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探検家の角幡唯介氏が復刊を熱望していた動物文学の名著。吹雪の夜に迷い込んできた山犬の仔は、過酷な北海道の原野を生き抜き、山奥へと消えた――人間、犬、熊…生と死がせめぎ合う驚愕の実話。

 長きにわたって絶版、入手困難な状況が続いていた伝説の名著『アラシ』(今野保:著)がヤマケイ文庫にて復刊。探検家・作家の角幡唯介氏が絶賛し、復刊を熱望していた一冊だ。

 川で溺れかかった今野少年を救ったクロ(Ⅰ)。嵐の夜に迷い込んできた山犬・アラシとの絆と野生の掟に従い訪れる別れ(Ⅱ)。大熊をも倒したという勇猛果敢なタキの話(Ⅲ)。人と驚くほど意思を通じ合わせることのできたノンコのこと(Ⅳ)。
 
 北海道の美しく過酷な大自然の中で、犬と人間との間に刻まれる4つの実話。本作の魅力について、角幡氏が語った。

ヤマケイ文庫『アラシ』今野保(山と溪谷社)

必読の、バイブル

 今野保さんの著作といえば、北海道で、とりわけ日高山脈で渓流釣りや狩猟をして山々を練り歩こうとする者にとって必読のバイブルである。
 そこに描かれるのは戦前の、日高の奥山にまだ真の意味で手つかずの原始的環境がのこっていた時代の、驚嘆すべき自然の豊かさであり、そこを舞台に生きる人々の逞しく、魅力的な姿である。
 『秘境釣行記』『羆吼ゆる山』『アラシ』の三部作は、いずれも今野さんが少年時代の思い出を回想したもので、時代的にはいまからおおむね百年ほど前の話である。
百年という時代が長いか短いか、人によって印象はことなるだろうが、私の感覚では、たった百年前にこんなに無垢な自然が北海道にのこされていたのか! と読むたびに愕然とする。
 昨年(2023年)の秋、私はエゾシカ猟が解禁となるのにあわせて日高に入山した。今野さんが少年時代をすごした鳧舞(けりまい)川と、その隣の元浦川をへだてる尾根をのぼり、シカを獲りながらコイカクシュシベチャリ川に出て、シュンベツ川の上流部にむかって北上したのだが、じつはこの山旅のルート取りは、今野さんの著作の舞台となった山々を自分でも経験したいと思い、考えついたものだった。
 今野さんは『秘境釣行記』『羆吼ゆる山』の二作で、ピリカイ山周辺の山や谷での釣りや狩猟の思い出を記している。それによれば、尺を越えるヤマベ(ニジマスやアメマスではなくて、ヤマベだ)が群れをなし、父や友人とともに1人1日100匹以上は簡単に釣れたらしい。10や20ではない。3桁の数字がそこには書かれているのだ。
 無論、林道や作業道などあるはずもなく、移動路となるのは深い藪のなかにつけられたアイヌ猟師の秘密めいた踏み跡だけだ。そしてそのアイヌ猟師だが、これらの著作には清水沢造という伝説的な猟師が登場し、広大なシュンベツ川やシベチャリ川の流域一帯に小屋をいくつももち、雪深い真冬でも獲物を追って自由気儘に歩きまわっていたという。
 シュンベツ川は私も地図なし登山で何年か通いつめ、知り尽くしているだけに、あの深く険しい山々を真冬に歩きまわっていたという清水の存在は驚異だったし、かつ憧憬の念をいだいた。
 日高の山々はいまも素晴らしいとは思うし、だからこそ私は年に一度はこの山域で長い山旅をおこなう。このときの山行でもエゾシカはうようよし、羆が闊歩し、渓流に竿を投げるとニジマスが食いついた。樺太や沿海州を思わせる大陸的で雄大な景観を目の当たりにして、やっぱりいいなあと思うことも多い。
 でも同時に、訪れるたびに今野さんの本に出てきた日高の原始性には遠く及ばないことに落胆させられる。正直ちっぽけなのだ。一番のちがいは川や山が巨大人工物により分断されていることだろう。巨大ダムは満々と水を湛え、川沿いには太い林道がはしり、おまけにその最後は建設が放棄された強大な橋脚で終わる。一見、生のままの自然がのこされているように見える藪尾根にも材木運搬用の作業道が迷路のように走っている。
 結局のところ、このときに出会った羆が歩いていたのは林道だったし、ニジマスだってダム建設時に放流された英国産トラウトの子孫なのである。
 もちろん、人工の恩恵には浴している。移動も林道や作業道を使っており、道に頼らず鉄砲をかついでひたすら藪漕ぎできるかといえば、正直疑問だ。鹿を獲るのだって作業道がなければもっと面倒だったはずである。そう考えるとこの山行自体、開発や人工物のおかげなのだが、それでもやっぱり今野さんが生きた原始の日高のほうがいいなぁと思ってしまう。 

信じられないくらい賢い犬たち

 本書『アラシ』は幼少期に出会った犬の話がまとめられており、三部作のなかでは異色だが、犬を通して無垢の自然が描かれている点ではおなじといっていい。
 今野少年が暮らすのは人間世界と原始の自然との境界である。そこで飼われる犬もまた無限の自然を後背地にもつだけに、ただの飼い犬というより人工と野生を往来する存在だ。犬たちは、ちょっと信じられないぐらい賢く、私たちのちっぽけな常識からみると、今野さん、ちょっと話盛りすぎじゃない? と思ってしまいそうになる。でも人間界と自然界の境界で暮らした昔の犬は本当にこれぐらい賢かったのかもしれない。飼い主に従順であることが求められるいまの犬とちがい、森や山で自由に行動することで知恵を働かせていたわけだから。
 リードもつけずに放し飼いにされ、自由闊達に家と森とを往来する姿には、人間と犬との理想的な関係があるように見える。犬は気軽に森や山に行き、好きなときに家にもどる。ともすれば、アラシのように戻らなかった犬もいるが、その判断でさえ犬にまかされている。犬好きの読者はきっとこういう飼い方に憧れるだろうが、現代社会でこのような飼い方をすればご近所トラブルのもととなり、飼い主の責任が追及されるだけなので無理である。私がダムや林道のない日高に憧れるのと同じで、このような人と犬との関係ももはや夢幻となってしまった。

犬の幸せとは何なのか?

 ところで本書を読んで一番考えさせられたのは、犬にとっての幸せとは何かという問題だ。
 私も犬との関係が深い。
 私は毎年1月から6月までの5カ月間、シオラパルクというグリーンランド最北の猟師村に滞在し、犬橇(いぬぞり)のために十数頭のエスキモー犬を飼っている(この原稿もシオラパルクで書いている)。1月から3月までは村の周辺で訓練し、春の明るい時期に2カ月近く犬橇で狩猟しながらの大旅行をおこなうのがいまの私のライフワークだ。そしてそこで直面するのがこの問題である。
 私の犬は幸せなのだろうか。もっといえば犬の幸せとは何なのか?
 エスキモー犬は、本書に登場する山犬もびっくりの野性的な犬種だ。群れのなかでは序列争いの喧嘩が日常茶飯事で、群れの外から来たよそ者や老犬は徹底的にいじめられる。犬橇の最中も威嚇、恫喝、恭順などの動きが絶えずあり、喧嘩やリンチで犬が死ぬこともめずらしくない。はっきり言って犬というより野獣に近い生き物である。こういう犬種なので、イヌイット社会では犬に対してかなり手荒い扱いが当たり前で、私自身も現地の人とおなじように犬を扱っている。たぶん文明社会の動物愛護主義者が見たら鼻血を出して卒倒するだろう。
 ただ、過酷な環境で厳しく育てられたからこそ、彼らは犬とは思えないほど逞しく、何者をも恐れない強さをもっている。1週間ぐらい何も食べなくても走ることができるし、白熊を見つけたら逆に襲いかかってゆく。そしてそういう犬だからこそ、私も、イヌイット猟師も、彼らを信頼して冒険的な旅に出ることができるのである。
 エスキモー犬が生きるのは野生がむき出しの世界だ。マイナス30度の氷原で来る日も来る日も橇を引き、白熊を追いかけ、海豹(あざらし)の臭いに反応するには強くなければならない。
 犬の幸せが、犬として生まれもった能力を発揮することにあるのなら、私は自分たちの犬を幸せだと思う。犬は狼から進化した肉食動物である。彼らの天分は走ること、獲物を追いかけることだ。鞭でひっぱたかれ、過酷な長旅にこき使われても、白熊を追いかけるときの彼らの興奮と喜びは凄まじいものがある。そのとき彼らは生の躍動を爆発させる(そして私も一緒に爆発させる)。
 一方でこれと対極にあるのが家のなかで家族同様に扱われる愛玩犬の世界だろう。
 愛玩犬もまた幸せなのだと思う。犬が狼とちがうのは、人間との関係性をつうじて自己を発見する生き物であることだ。犬がかわいいのは、人間からみてかわいいと思えるように進化したからであり、そう考えると人間からひたすらかわいがられることも、犬の天分を満たすことなのだろう。
 でもどっちが幸せなのか? 野生のなかで生きることか、人間にかわいがられて生きることか。私は自分の犬に訊いてみたい。お前たちは暖炉の横でドッグフードを食べてゴロゴロしているほうが幸せなのか? 俺はそういう生き方が嫌だからお前たちと旅に出るのだが……。

野生の血の目覚め

 米国の作家ジャック・ロンドンにとっても、これは大きな命題だったように思える。
 ロンドンはゴールドラッシュ時代のアラスカで犬橇を経験しており、そこでイヌイットのそれと変わりないほど荒々しいネイティブアメリカンの犬橇の洗礼を受けた。そしてその経験をもとに『野性の呼び声』を執筆した。この作品では、飼い犬として育てられたバックという犬が、橇犬としてこき使われ、他の犬との闘争をくぐりぬけることで、もともと自分のなかに流れていた野生の血に目覚める姿を描いている。一方『白い牙』では、橇犬や闘犬に使われていた気性の荒い狼犬が、人間の優しさに触れ、家族のぬくもりを発見する様子を描き、逆のテーマを追求した。
 本書に登場するアラシは『野性の呼び声』のバックと同じ行動をとっているように見える。アラシは山犬の群れから捨てられて今野家で育てられた犬だ。いわば人の温もりを存分に知っているし、今野少年をつねに見守り、その命を救う忠義心ももっている。それなのに、群れから遠吠えを聞くことで野生の血が目覚め、最後は今野家のもとを離れて山犬の群れと生きることを選んだ。そんなアラシの行動には犬の生き方について示唆的な何かが示されているように思える。
 それはたぶんこういうことだ。
 犬にはもともと、かわいがられるだけではない幸せのあり方、生き方があった。
 かつて自然が豊かだったころ、人間のもとで暮らす犬たちは、その幸せのあり方にしたがって生きるのが普通のことだった。ところがいまでは、少なくとも日本社会では、犬たちがそのような生き方を送ること、その幸せを享受することは事実上できなくなっている。
 それは私たちが自然を喪ったからである。環境のなかにある自然だけでなく、心のなかにある自然を喪ったからである。
 本書は、ただの、子供の頃の犬の思い出を語る本ではない。今野さんは犬の姿を描き、その幸せの問題を提起することで、読者に思い出してほしかったのだ。かつてはあったけれども、もはや想像することさえ難しくなった人間と自然との深いつながりを。

※ヤマケイ文庫『アラシ』から抜粋のうえ掲載しています。

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
1976年北海道芦別生まれ。早稲田大学卒。探検家・作家。チベット奥地のツアンポー峡谷を単独で二度探検し、2010年『空白の五マイル』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、第42回大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞。その後、探検の地を北極に移し、2011年にカナダ北極圏1600キロを踏破。2016~17年に太陽が昇らない冬の北極圏を80日間にわたり探検し、2018年『極夜行』(文藝春秋)で第1回Yahoo!ニュース本屋大賞ノンフィクション本大賞、第45回大佛次郎賞。2019年から犬橇での旅を開始、毎年グリーンランド北部で2カ月近くの長期狩猟漂白行継続している。