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動物が笑っているように見えるのには、深い理由がある

すべての生物にとって「生きること」は結構大変だけど、それだけで素晴らしいこと。
ザトウクジラは、なぜソングを歌うのか? ヤギの交尾が一瞬で終わる切実な理由とは? ヒトはもともと難産になりやすい?
求愛の悲喜こもごもから交尾の驚くべき工夫、妊娠・出産の不思議、環境に適応した多様な子育ての方法まで、めちゃくちゃ面白くて感動する動物の繁殖のはなし。

◎子ゾウは笑う?

 ゾウの妊娠期間はとても長い。交尾から約2年かけて胎児を育て、100キログラム程度の子どもを、基本的に1頭産む。ゾウの乳首は、前肢の腋の下(腋窩)に左右1対存在する。生まれたばかりの子どもは、他の草食動物同様に自力で立ち上がり、1メートルほどの高さにある母親の乳首に吸い付く。
 
 通常、ゾウが水や大好物の果物を摂るときは、あの長い鼻を使って口に運ぶ。しかし、子どもが母乳を飲むときだけは、鼻を使わず母親の乳首を口で咥えて飲む。つまり、母乳を飲むときは顔にある表情筋を使って頰や唇を活用して飲むのである。これぞ哺乳類の証である。
 
 陸上動物の中で最も大きい部類に入るゾウも、生まれたばかりの子どもは肉食動物に狙われやすい。そのため、他の草食動物と同様に、危険を察知したらいつでも行動を起こせるように母親も子どもも立ったまま授乳する。ライオンやトラのように、体を横たえてゆっくり授乳している余裕はないのだろう。
 
 ゾウの母乳にも、三大栄養素(タンパク質、脂質、炭水化物)や免疫成分が含まれている。この栄養たっぷりの母乳を飲み、子どもは1日約1キログラムずつ成長する。また、ゾウの母乳成分は、子どもが離乳するまでのおよそ3年間に3〜4回成分が変わることが知られている。子どもの成長に合わせて、母親が食べ物を変えながら、母乳の成分を調整している。
 
 初めの頃は、すぐ栄養源になるタンパク質が多く、免疫成分も豊富である。その後成長に伴い、持久力の源となる炭水化物や脂質の割合が増えていき、ビタミン類なども含まれるようになる。
 
 一般的に、哺乳類はミルクラインに沿った腹の尾側に乳首を備えている種が多い。それに対して、ゾウは腋の下に乳首がある。これは、アフリカに起源をもつアフリカ獣上目(アフロテリア)の草食性の動物に共通する特徴である。
 
 ということは、アフリカを起源とする共通祖先が、そもそも腋の下に乳首をもっており、ゾウはその形質を継承してきたのだろう。人間も他の哺乳類と違い、ミルクライン上とはいえ胸部に乳房がある。さらに、妊娠・出産・授乳を経験しなくとも膨らんでいるというのは、生物学的にはあまり類例のない生理現象であり、人間のメスにおける性的アピールの一つといわれている。

◎マチルダも笑う?

 イヌやネコなどの愛玩動物と一緒に暮らしていると、「あっ、今嬉しそうに笑った」とか「ちょっと不機嫌そう」など、その表情から彼らの感情を読み取ることができる。これは、彼らの頭部に表情筋という筋肉が存在するからである。
 
 表情筋はその名の通り、表情をつくるときに使う筋肉だが、じつは本来の役割は他にある。哺乳類以外の脊椎動物も、表情筋の起源となる筋肉をもっている。魚類では、エラを制御する筋肉として、両生類、爬虫類、鳥類では頸部の括約(締める)を担う筋肉として、表情筋の前身が備わっている。
 
 哺乳類は、頰と口唇を形成する筋肉として、進化の過程でこれらの筋肉が顔面へと移動した。そして、哺乳類はこの頰と口唇を使って「吸う」という行為を可能にした。つまり、哺乳類における表情筋の第一義的意義は、乳首を吸って乳を飲むことである。
 
 妊娠中、母親は皮脂腺から派生した乳腺から乳をつくり、子どもは子どもで、それを吸うためにおなかにいる時から、頭部に表情筋をつくって準備する。その結果、哺乳類の子どもは生まれてすぐに乳首に吸い付き、母乳を吸うことができる。
 
 表情筋は実に30以上の筋肉から構成されるが、そのうち主に哺乳に関係するのは、頰筋と口輪筋の2つである。表情筋は、哺乳類を哺乳類たらしめる大きな特徴の一つといえよう。
 
 一方、魚類や両生類、爬虫類、鳥類では子どもを母乳で育てることはないため、これらの筋肉をエラや頸部など別の部位の動きに活用している。したがって解剖学的には、彼らには表情をつくることはできない、ということになる。
 
 ところで、私の務める国立科学博物館に、ヘビをこよなく愛し、同居しているスタッフがいる。コーンスネークという種類のヘビで、名前はマチルダ。白地にピンクの斑点がある可愛いらしい配色のヘビである。
 
 彼はよく私たちに「うちのマチルダが、俺にいつも微笑みかけてくれるんですよ」と嬉しそうに話す。私も、うちの愛猫たちを溺愛中であるため気持ちはよくわかる。
 
 しかしながら、科学に身を置く者としては、爬虫類であるマチルダに表情筋はないので、微笑みかけるはずはないことは百も承知である。それでも、彼にそう見えるなら、それはそれで良いことだと思いながら、みんなで談笑している。
 
(本記事は、『クジラの歌を聴け』を一部抜粋したものです。)


◎『クジラの歌を聴け』発売中!


 求愛の悲喜こもごもから交尾の驚くべき工夫、妊娠・出産の不思議、環境に適応した多様な子育ての方法まで、あまり明るみに出ないけれど実はめちゃくちゃ面白い、繁殖・生殖のはなしを語る。
 海獣学者・獣医として海陸両方のさまざまな哺乳類に触れ、解剖学の知識をもつ著者ならではの経験と視点が満載。
 読んだあと、生命の不思議と大切さを感じずにはいられない一冊。

■内容
1章 クジラの歌を聴け~海の哺乳類の求愛戦略~
2章 ゴリラの背中を見よ~陸の哺乳類の求愛戦略~
3章 ヤギの交尾を見逃すな~オスの繁殖戦略~
4章 イルカは逆子で産みたい~メスの繁殖戦略~
5章 子ゾウは、笑う~子どもの生存戦略~

 動物の求愛方法は、生息環境や生活スタイルによって、驚くほど変化に富んでいる。
 本書の1〜2章では、海の哺乳類と陸の哺乳類のそれぞれについて、工夫に満ちた求愛戦略を紹介していく。
 海に棲む動物には海に棲む動物なりの、陸に暮らす動物には陸に暮らす動物なりの苦労と事情がある。それを知恵と工夫、熱意で乗り越えて、求愛にいそしむ彼らの奮闘ぶりといったら……。ときに命さえ落としかねない、ドラマチックで悲喜こもごもの話を楽しんでいただきたい。
 3章と4章は、それぞれオスの繁殖戦略とメスの繁殖戦略について紹介している。ずばり、生殖器と交尾についての話である。
 生々しくてイヤだわ……と思われる方もいるかもしれないが、動物たちが確実に繁殖を成し遂げるために、オスとメスそれぞれが磨き上げてきた形態と機能―この素晴らしさに感嘆するのではないだろうか。
 最後の5章では、動物の子どもたちが、生まれながらに身につけた生存戦略についてまとめた。野生動物は、生まれ落ちたその瞬間から、命の危険と自立のプレッシャーにさらされる。親はもちろん守ってくれるけれど、自分で自分の身を守る術すべももたなければ、生きていくことは難しい。

 動物は、何のために求愛し、繁殖するのか―。
 答えは、しごく明快だ。動物たちにとっての性や繁殖は、子孫を残し、種を繁栄させるという実に動物的・生物的に単純な目的のためである。
 動物の中でも人間は、進化の過程で脳が著しく発達した生物であり、だからこそさまざまなものを発明し発展させ、ここまで繁栄してきた。しかし一方で、少し頭で考え過ぎてしまう傾向もあるように思う。
 私自身、そうであるし、性や繁殖について考えるときも同様かもしれない。
 それに比べて、動物たちが性や繁殖と向き合う姿は、直接的で単純だが、一面、ひたむきで真摯にも映る。
 オスがメスに必死に求愛し、メスはクールにオスを見定めること。
 親が一生懸命、子どもを育てること。
 子どもが、非力ながら必死に生きようとすること。
 そこには「生命をつなぐ」というシンプルな目的があるだけである。
 彼らの生きざまを知ると、そうかぁ、もっと単純に考えてもいいのかな、生きることはみっともなくったっていいんだよな、と少し楽になることもある。
 そして、動物たちのことを知れば知るほど、人間に当てはまることも多く、私たちは同じ仲間であることを実感する。言葉は通じなくとも、私は動物たちから実に多くのことを教えてもらい続けている。
 あなたも、クジラの歌を聴いてみませんか。

「はじめに」より