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25歳のこれまで。

人生にビジョンを。やまかいです。
現在mountainsea代表を務め、個人事業主向けにコーチングを提供しながらコミュニティやスクールを運営しています。また、業務委託としてコーチの研修や育成をしております。

僕のビジョンは「ワクワクしながら挑戦を応援し合う世界を創る」です。
今まで様々な挑戦をする中で、多くの失敗を経験し全て学びに転換してきました。
今回はその過去を振り返り、25年間どのように生きてきたのかを書いていきたいと思います。

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誕生日は祝ってもらうのもそうですが、周りの人に感謝をする日だと思っています。

みなさん、いつも山田海斗の人生にたくさんの濃い色を加えてくださり本当にありがとうございます。
初めて知ってくださった方もこれからどうぞよろしくお願いします!

引き続きワクワクしながら挑戦し、たくさんの人に笑顔を届けていきます。

25歳の振り返りとして、どうぞ最後までお付き合いください。

幼少期

5人家族

1999年8月3日、福岡の田舎で当時高校卒業したばかりの19歳の父と高校中退した17歳の母の間に長男として生まれました。

兄弟が4つ下に妹、6つ下に弟がいます。2人とも自慢の妹弟です。

父親の性格としてはいつも穏やかで本気で怒鳴られたのは1回くらいです。しかし、お酒が入ると意外とおしゃべり。
母親の性格は喜怒哀楽を全て素直に表現し、僕が反抗期の時はよく大喧嘩していました。
妹はとにかく人と人の間に入るのが上手く、家族の調整役です。小さい頃からクソガキだった僕は、常にストレスの矛先を妹に向け、ずっとイタズラしてました。あの時は本当にごめん。
弟はイケメンシャイボーイですが友達にはとにかく優しく、父親に似て口数が少ない方です。自分との性格が真逆でびっくりです。

目立ちたがり屋の誕生

幼少期の記憶はあまりないですが、マツケンサンバをみんなの前で踊っていたのは覚えています。よくばあちゃんに好きなものを買ってもらい子供用のバイクで保育園まで向かっていました。
またじいちゃんとばあちゃんに公園や山登り、キャンプに連れて行ってもらっていました。この時からとにかく自然が大好き

そして家族/親戚を集めては「きよしのズンドコ節」を全力で披露していました。みんなは常に「すごいね!よくできました!」と言いながら楽しそうに手拍子してくれるので、人を楽しませるのってこんなに気持ちいんだというイメージが強く刻まれています。
この時から目立ちたがりだったんだなと思います。

小学校時代

人を楽しませることへの快感

1年生の頃からクソガキで、授業中もうるさかったです。よく学校終わりには6年生の先輩たちと家の裏の山に登り、川に飛び込んだり幽霊が出そうな場所に行ったりしていました。ここで先輩とのコミュニケーションスキルも身についたと思います。とにかく家の中でゲームするというより外で自然に触れながら遊ぶ方が好きでした。
3年生の時にはお楽しみ会でサンタさんに仮装してみんなを楽しませていました。この時はもう保育園の時で盛り上げた成功体験があったのでとにかく心踊りながら必死で盛り上げていました。遊具に女子を乗せては、必死で漕いで楽しませることもやっていたなとフラッシュバックしてきて懐かしいです。

目立つことへの恐怖

小学6年生でも文集作成や委員会活動でとにかく盛り上げることだけ考えながら行動していた日々。その時にとある言葉がきっかけでめちゃくちゃ目立つことに対して恐怖を覚えました。
「なんか中学の先輩がカイちゃんに目つけてるらしいよ。大人しくしとった方がいいかも」
この言葉で心拍数が急激に上がり中学校へ上がることに対して不安になってきました。そこからあまり目立つのもやめようと思いました。

中学生時代

全てに蓋をした中学1年生

先輩の目に怯えながら、違う小学校からくる同級生のことも気にして心配していた1年生。あまり授業でも発言せず、同級生のドンと先輩との喧嘩を見てこれは目立ったら本気でやばいなと確信しました。
今まで人を盛り上げることを常に考えてきたのに、いつの間にかおとなしくすることが正しいと思い込む日々のスタートです。
中学校の部活動にサッカー部がなかったので、学外のサッカークラブチームに参加。必死に自転車で橋を登りながら通っていました。このチームはレベルが高い人たちがたくさんいたのでめちゃくちゃ緊張していました。
しかし中には練習以外で波長の合うノリのいい同級生がいたので、中学校の中で我慢している性格をこのサッカークラブで発散している感じでした。でもこの環境は実力主義で大体上手いやつが場を仕切っている感じがして悔しかったのも覚えています。

才能の解放

今でも時々連絡する中学時代の担任によって救われた2年生。僕たちの学校は人が少なく1クラスのみで、担任の先生も3年間ずっと同じでした。
その先生から「あんた生徒会とかやってみたら?」そう言われた瞬間、「いやそんなのいいっすわ。だるいっす」と返答。当時はイキリ散らかしてましたね。でもなぜかあの質問が頭の中から抜けず、家に帰ってきて親に「生徒会とかどう思う?」と気になっていることを話しました。話しているうちに先輩もどっかいったから大丈夫だろうと思ってノリと勢いで立候補することを決意。そこからは常に生徒会になるためにどうすればいいかを先生に相談しながら、推薦者の友人と学校を盛り上げるために議論していました。
そこでエネルギーも上がったのか、サッカークラブ活動でも練習や練習終わりの帰り道で常にハイテンションになりながら場を盛り上げることをずーっとやっていました。そしてクラス委員や修学旅行実行委員にも立候補し、合唱コンクールでは指揮者を務めました。この時に指揮者賞をもらった瞬間は今でも忘れません。名前を呼ばれた瞬間先輩がいる中で、「よっしゃー!」と思わず叫んでました。ここから場を盛り上げることに自分の才能が開花している感覚になり、常にムードメーカーとして盛り上げていました。体育祭でのブロックリーダーとして演舞の練習や全体のまとめ役としても才能を発揮し、鬼のように楽しかったです。

地獄の勉強との向き合い

勉強が大嫌いな自分。でも数学は好きでした。ゲーム感覚で取り組めるかつ担任の先生が数学担当ということもあり、数学だけには没頭して取り組むことができました。そこで、高校受験は数学を学べて、勉強ではなくイベントが多い学校がないかなと思って見つけたのが久留米商業高校。
でも今の学力じゃ厳しすぎると現実を突きつけられ、学内推薦も落ちてしまいました。そこから毎日個別指導塾に通い、23時まで勉強。
時には塾と無縁だった両親が自分が通っている塾の支払いが高すぎて、議論している様子が聞こえてきた時もありました。その瞬間は絶対に恩返しすると決意し、自分にプレッシャーをかけていました。しかし、勉強していても学力テストでスコアはE判定。こんなの受かるはずがない。そして試験迎えた当日、手汗が止まらなく回答用紙もシワシワ。手応えもあまりない。一番恐ろしかったのは久留米商業の字を「九」留米商業と間違えていたことに気づいて、学校から帰る途中の車で思わず叫んでしまいました。
これはもう終わった。
私立の試験に備えよう。そう思い落ちた前提でいました。合格発表を母親と一緒に見に行っている最中、もう落ちているも当然なので私立学校の話を無理やりしていました。そしていよいよ合格発表が書かれている掲示板に到着。落ちていると思っているのにどこか期待して脇汗が止まらない自分。目が悪すぎて遠くからでは見えないので、親と一緒に先頭にたどり着く。ずっと探し続けて、「あ、ないわ」と思った瞬間。
母親の「これじゃなか!?」との一言で見ると「それやそれ!!!やったー!!!」と思わずみんなの前で抱き合って叫んでいました笑
「なんじゃこれ!!!」と飛び跳ね続け、最高に喜びを分かち合っていました。もうこの時帰り道では、喜びではなく感謝の気持ちが溢れ、応援してくれた家族と親戚にすぐに報告の連絡を入れました。みんなで喜んでくれて本当に嬉しかった

フットサルでの青春体験

中学のクラブチームではサッカーだけでなく、フットサル大会にも出場しました。悔しくもBチームで。

この時は、上手い奴らに囲まれて主力メンバーとして出場した。アドレナリンドパドパで肉離れの中、包帯ぐるぐる巻きで何故かディフェンスとして出場。とにかく勝ちにこだわりたかった。チームメンバーの親からも叫びながら応援され、さらに盛り上げるスイッチに火がついた。結局最後ライバルチームに負けてしまいました。この時チームで一つの目標に向き合うこと、そしてそれを披露することで周りを盛り上げること。この2つにとても快感を覚えました。改めて中学サッカーのみんなありがとう。

中学卒業

いよいよ卒業式。最後の曲の指揮者としても取り組みました。練習しているあの瞬間は最高に楽しかった。これまでの思い出を振り返りながら指揮をとるあのエモさは忘れられない。そして卒業式終了後、教室での最後のメッセージでは一人一人にみんなの前でメッセージを送りました。あの時間は最高にエモかったけど今振り返ると、自分で尺を取りすぎていたなぁと反省してます笑
先生たちにもサプライズの動画や花束を渡してサプライズ星人としてイキイキしてました。中学校のみんな本当にありがとう!!!

高校時代

友達ゼロスタートのアウェー環境

田舎から少し都会の久留米に、自転車→電車→自転車で通っていました。
1年目のクラスでは、出席番号が初めて一番後ろではなく3番目あたり。そして生徒数が多い、坊主が多い、女子多い、学校デカすぎ、都会すぎ。なんじゃこれ。もう何もかもが初めて見る光景ばかりで、不安もあったんですが楽しみの方が勝っていました。なぜなら人生盛り上がり絶頂の時だったし、先輩からの目なんてなかったから。ここでは野球部やバレー部が常にクラスの中心で盛り上げていたのでその輪に入ろうと必死になっていた記憶があります笑

サッカーが楽しすぎた

1年生の頃から大好きな先輩達と試合にも出させてもらってもう最高に楽しかった。同級生は5?6人と少なかったけど先輩がいたから毎日が楽しい。上手い先輩と1対1するのが刺激的だった。部活終わりの大砲ラーメンは忘れられない。

ちゃんと恋愛スタート

資格勉強やサッカーに没頭していたが恋愛もスタート。同じクラスの人とお付き合いし、さらに高校生活の思い出に色が追加された。毎日練習終わりに遊びに行き、毎回夜遅く12時くらいに久留米まで父親を迎えに来させるという始末。今考えると本当にクソガキだなと思っています。パピーありがとう。

資格取得にハマる

商業高校だったので、商業生しか受けれない資格、全国商業検定を受けまくりました。なぜ勉強嫌いなのに資格勉強はできたかというと、全てインプットではなく問題集を解いて一つ一つクリアしていくのでゲーム感覚で取り組めたからなんだなと実感しています。結局1級の資格を3つと2級を4つ取得。あの時は楽しかったなぁ。
そして僕にとって大きなチャレンジだったのが、日商簿記2級。これを取れば大学でも就職でもフリーパスを取れるかなという安直な考えで資格取得に挑戦。サッカー部の顧問に質問しながら毎日問題集を解く日々。無事合格できた時は最高に嬉しかったです。

ステージ登壇

2年生の文化祭では、演劇として野球部に囲まれながら参加。執事としてふざけて登場。会場で笑いが起きた時は最高にたまらんかった。またブロック全員で手拍子しながら大きなステージで合唱を披露している瞬間は今でも鮮
明に覚えています。切実に戻りたい。

ランニングマンとして活動

最後の3年生でも、とにかく楽しい学生生活にしたく、いつもどうしたらみんな楽しむだろうかばかり考えていました。文化祭の有志ダンスでは、LDHが好きなメンバーを集めて、三代目JSBの曲R.Y.U.S.E.Iを踊った。2日目のホールでは、全校生徒の前でLDHお馴染みの「Everybody Say Yeah! Say Yeah!」とマイクパフォーマンスで会場全体をぶち上げ。これは最高に忘れられない青春体験となりました。

合唱で指揮者も務めました

サッカー部キャプテン

この経験のおかげで人間性が磨かれました。部員の同級生は初心者も多いし、勉強を頑張りたい人もいてあまり部活に熱が入っていなかった。時には熱量の違いにぶつかったり、ふざけて他の部活に乱入して顧問に怒鳴られたのは良い思い出。練習メニューも自分たちで決めていたので、後輩の意見も取り入れながら試行錯誤していく日々。同級生と後輩の溝も埋めながらどのようにまとめていくのがいいのかを考えされられたのはとても貴重な経験になりました。

いよいよ進路選択

2年生までは就職にするか、進学にするか何も決めていなかった。就職は少し違うかな〜と漠然に思いながらも進学は進学で勉強嫌いなのになんで大学やねんと思っていた。
その時に母親からのある一言で転機が訪れる。
「あなたのための試験じゃなかね?これ!来年から新しく始まるらしいよ」とその一言と一緒に渡された大学のパンフレットには「AO入試」との文字。
小論文と自己推薦書、グループディスカッション、面接のみ。
「これはきた」見た瞬間に直感でビビッときました。勉強嫌いだけど、話すのも聞くのも得意だし、将来の話をするのは大好きだから面接はいける!そして条件も奇跡的に日商簿記2級をもってたのでいけるわ!と受験することを決意。偶然、ばあちゃんから「遊びがてら東京行っておいで」と2年生の時に言われ母親と一緒に、創価大学の文化祭を見に行っていました。その時は全く興味がなかったが、楽しそうにしている学生の顔だけは鮮明に覚えていた。そして、創価大学か指定校推薦の日本大学にするかを迷っていた。何故迷ったかというと日本大学の方が合格がほぼ確約されているようなもんでしょと思っていたからです。翌日担任に最終決断の報告をしないといけないなかで、悩み続けてて全然決断ができなかったため、急遽夜に両親2人とドライブに行き、現状を共有した。この時はもうめちゃくちゃ緊張していた。
「どっちがいいとおもう?」と聞いた時両親は、
「そりゃあなたが心躍っている方やない?それだけや」
なんじゃそりゃ。どっちか言ってくれるんじゃないんかい。と心の中で思ったけど、今までの過去を振り返った時に、そういえば今までの選択全て押し付けがなかったと感じた。「あんたがしたいようにしなさい」これだけだった。それを言われた時自分は、心躍っていることだけにフォーカスすると創価大学やなと思った。なぜなら「あれだけ楽しそうな学生がいて、学生第一を掲げている大学」であり、自分のやりたいことや才能がさらに開花されると思ったからです。そしてその日に創価大学を選ぶことを決意。そこから面接練習とディスカッション練習。小論文は毎回吐き気がしたので、いかにアホとバレないようにするにはどんな文章がいいか、過去の小論文を見るだけにしていた。そして前日に1人で上京し、迎えた受験当日。ディスカッションと面接は普段通りできた。しかし問題は小論文だ。全く書けず時間内に終わることができなかった。もう一度あの時の感情が蘇ってきた。
終わった・・・次の大学に切り替えようと。
そうして迎えた合格発表当日。もう落ちた前提だったので普通に見てもおもしろくない。学校のクラスの電子黒板でみんなで見ようと思った。そして昼休み、恐る恐るログインしていざ見てみると・・・
「合格」の文字が!!!
ここでも思わずやったーー!!と飛び跳ねながら喜んでいた。一緒に見ていたみんなも喜んでくれていて最高だった。

11月に早々と大学が決まったのでもうここからはエンジョイタイム。
すぐ自動車学校に申し込み、学校終わりはスタバやファミレス。
最高に楽しかった高校生活でした。

母親が三代目JSBが好きなので自分達兄弟もハマり、ライブにも行ってました。

母親との初参戦

大学時代

初めての東京生活

初めて親元を離れての生活スタート。
最高のアウェー環境。高校の時に味わったアウェーとはまた違った。
日本の中心都市、でも八王子だから田舎だけど。そして色んな地方や国から訪れて集まった国際寮。

都会の人って割と冷たいんやそんな印象だった。
サッカーも続けるか迷っていたけど、正直プロ目指しているわけじゃ無いし大学にもなって続ける理由って何やねんと思っていた矢先。上京直前に福岡空港でまさかの高校時サッカー部の仲間がサプライズで待っていた。

そこで渡されたのはみんなからの手紙と最高級のナイキのスパイク。もう飛行機の中では手紙読んで号泣よ。絶対あいつらにも恩返しするためにサッカーは続けるとその時に思った。

そして寮のメンバーとサッカー部の体験に行った。「みんなうますぎる。俺が来るところじゃ無い。フットサルサークルに変えようかな」これが第一印象。でも寮のメンバーとサッカーした後の帰り道はとても楽しかった。こんな最高の同級生となら挑戦しても面白そうと思ってサッカー部に入部を決意。

経営学部の授業では一年目はやる気があったのでメモは取っていた。初めて一年生でインターンシップというものに挑戦して、SMBC日興証券会社で3-4年生に囲まれながら挑戦した。何もわからん。とにかく場を盛り上げよう。頭はそれくらいしか無かった。

海外留学初体験

留学生との交流も多かったので、実際に海外へ足を運び現地のリアルを感じたいと思い留学を決意。しかし、当初の英語力はTOEIC265点と全くダメだった。フィリピン大学の募集があったため、ノリと勢いでエントリーし、なぜか合格していた。参加者15人くらいいた中でほとんどが英語ペラペラ。留学当初は本当に英語が通じるか心配だったがまさかのフィリピン人と間違えられることもあり、持ち前のノリと勢いで現地にすぐ慣れてしまった。この時にジェスチャーや最低限の英語力で値段の交渉ができたのは貴重な成功体験だった。

人をサポートすることにやりがいを覚える

2年目からは学外活動やインターンの情報などを調べていた。そして留学生のサポートとして国際寮とは違う寮に移る。サポートアシスタントとして受かるために毎日夜中まで会議をし、結局12名から6名の中に選ばれた。日本に来てくれた留学生が一生の思い出を作れるよう全力で命を注ぐことを決意。留学生達との共同生活にも慣れてきて、長期インターンに通いながら、カフェのバイトをしてみたり、後輩の授業サポートアシスタントに挑戦したりしてみた。この挑戦が自分にとってめちゃくちゃ良かった。後輩大好きだし、みんなが大学生活楽しめるんであれば何でもしてあげたかった。この経験で人の成長や挑戦を後押しすることに生きがいを感じた。

初めて騙される

長期インターンで東大生のレベルに触発されて学内だけじゃ生きていけんと思い、いろんなビジネスのセミナーに参加し、いつの間にか見事にマルチ商法に引っかかっていた。この時初めて消費者金融を借りてしまった。キラキラしている周りに囲まれているとなんかできそうという意味のわからん自信だけがあった。しかし何か怪しいなと思い、詳しく聞いてみるとマルチ商法だったのがわかり、フェードアウトした。その失敗から学べば良かったのに、どうしても学内だけじゃ物足りなく、次は学生だけが通っているビジネススクールに挑戦し、また投資した。なんで働いても無いのに60万も投資できているのかは不思議。しかし講義内容を受け身のスタンスで聞いていたのでいつの間にか幽霊部員になってしまっていた。これはシンプルに自己責任。自分が活用しようとしなかったのが悪い。

長期インターンシップへの挑戦

長期インターンシップを再度渋谷で見つけ、パーソルのグループ会社パーソルイノベーションで働いた。基本的なビジネススキルを学びながらイベントの運営やメール作業、受付など当時の自分には向いていない業務ばかりだったなと痛感した。しかし、感度の高いビジネスパーソンに会えることは良い経験になった。

大好きだったばあちゃんとの別れ

その時期に長期闘病していたばあちゃんが癌で亡くなった
「なんでやねん。この前帰った時は普通に話せてたやろ」ばあちゃんが進めてくれた大学で頑張っている姿をもっと見せたかった。悔しすぎる。そんな思いが溢れながら福岡へ急遽帰った。あの時焦りすぎて飛行機に間に合わず、1日で2つの飛行機パスを取ってしまった。
到着した時には安らかに眠っているばあちゃんと会って、抱えていたモヤモヤが全て感謝の気持ちに変わり涙が止まらんかった。何かしらの恩返しがしたいと思い、急遽通夜/葬儀で流すばあちゃんの思い出動画を作成し、孫代表としての手紙も書いた。おそらく一時間以上ばあちゃんから離れなかったと思う。
ばあちゃん本当にありがとう。
当たり前に感謝し続け、人生を楽しく生きながら恩返ししていく重要性についてあなたの生き様から学んだよ。
本当にたくさんの方がお別れに来てくれていた。人格者である。
絶対に恩返しの戦いをするぞと決意し、大学生活に再度火をつける。

初めてのホームステイ

どうしても1人でホームステイがしたいと思い、学外の留学エージェントEF留学を利用し、アンバサダーとしてバンクーバーアイランドに向かう。フィーリングでしか話せない僕の英語をホストファミリーは快く受け入れてくれ、いつも笑顔で対応してくれた。絶対にまたカナダに行って恩返しします。

大学生活折り返し地点

高校時代に三年付き合った人とは遠距離になりお別れし、次の人を見つけた。これもまたクラスが一緒の人。この人はとにかく僕の挑戦を否定せず全て応援してくれて、頑張る活力と自己肯定感を常に上げてくれていた。本当に感謝している。

その頃、地元の成人式と高校同窓会での司会を務めた。
あの時間は一生忘れられない。


1人暮らしスタート

3年生からは1人暮らしがスタート。ここでもみんなを楽しませるために毎週のように家に友人を招待してパーティーを企画していた。
そして、サッカーをしながら就活イベントに週一参加し、ガンガン会社を受けまくった。

その最中にコロナが流行り、部活も中止。暇すぎて何かネタ作ろうと思ってファッションブランドを立ち上げる。

それがmountainseaだ。

これは高校の時から漠然と自分のブランドを持っておきたいと思っていたものがやっと挑戦できた。はじめて人にゼロから売るという経験をし、日商簿記のスキルを活かすために売上管理などもしていた。
初月は30万売り上げ、そのまま失速というより放置してしまった。

そして就活も全てオンラインになりこれはチャンスやと思った。ESを出しまくり、成長環境を追い求めベンチャー企業を受け、エージェントも8社くらい使っていた。そして合計で7社内定をもらいエンジャパンと迷った結果、採用コンサルのベンチャー企業アズライトに決めた。

遊んだ記憶しかない4年生

就活後はパラダイス。卒業旅行で最高の思い出を残したいという思いがあったので卒業旅行10回チャレンジに挑戦した。最終的にいつの間にか14回も行っていた。一緒に遊んでくれたみんなありがとう。

社会人時代

一年目

なぜか採用コンサルの企業に入ったのに、毎日学生にスカウトを送る毎日。時々企業とのMTGはあったが、それも業務の10%くらい。ほとんどディレクター業務。もうこれが苦痛で仕方なかった。早くコンサルに行きたい。でも会社としてはディレクター業務を理解しないといけない。それはそうだ。なにもわからないのにコンサルに行くのは危険すぎる。しかし、その毎日業務が嫌すぎるのと、コンサルまでの道のりが長すぎる。しかも入って3ヶ月で、会社全体的にミスが多発していたのでミス撲滅プロジェクトが発足し、まさかのリーダーに立候補していた。飲み会やMTGのファシリは全然やれたが、ミスについて何かを考えるなんて吐き気がしたし、ポジティブなことばかり考えている自分にとっては本当に嫌で仕方なかった。
その時はストレスに感じていないと言い聞かせていたけど、今振り返ると毎日黒かりんとうとバニラアイスを食べてストレスを誤魔化していた。ストレスって恐ろしい。

人生の転記

新卒一年目の5月、入社してやっと1ヶ月たった頃だ。「世界一やさしいやりたいことの見つけ方」という本を読んで、ジコリカイコーチアカデミーにいつの間にかエントリーしていた。しかも本を買った土曜日にオフィスに向かい、1人でワークした直後に申し込んだ。今考えると貯金もないのに120万を払おうとした自分が恐ろしい。けどその時の自分を褒め称えたい。家賃は8万、その他固定費5万、変動費6万、どうやって月々6万円ずつ返そうと思ったかわからない。そして面接をし、会社最年少として合格。これが本気で天職だと直感で思った

親に頭を下げる

でもここで恥ずかしい話、8月から始まったアカデミー。2ヶ月目で支払いがもう限界と思い、父親に相談。アカデミー受けていることをその場で発表し、「何で先に言ってくれんとよ」と言いながらも6万貸してもらった。社会人になって親孝行しようと決意していたのに、まだ親の脛をかじるなんて。本気で悔しかったし、絶対恩返しすると決意。今までいろんな商材に騙されているのにそんな自分を信じてくれていることがありがたい。本当に感謝。そして兼業をしながら取り組んだ。アカデミー同期2番目で合格し、クライアントも続々と獲得。初回のクライアントはまさかの同い年。2人目は親と同い年。絶対に命注いでやりたいこと探しを終わらせることを決意したのは今でも忘れない。

1社目とのお別れ

そして1月、仕事も落ち着いてきた時に、これはもう独立しようとノリと勢いで決めてしまう。でもビビリだし周りの目線を気にする性格なので、1ヶ月ほど悩み続けた。そしてお世話になったコーチに相談して、最後はじゃんけんで決めた。心の中では決まっていたけどね。
次の日には上長に報告して、その三時間後には事業責任者に呼び出されていた。最初の一言、「大丈夫そう?そんなんでやっていける?そもそも会社に黙って副業しているし、次はセールス部隊のマネジメントにいってもらおうと思ってたのに。自分勝手すぎない?」心にグサグサきた。まさかの大号泣してしまった。それに反論できない自分と、どうしてもやめたい自分が葛藤して涙が止まらなかった。そこから社内のいろんな先輩と話して考えたが、全くもって辞めるという決断が揺れなかった。

まさかの転職

その時はもう辞める準備をしていたので福岡に帰ろうと思い、東京で知り合っている人たちにとにかく会いまくっていた。すると、以前通っていたビジネススクールの社長に呼び出され、「どう?一緒にうちで学生たちにキャリアの支援をしていかないかい?」この話をきっかけにまだ社会人として揉まれてないと思い副業しながらでOKであればという条件で学生向けのキャリアコーチングの会社に転職した。周りは外資系で活躍していた人、元人事責任者など。エリートばかり。要求されるものはすべてその日中。「決断スピードが遅い。返信が遅い」とにかくスピードと量を求められた。本当に毎日心拍数上がりまくっていたが、あの時の経験は本当に良かった。コーチの採用やマニュアル作成、学生のエンゲージメントを上げるための施策、全て1人で行いながら上長にアウトプットし、ボツにされるのを繰り返し、最高に成長痛が痛すぎる毎日だった。

独立を決意

Youtubeで宣言

そうしてようやく少しだけ落ち着いてきた時に、「カフェやりたいな」さらに人と直接的に関わりながら挑戦を後押ししたいな。そんな勢いで辞めることを決意。何でカフェやりたかったのかは、コーチングを提供しながらみんなが集う場所を作り、挑戦のきっかけを作りたい。
そんな浅はかなところから独立することを決意。しかし8月に宣言してから退職する10月にはコーチングで人にさらに介入し、場の提供をしながら色んな人の挑戦を応援したいと思っていた。

そして2023年11月から独立&地元福岡に拠点を移す

今はコーチの育成や研修、そして個人事業主に対してコーチングを提供。コミュニティの運営、スクール運営に取り組んでいる。
初めて任されたコーチ陣のキックオフMTGの司会。最高のドーパミン出て楽しすぎた。
最速でSVにもなり、直接一人一人にアプローチして成果が出るまでサポートすることがより嬉しいし楽しい。

さらに基準値を上げるためにXのコンサル50万、TikTok20万、1月には150万のコンサル、4月からは100万のコーチングで日々アップデートしている。こう振り返ると投資のお金で「新車の車買えたな〜」と思った時もあったけど、それよりもこの自己投資して挑戦してきたことにいちばんの価値を感じている。昔の自分ありがとう。

これから

より人に向き合いたいと思いビジョンプログラムやビジョンスクール、コミュニティ運営に取り組んでいる。

まだまだ周りの友達には理解されてないが、それは自分が社会で実証示せていない証拠。さらに基準値を上げていきます。そしてより多くの挑戦の機会を作るためにも自分が挑戦していく毎日。最高に楽しいです。
30歳の自分からも今の自分にありがとうと言えるよう引き続き挑戦していきます。
これから1000名以上の挑戦のサポートをし、コミュ二ティをより活性化させ集まる場所をどんどん展開していきます。
目標達成の鬼として認知広げて、フロント活動とビジョンを構想していく。エンタメを届けながら自分の夢にも挑戦。きっかけだけでなく人生を変えるサポートをしていきます。

最後に

これまで関わってくれたみんな
現在関わってくれるみんな
そしてこれからも関わってくれる
みんな本当にありがとうございます!

少しでもさらに挑戦していきたい!と思われた方はぜひラインからご連絡ください。

ここまで読んでいただいた皆さんありがとうございました!

25歳山田海斗まだまだ挑戦していきます!
改めて25年間を振り返り、日々挑戦を止めずにがむしゃらに取り組んできて本当に良かったと思っています。

これからもさらにたくさんの人の挑戦を応援していきますのでよろしくお願いします!

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