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この生き物を研究せずして、何を研究すると云うのか?【ゴキ研究者大崎遥花氏、豪語する】

「クチキゴキブリのメスとオスは、互いの翅を食い合うらしい」

 類を見ない不思議な現象に惹かれた著者が、採集・飼育・繁殖方法など、わからないことだらけのこの生物に秘められた謎を体当たりで追いかける――。
 沖縄・やんばるでの採集、トライ&エラーの飼育、予算がない中でのDIYな実験、そして翅の食い合いの意義とは――行動生態学の基本と最前線をわかりやすく語る科学読み物ゴキブリ・マイウェイ この生物に秘められし謎を追う』が発刊されました。
 本書から、「はじめに」を公開します。

『ゴキブリ・マイウェイ この生物に秘められし謎を追う』大崎遥花(山と溪谷社)

◎沖縄にて

 毎年4月頃、那覇空港で重たそうに巨大なスーツケースとリュックを抱えて早足で歩く人間がいる。ハイキング帰りのような格好で、搭乗時刻ギリギリであるためとても急いでいる。一見ありふれた光景と思われるかもしれないが、そんな人間を見たら本書の著者である私の可能性が高いので近づかないほうがいい。

 なぜって?
 巨大スーツケースもリュックも、ゴキブリでいっぱいだから。

 ゴキブリといっても、そのへんにいるゴキブリを想像してもらっては困る。私が研究しているのはクチキゴキブリという、森林の奥でひっそりと暮らす害虫ではないゴキブリなのだ。特に生物に興味のない人が、ある日山に登りたいと思い立ち、登山の道すがらで目に留まった朽木を突発的にボコボコに割り出したりすることなく生涯を終えるのであれば、およそ人生に登場することのない昆虫である。もっとも、著者のように朽木を割りまくる人生を選んでしまった場合はその限りではない。

 一度、機内持ち込みしたリュックを抱えて離さなかった私を見かねたキャビンアテンダントの方に「中身は何ですか?」と聞かれたことがある。私は咄嗟に、
「……土です」
と言ってしまった。

 しかし、弁明させてほしい。ここで正直に「ゴキブリです☆」などと元気よく答えてしまったら、キャビンアテンダントの方の精神が耐えられる保証がない。むしろ耐えられない可能性を積極的に考えたほうがよい。

 もし、仮に、万が一、キャビンアテンダントの方が屈強な精神の持ち主で持ち堪えられたとしても、私の隣に座った乗客のメンタルが無事ではあるまい。その後約1時間のフライトをバイオハザードな恐怖に震えて過ごさせてしまうのは忍びないではないか。

 もちろん、ゴキブリを入れている容器はすべて確実にロックできる構造のものを使用しているし、リュックをひっくり返したところで、1頭たりとも逃げ出すことはない。音も臭いもない。当然、機内持ち込み禁止物でもない。しかしそんな現実的な話は関係ないのが人間の感情というものだ。

 そして、土が入っているというのは噓ではない。ゴキブリは土を入れた容器に入っていたのだから。土の中にゴキブリがたまたますべての容器に混入していただけである……という詭弁をこねくり回したくなるが、当時、咄嗟に遠回しに噓をついてしまったことは反省している。機内持ち込みせずとも、預け入れ荷物でクチキゴキブリたちが元気に手元に返って来ることがわかってからは、なるべく預けるようになった。

◎クチキ? ゴキブリ?

 クチキゴキブリは読んで字のごとく、朽木の中に棲み、朽木を食べて生きているゴキブリである。彼らは、ふだん読者の方が遭遇しているであろう「屋内に出没する黒い影」とは違い、速く走れないゴキブリだ。

 私は九州大学理学部に入学し、大学4年生で卒業研究を始めたときから、この本を執筆している現在に至るまでの約7年間、クチキゴキブリを研究してきた。日本には、九州・屋久島にエサキクチキゴキブリ、奄美以南にタイワンクチキゴキブリの合わせて2種のクチキゴキブリが生息する。

 沖縄本島で採集できるのはリュウキュウクチキゴキブリ(タイワンクチキゴキブリの琉球亜種)であり、研究拠点のある沖縄本島北部に広がる豊かな森林「やんばる」まで毎年調査・採集に行くのである。やんばるは、クロイワトカゲモドキやテナガコガネ、ヤンバルクイナなど沖縄固有の生物に溢れた生き物屋垂涎の場所だ(生き物好きの中でもある一線を越えてしまった人種を「生き物屋」と呼ぶ)。

 クチキゴキブリは朽木を食べながらトンネルを作り、そこで家族生活を営んでいる。父親と母親は生涯つがいを形成し、一切浮気しないと考えられている、人間なんかより一途な生き物である。一生浮気せずに同じ個体と、という生き物は非常に稀であり、これだけでも研究する価値がある。

 しかも、彼らは「卵胎生」という、卵が母親の体内で孵化して子が直接お母さんのお腹から出てくる繁殖形態をとる。卵胎生はサメやダンゴムシ、マムシ、タニシなど、実は分類群を越えてぽつぽつ存在するが比較的珍しい。クチキゴキブリは交尾後約2カ月で子が生まれると、両親ともに口移しでエサを与えて子育てを行う。

 両親揃って子育てを行う生態は鳥類などでは多く見られるが、昆虫ではこれまた非常に珍しい。成虫になった子は5〜6月に実家の朽木から飛び立つ。私はこの成虫になる前の子を狙って、4月にやんばるへ毎年やってくるのである。
 ゴキブリ目線で語るとなんとも恐ろしい存在だ。

 しかし、安心していただきたい。何も親を殺して子を奪い取ろうというのではない。彼らは両親と子で構成されたコロニーで生活している、いわば核家族世帯である。私はその仲睦まじい家族を血も涙もなく引き裂いたりはせず、一家まるごと採集する。これで、まだ小さな子も親がいて安心だ。私もゴキブリがたくさん採れてうれしい。Win ‒Winである。

 しかしうれしいことばかりではない。なんと私はゴキブリアレルギーになってしまったため、クチキゴキブリを素手で触ると無数の水ぶくれができてしまうのである。クチキゴキブリの脚には無数の棘があり、それが皮膚を貫通するのだ。脚の棘は刺さると血が出るくらい鋭い。薄手ゴム手袋もなんのその。

 毎年ゴキブリシーズンになると、ゴキブリのハンドリングに一番よく使われる私の右手人さし指先端は鮮血がにじむ。こうして棘表面に付いたゴキブリ由来の怪しい物質(おそらく体表炭化水素など)が体内に入ってしまうと、翌日には立派な水ぶくれが皮膚の奥底からこちらを覗いているので、こちらも覗き返す。たまに潰す。

 ゴキブリアレルギーだったとしてもこんな人生を歩んでいなければ困りはしなかっただろうに、よりによってクチキゴキブリ研究者などという道を選んでしまったため、採集、実験シーズンは指が痒くて仕方がない。

 これは運命のいたずらか……と運命に責任転嫁したいところだが、こんなケッタイな病になったのは、これまで7年間クチキゴキブリをいじくりまわした自身のせいであることは明白で、ぐうの音も出ない。……ぐう。
 
 私が初めてクチキゴキブリを知ったのは大学生の頃だ。昆虫採集に行った初めての南西諸島は2月の石垣島だったと思う。石垣島にはタイワンクチキゴキブリ(原名亜種)が生息している。沖縄では馴染みのホームセンター「メイクマン」で今でも愛用している手鍬を購入し、その新品の手鍬を朽木に向かってぽすっと一振り。そうしたら、ぽろぽろとクチキゴキブリが出てきたのだ。

 このとき、コロニーにいる両親の翅がなくなっているのを初めて目の当たりにしたのである。どうして翅がないのだろう、と調べるうちに、クチキゴキブリの記載論文(新種発見を報告する、その種の特徴を記した論文)に「成虫の翅は欠損していることが多い」と書かれているのを読み、その断面の形状から「翅が齧られているのでは?」と思うようになり、のちにこれはオスメスで食べ合うらしいと知った。

 この「クチキゴキブリの雌雄が互いに行う翅の食い合い」こそ、私が2021年に初めて論文で報告し、卒業研究から現在まで続けている私の研究テーマである。ちなみに、クチキゴキブリ研究を現在遂行しているのは全世界で著者ただ一人だ。その意味では、私もやんばるの生物と同じく希少種である。

◎いろんな意味で唯一の本

 本書は、世界で唯一のクチキゴキブリ研究者の書いた、世界で唯一のクチキゴキブリ研究本である。

 第1〜2章では、知られざるゴキブリの姿と、クチキゴキブリが見せる謎の行動「翅の食い合い」とは何かについて、行動生態学の基本知識を交えながら解説した。嫌われることの多いゴキブリが、実は類を見ないほど面白い生き物だということも知っていただけたらと思う。

 第3〜8章は、手探りのゴキブリの採集・飼育から実験セットの構築、撮影に至るまでの試行錯誤をリアルに書いている。研究者がどんなふうに考え、実行し、分析することで研究を進めていくのか、研究が総合格闘技だということを感じていただけるのではないだろうか。
 また、研究を進める中で必ず経験する、学会発表や論文投稿、助成金の申請などについても正直に書いた。実験以外でも右往左往する著者のリアルな姿が観察できる内容となっている。

 第9章〜10章は、これまでの実験から明らかになったことに加え、研究者という生き方について、私が思うことを書いた。研究者の道が険しいというのは有名な話だと思うが、険しいだけではないし、そこには世の中の仕組みが関わっている。研究者を取り巻く環境の一端を一人でも多くの人に知っていただきたい。

 また、本書に登場する挿絵のイラストと点描画はすべて著者が自ら丹精込めて描かせていただいた。ゴキブリに溢れた文章の中のつかの間の箸休めとして、描き下ろしの点描画(なお、ゴキブリ)を目の保養にしていただけたらこれ以上の喜びはない。

◎ニッチの魅力

 世界で他に誰も研究していないけれど、翅の食い合いはするし、卵胎生だし、子育てもするし、浮気もしない―それぞれ一つだけでも面白いのに、それらを「全部盛り」してしまっためちゃめちゃ面白い生き物、それがクチキゴキブリなのだ。

 この生き物を研究せずして何を研究するというのか?と豪語してしまうほど、魅力的な生き物である。読者の皆さんには、本書を通じてこの興奮を感じていただきたい。

 そして、一人の人間が何をどうしたらクチキゴキブリ研究者などというニッチな人生に迷い込み、生き延びているのか、遠巻きに双眼鏡から覗くような感覚で本書をご覧いただければと思う。

【著者略歴】大崎遥花(おおさきはるか)
1994年生まれ。日本に現存する唯一のクチキゴキブリ研究者。九州大学大学院生態科学研究室博士課程を修了後、京都大学を経て、2023年よりノースカロライナ州立大学で研究を行う。日本学術振興会特別研究員CPD。狭い場所が好きなのにアメリカの家は広く、最近落ち着かないらしい(研究者と研究対象は似るという)。面白いといえばゴキブリ、でもカッコいいといえばカミキリ。ゴキブリ採集の副産物の土壌動物も好物。ペンで生物画を描くのが趣味。クチキゴキブリ研究に生涯を捧げることになるのだろうなあと腹をくくっている。

『ゴキブリ・マイウェイ』好評発売中!

『ゴキブリ・マイウェイ この生物に秘められし謎を追う』大崎遥花(山と溪谷社)

採集は単独行? 飼育方法がわからない
論文書くのツラすぎる 時間もお金も足りない!
だけどやっぱりゴキブリは面白すぎる!!!

 研究対象である生き物と、それに生涯をささげる研究者、研究という営みの魅力が詰まった一冊。そもそも研究とは何のために行うのか、学会を活用するには? 論文はどうやって書かれているのか、など知られざる研究の現場、研究世界の歩き方についても語ります。本文に収録した超細密で美しいイラストは、著者による作画。