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じめじめした日が続いていた中、突然文句無しの「夏」が来た。まさにそんな天気の日曜日だった。思い切り晴れた青空に、質量がありそうな白い雲。前日の夜にかなり夜更かしをしたせいで昼まで寝ていたけれど、窓の向こうの高すぎる明度に居てもたってもいられなくなる。

午後3時少し前、とりあえず眉毛だけ描いて、日焼け止めを雑に塗り、自転車の鍵と財布とキャンプ用の折りたたみ椅子、そして買ったばかりの村上春樹の短編集を持って家を出た。梅雨の間、ぐずぐず雨の午後によく行っていた近所の紅茶専門店で、アイスミルクティーをテイクアウトする。
自転車のカゴの隙間にミルクティーのプラカップを押し込み、液体の振動を気にしながら10分ほど自転車を漕いで海に向かう。国道の下をくぐって浜辺に着くと、自転車が大量に並んでいた。ここの海は海水浴場ではないけれど、週末は地元の人でそれなりに賑わう。それはコロナが蔓延するこのご時世でも、大きくは変わらないようだった。なんせ、浜辺の広さに比べたら、人の数なんて大したものでは無い。


波打ち際に並ぶ家族連れのカラフルなテントたち、そのかなり後ろにイスをセットした。サンダルを脱いで、素足を砂にずぶずぶ埋めながら、持ってきた短編集を読む。波音は右から左から、とめどなく響いてくる。紅茶専門店のBGMで流れるジャズと本質的には同じものだと思った。耳だけでなく全身に心地良さを与えてくれる。
短編集は、美しい言葉とわずかないらだちを伴う言葉がちょうどよく混ざり合う、退屈しないものだった。活字を追ったり、砂の上を駆け回る子供やハイネケンの瓶を片手に寛ぐカップルを眺めたり、目を閉じて波音の合間の音を聴いたり、そんな事をしているうちに2時間以上も経っていた。(短編集は読み終わった。読むスピードだけは相当に速いのだ。)
太陽は少しずつ西へ移動し、白っぽく光る浜辺は少しずつなめらかな金色を帯びてくる。子供も大人も金色の光の中でゆっくり溶け合っていく。波音はずっと変わらず同じフレーズを繰り返していて、風だけがすこしづつ涼しげになっていく。そこにあったのは、私がよく知っている、そしてとても待ち焦がれていた夏そのものだった。


先週は仕事でミスが重なり、ずいぶんと気の重い毎日を過ごした。明日からも仕事があるけれど、その状況が好転する見込みはない。自分ができないたくさんの事たち、上手くいかないあれこれ。それらを順番に並べていくと、ここに存在しているためのエネルギーがもう無くなっているような気分になってくる。過去も未来も一緒くたになって、暗澹とした色を帯びている。
でも、少なくとも今わたしは海に居て、この瞬間を堪能している。ここには過去も未来もなく、ただ目の前に波音と砂の感触だけがある。夏の陽気に誘われて、自転車で海に行くことができる、それができれば十分じゃないだろうか。何に対して十分かはわからないけれど、そう思ったのだ。
なんの脈絡もなく人生は続いていく。その中で波音をBGM代わりにする時間や、ミルクティーと小説をたのしめる時間があることが、生きることの意味なのだと思いたい。


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