牧野富太郎博士が恐山の林で歌い、踊った理由
ニギリタケの握り甲斐
ニギリタケは、Lepiota procera Quel. なる今日の学名、およびAgaricus procerus Scop.(種名のprocera は丈高き義)の旧学名を有し、俗にParasol Mushroomと呼び、広く欧洲にも北米にも産する食用菌の一種である。そしてニギリタケとは握り蕈の意であるが、握るにしては、その茎、即ち蕈柄が小さくてあまり握り栄えがしない。それで、私はこの菌を武州飯能山で採ったとき、「ニギリタケ、握り甲斐なき細さかな」と吟じてみた。
ところが、天保六年(一八三五)に出版になった紀州の坂本浩雪(浩然)の『菌譜(きんふ)』には、毒菌類の中にニギリタケを列して、「形状一ならず、好んで陰湿の地に生ず。その色、淡紅、茎白色なり。若(も)し人これを手に握るときは、則ち瘦せ縮む、放つときは、忽ち勃起す。老するときは蓋甚だ長大なり」と書き、握りタケとして、握り太な、ズッシリしたキノコが描いてあるが、これは握りタケの名に因(ちな)んで、いい加減に工夫し、握るというもんだから、的物が太くなければならんと、そんな想像の図をつくったわけだ。
ところが本当のニギリタケが判ってみると、その茎は案外に瘦せて細いものである。さすがの川村清一博士のような菌類専門学者でも、このニギリタケは久しく分らなかったが、私が大正十四年(一九二五)八月に飛驒の国の高山町できいたその土地のニギリタケのことを話して同博士も始めて合点がいったのである。そこで博士は、このニギリタケのことを大正十五年(一九二六)六月発行の『植物研究雑誌』第三巻第六号に書いた。
それで、これまであやふやしていたニギリタケが始めてはっきりした。そしてこの菌は蓋が張り拡がると、あたかも傘のような形をしているところから一にカラカサダケとも呼ばれるとのことだ。坂本浩然の『菌譜』にカラカサモタシ、カサダケ、傘蕈としてある図のものはけだしカラカサダケであろうと思う。「毒アリ食ス可カラズ」と書いてあるのは事実を誤っているのであろう。
上の大正十四年八月当時、私が高山町西校校長、野村宗男君に聞いたところは次のとおりであった。
「にぎりたけ(方言)飛驒吉城郡国こく分(ぶ)辺(高山町より二、三里ほど)の山地芝草を刈り積みたる辺、または麦藁を入れ肥料にせし畑に生ずる。秋時栗の実の爆ぜる頃最もさかんに出る。高さ七、八寸より大なるものは一尺五寸ばかりもある。出ずる頃土人にぎりたけを採りに行くと称して赴く。一本一本独立に生える。茎の太さ両指にて握るほどにて、全体白色、水気少なく、茎頭わたわたしくなりいる。縦に割いて焼き醬油の付け焼きにして食うを最も美味とする。多少の香あり、また汁の身としまた煮付けとする。」
今から二十五年前の昭和三年の秋、私は陸奥の国、恐れ山の麓の林中で、大きく傘(蓋)をひろげたカラカサダケ、即ちニギリタケ数個を見つけ、それを持って踊る姿をカメラに収めた。今、ここにその時のことを歌った拙作を再録してみると次のとおり。
恐れ山から時雨(しぐ)りょとままよ、
両手にかざす菌傘、
用心すれば雨は来で、
光りさし込む森の中、
やるせないまま傘ふって、
踊って見せる、松のかげ、
その腰つきのおかしさに、
森よりもるる笑い声、
道行く人は何事と、
のぞいて見ればこの姿。