度の下半期、年間3割以上の配当を行う超優良会社でしたが、将来性を見越し小倉電気軌道株式会社に営業譲渡して解散することになり1918年(大正7年)1月13日に解散総会をおこなったと門司新報の記事にありました。


黒字経営とは言うものの馬車鉄道は雨の日の馬糞交じりのぬかるみ、風の強い乾燥した日には空中に舞い上がる馬糞と、沿道の人たちには評判の悪いものでしたから「馬車鉄道から電車へ」は人々に歓迎されました。


さっそく小倉電気軌道は門司―黒崎間などを運行していた九州電気軌道から電力の供給を受けることになり、魚町~北方間の電化工事に着手、1920年(大正9年)9月、香春口~北方間が開通しました。

その後香春口から魚町に延伸、これが1980年(昭和55年)に廃止になるまで市民の足として親しまれた西鉄北方線の前身です。

また、1923年(大正12年)から3年間、小倉電気軌道が馬車鉄道から路面電車に切り替えたことで不要となった客車と軌条を、「徳力軌道」(北方~桜橋間3.1km 本社・徳力)が譲り受け使用、北方駅で小倉電気軌道に連絡していました。。

しかし、当時急速に普及していたバスとの競争に敗れ廃止になったようです。

小倉城下町さんぽ 秋月街道⑯守恒


国道322号線(旧道)を南に進み守恒に入ると、左に「ナフコ」「サンリブもりつね」。

「ナフコ」はボウリングブームの時に出来た「北方ボウル」を転用したものです。


守恒はここに大きな森があったため森津根と呼ばれたのが由来だそうです。

今は北九州有数の文教地区です。


守恒バス停はかつて「大衆公園前」と呼ばれました。(路線図)

「大衆公園前」というからにはそんな名の公園があったことになりますが、地元の人に聞いたところ現在のUR守恒団地の西側、守恒地区でもっとも早い時期に宅地開発が行われた守恒一丁目付近は桜の名所で、前面に権現堂池が横たわり風光明媚な場所であったとのことでした。


都市化が進んだ今では想像しにくいことですが、守恒団地のあるところはその頃、良質のお茶が取れる茶畑でその裏の自動車学校辺りには肥料工場があって近所の人たちが働きにいっていたそうです。


交差点を左折すれば、「権現堂」バス停。

大きな権現堂下池・上池があったところです。

1979年(昭和54年)に下池は埋め立てられ、そこに「ニチイ徳力店」が開店、その後、数年を経て上池の残りも埋め立てられニュータウンができました。

ここはかつて「ニチイ」から「徳力サティ」、そして「イオン徳力店」と変わりました。

今は「マルショク新守恒店」と高層マンションになっています。


守恒は高度成長時代、「セブンアップ飲料本社工場」跡に、再開発により地元の大手スーパー「ユニード」が開いた「徳力アピロス」ができ、その後「ダイエー徳力店」(2009年閉店)、解体・建て替えで2012年に「サンリブもりつね」となりました。

スーパー変遷の歴史が垣間見える場所です。


バス停の名称「権現堂」は、かつてここに権現堂があった名残。

権現堂は地元の人の話によると、ニチイが出来た時、屋上に祭られたが、その後は不明とのこと。

何か手掛かりはないかと探しましたが、「竹林亭」前のバス道路を横切りまっすぐ上ると左に二市一郡新四国霊場の太子堂、上り詰めたところに「大権現」と書かれた鳥居のある小さな社がみつかりました。


この社がバス停の名前になった権現堂らしいですが定かではありません。


小倉城下町さんぽ 秋月街道⑰守恒から徳力


日本地図を作った「四千万歩の男」伊能忠敬も守恒を通過しました。

日記に、測量隊は1813年(文化10年)10月10日に守恒村を測量しながら通過した記述があります。江戸から664日目でした。


この日は曇りで早朝、田川郡香春町(米屋源右衛門宅に宿泊)を出立、小倉に向けて測量を始め、昼食では徳力村の庄屋「勘左衛門」が接待したそうです。

測量隊の食事は、幕府からの依頼を受けた各村々が準備しました。

もちろんお酒はご法度です。

忠敬さんは白いご飯が大好きだったそうですが、どんな昼食が出たんでしょうね。


守恒村では「植松」や「紺屋原(こうやばる)」という地名が出てきます。

「植松」は北九州市立大付近、その辺りまで守恒だったようです。


「紺屋原」は旧322号線バス通りが新322号線に向かって右折するあたりから徳力方面に向けての現在のブックオフ付近とのこと。


「紺屋原」と呼んだのは、近くに銅山があり、銅精錬の時に出た緑青水がその辺り一帯を紺色に染めたためであろう(郷土史家)とのことでした。


また「砿屋原=こうやはら」が紺屋原になったとも考えられ、小倉戦争の記録「豊国戦記」では紺屋原を砿屋原と書いています。


「砿屋」とは銅山から出た鉱石を選別、精錬する工場(小屋)の事とのことです。

守恒の旧道沿いを進みます。


右手に蒲生八幡宮の大鳥居があるところ(鳥居前)で国道322号線に合流し、モノレールに沿っていきます。


この辺りから徳力です。


徳力・守恒地区は現在、北九州有数の住宅地ですが、幕末時期の守恒、徳力の村々の世帯人口は、

守恒は21世帯100人、

徳力村は54世帯206人、

北方村は30世帯138人、

南方村は上下で60世帯284人

と至ってのどかな農村でした。



小倉城下町さんぽ 秋月街道 ⑱徳力と銅山


モノレール下「鳥居前交差点」横の蒲生八幡大鳥居を過ぎると左手に「コメダ」。

すぐ横の川は北九州屈指の桜の名所・志井川です。

まもなく満開の桜が両岸から川を覆い、夜ともなると幻想的な景色で楽しませてくれます。


「徳力」の地名は神功皇后が造船のため御船木を受けとったという古い言い伝えにより徳利木・採木と称されていましたが、細川忠興が慶長年間に「徳力」に改めたといいます。


「コメダ」の後方、左手に山に沿ってマンションが見えます。

この山は「須理山」といい、かつて銅山があった場所。

「三代実録」の元慶2年に「大宰府に企救郡の銅を採らせた」とあるそうです。


志井川に架かる橋には「金山橋」「金海橋」など鉱山があった名残が見えます。


1878年(明治11年)に小倉の豪商・中原嘉左右が中心となり須理銅山を開発、精錬所も設け、約75名の坑夫がいましたが、鉱石の質がよくなく莫大な赤字を出し2年後に中止されたそうです。

のちに富野炭坑や宮ノ尾炭坑を経営したり、持ち船で、石炭や舶来品、物産の取引をしたりと事業を広げました。


中原嘉左右(1831~1894)は小倉・室町の飛脚問屋で、小倉藩の御用商人、商法方の世話も務め、幕末の戦争の際にも香春、豊津に付き従い小倉藩の財政を支え続けました。

小倉に帰った後は今の井筒屋の場所に屋敷がありました。


中原は詳細な日記をつけていて、県指定有形民俗文化財になっています。

「中原嘉左右日記」は慶応4年(1868)4月から明治27年(1894)10月までのもので、内容は中原屋の取引覚書、業務日誌ですが、北九州の人々の生活や社会の動向をうかがい知ることができます。


日記によれば、中原は徳力や守恒にある銅鉱脈を調査して採算がとれる鉱山かどうか調べるため人を派遣していますが、調査すべき間歩(坑口)がたくさんあると書いています。


小倉城下町さんぽ 秋月街道 ⑲徳力宿

徳力は藩政時代、秋月街道最初の宿場で、享保年間に公式の御用をする本宿だった石原町が大火にあったため、1770年代(安永年間)に本宿が移されたそうです。

「本宿」とは諸大名の参勤交代や公儀の旅行などで、小荷駄の運送継ぎ立てを行うもので、問屋がこれに当たります。藩内の「本宿」は、大里・下曽根・徳力・呼野・松江・八屋など。

「半宿」は藩用の小荷駄継ぎ立てを行い、問屋の設置はなく、人馬会所詰めの庄屋や村役人がこれに当たった。藩内の「半宿」は、大村、大橋町、石原町・蒲生などです。

いま放送中のNHK大河ドラマ「青天を衝け」でも出ると思いますが、幕末の1860年(安政7年)3月3日、大老井伊直弼が水戸藩士に襲撃された「桜田門外の変」がありました。

企救郡の大庄屋「中村平左衛門日記」によりますと、こうした大きな事件が小倉に伝わったのは20日ほど過ぎたころで、領内のお達しでは、「襲撃で生き残った浪士たちが西国に潜伏しているとの噂から、各宿場においては旅人は一日の逗留を認めるのみで、たとえ病気を理由に二泊以上を申し出ても、駕籠で隣の宿まで送り届けるように」とあります。

江戸で起こった事件ですが、小倉のように離れた場所でも警戒が厳重だったのがうかがえますね。

徳力に現在、「宿場」の面影は残っておらず、想像するしかありません。



小倉城下町さんぽ 秋月街道 ⑳徳力団地


モノレール西側に九州最大の「UR徳力団地」。

総戸数2400、人口約3800人で、県内の東峰村や赤村より多いです。


北九州市は戦後、工業が盛んになり人口も増加、核家族化も進んだため、住宅不足が深刻な状況となりました。


昭和40年代に入ると、住宅公団が九州では初めて手掛ける団地開発として、徳力地区に大規模な造成を始めました。

1966(昭和41年)年暮れに最初の区画が完成。以後3年余りをかけて、現在のエリアが出来上がりました。


当初の徳力団地は、モダンな間取りがサラリーマンの生活意識とマッチして入居希望者が殺到したため、抽選によって入居者を定めていました。

そのため、当時の入居者は、医師や弁護士、大企業のサラリーマン、教員といった比較的裕福な核家族家庭が多かったとのことでした。


徳力団地を契機として周辺でも宅地開発が盛んになり、徳力・南方地区では以後30年ほどの期間をかけて大規模な区画整理が行われました。


徳力一帯は農業地域で、田んぼの大掛かりな埋め立てが必要だったので、現在の山手・企救丘地区の山を切り崩した土を運びました。


その土を運ぶダンプの通り道がそのまま現在のバス道路に、山土を取った山手地区には広大な平坦地が出現したため、ここでも宅地が造成され一般への分譲も始まりました。

徳力団地の発展によって周辺の環境も劇的に変化しました。

国道322号線は道幅が拡張され、1978年にその中央部にモノレールが開通したのも徳力団地の発展があってのこと。また徳力団地を追うようにして周辺地域である志徳、守恒、企救丘にも団地が登場しました。


小倉城下町さんぽ 秋月街道 ㉑失った古代の徳力


秋月街道をたどっていますが、今回はずっとずっと古い時代の徳力周辺の話です。

少し長文になりますがご容赦ください。


北九州は大陸に近く、古代から交流の盛んな地域です。

そのため古墳や遺跡も多く残っています。

例えば、八幡西の貝塚、若松区の小田山古墳群、小倉南区の重留遺跡、曽根の古墳群などです。

ここ徳力周辺も、田川方面に抜ける街道筋ということもあり、古代より人が生活しており、縄文後期から古墳時代、それ以降の時代まで様々な時代の遺跡が残っています。


文明は川の周辺に発達するといわれますが、徳力を含む紫川流域でも、弥生時代の遺跡の発掘調査は、城野などを含め20数か所になるそうです。


国道322号線守恒から今、桜が満開の紫川支流・志井川沿いに行くと、徳力小学校があります。


この徳力小学校校庭に残っている「玉塚古墳」は6世紀後半の築造で直径約14m、高さ約4m、複室構造をした横穴式石室を持つ円墳、と言われていましたが、現在は方墳の可能性が高まっています。

今残っているのは1基ですが、昔は、この周辺に数基の古墳があったそうです。


徳力小学校校門の前、川を挟んで反対側の「徳力けやき公園」に縄文から平安にかけての「徳力遺跡」の標識、少し上流、モノレール下からハローデイにかけて下徳力遺跡(縄文~=標識は徳力公団前駅下)、322号線マック前に「上徳力遺跡」(縄文晩期~近世)の標識が立っています。 

小倉の縄文遺跡はほとんどが小倉南区にあるそうで北区には今のところほとんどないと資料に書いてありました。

そのほか弥生時代では志徳遺跡、守恒遺跡、日の出町遺跡など。

どの遺跡も長い期間使われた複合遺跡で、複数の時代の遺物が出土しています。


上徳力遺跡もモノレール建設時に調査された遺跡の一つで、環濠(かんごう=堀)に囲まれた竪穴住居、高床建物、高床倉庫、方形周溝墓、土器棺墓などが発掘されています。


特に環濠の発見で、ムラの広さは約 800m四方ほどもあり、大きさから、研究者の間では、上徳力遺跡は「北九州市の吉野ヶ里」と呼ばれているそうです。


古墳時代の住居や倉庫群、大形掘立柱建物跡などもみつかり、有力な豪族がいたことや長い間この地にムラがあったことがわかっています。


下徳力遺跡からは弥生時代の土器とともに銅精錬の時に出る銅滓(どうさい)が出土されており、この辺りで青銅器の生産に関わる人々が住んでいたことが推測されてます。


また、守恒の山間の「金山谷前ベラ山経塚」から廃寺となった寺院名が入った平安時代の経筒、甕(かめ)が出土していますが、貴重なものとして国立博物館に収蔵されました。

発掘した遺跡はたくさんあるのですが、ほとんどがモノレール工事や区画整理、宅地造成に伴って行われましたので、記録を取ったあと埋め戻されて今は残っていません。


でも、その近くに立ち、上のまぶたと下のまぶたを合わせると、当時の人々の生活が浮かんでくるかもしれません。


小倉城下町さんぽ 秋月街道㉒佐野経彦と門司港


モノレール「徳力嵐山口駅」手前に銅板屋根の乗ったおしゃれな大きな鳥居(昭和9年築)が目に入ります。

明治政府の政策で成立した教派神道十三派のうちの一派、古神道「神理教」の本部です。

教派神道とは、布教をする神道で、天理教、金光教なども十三派の一つです。

神理教はニッポニカには「神道教団。教派神道十三派の一つ。佐野経彦(つねひこ)を教祖とする。医者でもあった経彦が、家伝の神道の再興を図って活動したのに始まる」とありました。


神理教の創始者、佐野経彦は1835年(天保5年)徳力生まれ、小倉藩の国学者・西田直養に学び、幕末から明治の世情の混乱の中で、人々を救いたいと神理教を創設、一時は全国に数十万人の信者を擁しました。

また、長州との戦争には医者として従軍、「豊国戦記」など生涯に300以上の著書を残しています。


また、佐野は北九州市を代表する観光地、門司港レトロの基礎になる門司港の発展に尽力した一人です。


佐野は1886年(明治19年)、山口県長府の豊永長吉、企救郡蒲生(現在の小倉南区蒲生)の高山定雅(蒲生神社宮司)らと、江戸時代に塩田であった場所 15 万平米規模を埋め立て築港、筑豊で多く取れる石炭を輸出することを計画し、地元住民との補償交渉も終え、福岡県知事に建議しました。

この民間の計画に時の福岡県令(県知事)安場保和から待ったがかかりました。


安場は中央政府から九州に鉄道を早期敷設するという使命を持って、1885(明治 18 年)に着任、彼は、門司港築港は鉄道敷設とともに官(国家)が行うべき大事業と考えていたようです。

官が新たに示した計画は、佐野らの計画を遥かに上回る、37 万平米規模の埋め立てを含む大規模な築港でした。


ただ、当時の政府はお金がなく、築港には民間の力が必要なので、1888(明治 21 年)12 月、渋沢栄一、浅野総一郎など当時の財界の指導者に相談、彼らを株主にして「門司築港株式会社」が設立、翌 1889 年 7月に門司港築港が始まりました。


その後、同じ年に国の「特別輸出港」に指定され鉄道の起点として整備、1916年(大正5年)には横浜、神戸を抜いて日本一の港になり繁栄を極めることになります。


小倉城下町さんぽ 秋月街道㉓徳力・神理教

神理教境内に入ってみましょう。

境内に入って進むと池が左手に、そこに小さな橋が架かっています。

その先の庭に道標が立っており、「従是東中津道」「従是北小倉道」「従是南田川道」と刻まれています。

大教殿(大正8年築)の前を過ぎ右手の山のほうに抜けます。

この山を「徳力山」といいます。

石段があり、たくさんの小さな赤い鳥居が。

長門市の「元乃隅稲成神社」にはかないませんが、赤い鳥居は数えてみますと96基ありました。

その道を上ると「大元稲荷神社」と「造化宮」が見えてきます。

大元稲荷神社参道に、文化八年(1811)の石鳥居も。

教祖・佐野経彦が幼少のころ小倉藩の学者・西田直養のもとへ通学の時、毎夜絶えず前後を守護するように白狐がいて、その後ずっと守られていたといいます。

「昭和6年秋境内よりこの地に遷座する」とあります。

大元稲荷神社の本殿左右にも稲荷神の祠、玉垣の外にひっそりと猿田彦と石の祠が。

この祠にも火の神らしい札が祀ってありました。


小倉城下町さんぽ 秋月街道㉔徳力・神理教Ⅱ

徳力山の頂上近くにある大元稲荷神社の手前に「造化宮」が祀られています。

手水舎の木額 「設神理以奨俗」(しんりをもうけもってならわしをすすむ)は明治17年10月、「幕末の三舟」の一人、山岡鉄舟より寄贈されたものです。














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