俳句講座の講師をする知人へ


■芸術について、芸術を教えることについて

学生に説明する時のたとえ話です。

音や絵は自動車のようなものです。

 普段の生活の中で自動車はだいたい荷物を運んでいます。 その荷物というのは「メッセージ」とか「情報」とかいったものです。 普段の生活の中では、運ばれてきた荷物に意味や価値があるわけで、その荷物さえ送ったり、受け取ったりできれば、それを運んできた自動車は別に何でもよい、どうでもよい、ほとんど関心は寄せられません。またそういう自動車はその目的に合わせた条件の中で作られたものでだいたいが「カッコいい」ものではありません。
 さてFさんのおっしゃる「意味をなくした方が…」ということを自動車に例えると、「荷物を運ばない、運べない車ってどうなの」という話になってきます。ある人は「そんな自動車は役に立たない。意味ないじゃん」と言うでしょう。ところが反対に「スタイルをかっこ良くするためには、あるいは空気抵抗なくして速く走るようにするためには荷物のスペースない方が良いじゃん。座席も一つで十分」という人もいます。こうして自動車というものを、日常の実用的な目的から解き放つ、更には道路交通法や他人の迷惑に迷惑をかけないという道徳的な縛りからも解き放つことでことで、スタイルのかっこよさ、すっごいスピード、体中に響くエンジン音等々、自動車は自動車自体としての魅力を思う存分に発揮できるようになります。あるいは「日常では必要ないくらい沢山の荷物運べるようにしちゃうぞ」っというのも有りでしょう。いくらでも自分の欲するままに可能性を追求していくことができます。 そうやって自動車と付き合っていくことを心底楽しんでいる人達がいます(良し悪しは別として)。 
 「その車の目的は」ということは自分で経験しなくても話して聴かせてもらえれば理解できます。ところが「その車の魅力は」っていうことになると、身を以て、五感を使って体験しなくちゃわからない。その魅力は言葉じゃ説明できない。これは結構芸術との共通点な気がします。 そんなふうに考えてみるとどうでしょう。「荷物」を運ばなくなった絵、音…。
 ところで「言葉」の場合。言葉というのは「意味」を運ばなかったらただの「音」になってしまいますよね(「音が心地よい」というのは文芸の大切な要素だとは思いますが)。わたしも「おーいお茶」的なものにはまったく心は動きません、同じ言葉による表現なのに何故なんでしょうね。  どうも言葉の場合は「メッセージや情報=荷物」「言葉=自動車」という分かれ方ではないように思います。これとは違う図式の中で何か荷物に相当するものがあって、何か自動車に相当するものはあるのだとは思います。俳句における「自動車」は何?それは一体何から解き放たれているの? 
 前回、添削後の作品は本当に見違えるように良いものになったと思いましが、その分やや元の句から離れてFさんアレンジが多いようには感じられました。添削前の句と比べると、単に言葉の組み立て方だけではない、素材の選び方、着眼点、情景をイメージする力だなって感じられました。「文芸部」と絞り込んじゃうところとか、「若葉」と「風」をくっつけちゃうイマジネーションとか、「影を濃く」は同じモチーフでも凄く目に見えるようになってるし、「哲学の道の」の「の」が醸し出す感じは深いなあとか、「社」を「鎮守の樟」って全く言い換えちゃうとか、関心することばかり。でもやはりそのあたりちょっと生徒さんを置いてけぼりにしてしまったようにも感じられたのかな。Fさんの反省って。 
 今回のはそのへんが凄く押さえられていることが伝わってきます。生徒さんの素材や着眼点は保ちつつやってみるみたいない…正直添削後の句も前回のような趣は少ないように思います(指導上の良し悪しではなく、単に句として)。 難しいですね。でも詰め込み過ぎたかなっと思ったら、ちょっとゆるめるのは大事だと思います。まあ押すとこと引くとことバランスだから、詰め込みすぎるところがあったとしても全然構わないと思いますよ。むしろ結果オーライでいける心のゆとりを大切に。
 Fさんが添削した作品、特に前回のを読んで感じるのは、五感に働きかけるということ。 いろいろ書いてくるうちに思いついたことがあります。言葉は何を運ぶのかというさっきの話。通常言葉は過去にあったことを伝えるか、これからのことについて伝えるかどちらかです。既にあった出来事、これからあるであろう出来事。今まさに目の前で起こっていることを「言葉」にするのは不可能です。経験は一瞬後には全て過去になってしまうからです。
 今目の前にある「言葉」が過去のことでも未来のことでもなく、それらを示す記号でもなく、正に今、ここにおいて現在進行形で体験しているひとつの「事柄」としてあること。過去のこと、未来のことを伝えるには意味がよく伝わるように、筋道が立つように整理されます。つまり人為的に加工されたもの「情報」です。伝えることが目的ですから相手にわかりやすくいように加工するのは基本です。その加工の中で不要な物事、筋の通らない説明の出来ない物事、採るに足らないこと、不確かな事、目的と関係ない感覚的なこと、そういた諸々は積極的に排除されていきます。当然ながら。ところが私たちがまさに現在進行形で経験している「今」「ここ」はむしろそんな切り捨てられるべき雑多なものの固まりです、ノイズだらけです。そしてそれこそが現在進行形で経験している「今」「ここ」の証、リアリティであり、それは単に知性の対象ではなく五感をフルに働かせて感じるべきことです。 
 これは決して抽象的なことではなく、身の回りを見渡せばいくらでも感じられることです。実は人間は常にこうした得体の知れない現在進行中の現在の中で生きている、本当は生きるとはすごく孤独で不安に満ちたことなのです。ところが人間には具合のよい能力がある。過去の記憶と未来への展望を持つことでこの不安な状況から逃れることができるんです。過去の繰り返しとしてある現在、未来へとつながっていく現在。「現在」がもつ不安から目を背けるための幻想に過ぎないと言えるかもしれませんが、それでもその幻想のお陰で私たちは不安なく生活を送ることができるのです。
 しかしその一方でそのように暮らしているうちに人間は「現在」に麻痺してしまいます。「現在」は過去から未来へと繋がる惰性の中に埋没し、得体の知れない五感でしか感じ取ることのできない生き生きとしたリアリティ、生命感を失ってしまいます。それはすなわちそうい人間自体がそういう感性を失うこと、更に言えば人間としての全体性を失うこと(知性重視の頭でっかち)になることです。世界と人間はお互いにそれぞれを映しています。世界が豊かに感じられたならばその人の心は豊かだし、心が貧相だと世界もそのようにしか感じられません。 
 さて人間は自分が人間性を失うようなことから自分を救い出すことのできる本能を持っていると思います。それが「芸術」だと思います。人間が「芸術」を必要とする理由、「あんなものがなんの役に立つのか」と言われつづけながらも絶対になくならないのはそういうことだと思います。
 芸術において「新しさ」は重要です。しかしそれは単に「誰もやったことがない」というだけの意味ではありません。その作品に対峙する「現在」が、過去の繰り返しや延長でない「新鮮」なものであるということです。「個性的」というのは「誰もやったことがないことをする」というだけの意味ではありません。「新鮮」な体験をするということは、体験の主体である自分自身が「新鮮」だということです。例えば今目の前にあるものがよく知っているものなら、ごく限定された知識で対応できます。しかし、今目の前にあるものがまったく経験したことのない得体の知れないものだったらどうでしょうか。これまで経験したこと、学んだこと、感じたこと、見たこと、聞いたこと等々あらゆるものをつぎ込んで相手の正体を知ろうとし、対応の仕方を考えようとするでしょう。自分の全体性を経験することができるのです。そんな中で日常では知り得ない自分自身を感じる、そういいう意味での新鮮さ。
 現代芸術が小難しく感じられるのは、ありきたりのこと、よく知っていることもこうして敢えて得たいの知れないものとして捉えようとしているからだと言えます。大袈裟に言えば「おまえの全身全霊、人間としての全体を以てかかってこい」と。しかし現代芸術に限りません。ゴッホの絵はそれ自体、過去に見たヒマワリの代用品ではありません。ゴッホにとって制作は現在進行形で起こる生(なま)の出来ごとの連続であり、そうしてできた作品は今それを見る私たちにも、現在進行形で目の前で起こっている一つの新鮮な出来事となるのです。それはゴッホの作品を整理された情報、知識や概念で捉えるのでなく、そのありのままを五感で受け入れるとき感じられるものです。
 勿論芸術も人為によるもの、「加工品」に過ぎません。しかし、日常的な情報伝達とは全く異なる価値観で異なる素材を選びとっているのでしょう。  そこにある「言葉」が、今目の前で起こっている現在進行形の新鮮な出来事になれるか否か。これが言葉が芸術になれるか否かの分かれ目だと思います。
 因に、「真」の芸術は、現在を常に新しいものにするために、伝統を、例えば俳句の決まりごとなどを食い散らかそうとします。しかし人間は新しいものだけでは生きていけません。子猿が母猿が側にいてくれるからこそ安心していろんな挑戦をしいろんなことを身につけていくと言われていますが、人間にとって伝統や文化も母猿と同じような意味合いを持っていると思います。現実の人間は芸術だけではやっていけません。伝統や文化があって芸術にも臨んでいけるのだと思います。その意味では私は芸術が最高の価値だとは思っていません。バランスですね。全く自由な状態よりも、なんらかの制約があってこそ発揮する力にも方向性が与えられる。現実の(「真の」ではない)芸術とはかならずなんらかの制約を必要とします。
 前置きが長くなりましたが(前置き、長っ!)、「五感で感じられる工夫」ということに絞り込んで指導してみるというのはいかがでしょうか。そして作品の添削も勿論その視点から行う。そうすると生徒さんもなぜそのように添削されたのかがわかりやすくなるんじゃないかと思います。これまでは早く良い句ができるようにするため、そのためのさまざまなポイントや考え方がない交ぜになって添削が行われていたんじゃないかと思います。Fさんはきちんと説明していることとは思いますが、それでも生徒さんは何故そのように添削されたのか根拠とポイントが見定められず、置いてけぼりになったように感じているのではないでしょうか。もう少しいろいろ学んでそこそこの作品ができるようになったらば、いろんな考え方、ポイントを盛り込んだ添削にしてもよいかと思います。 
 「芸術」という話題がでましたのでそれと絡めて「五感」ということを言いましたが、俳句の指導のポイントは五感以外のことでも良いと思います。私にはわかりませんがもっと初心者にふさわしい制作のポイントを指導し、添削もそこに的をしぼったものにする。他に伝えたいことがあっても、多少俳句的に稚拙であっても目をつぶっておおらかにわかりやすく。  実は私も、そういう添削をしたいと思っているのですが、前にも言ったように通信制大学という限られた時間、限られた機会の中で指導しているとどうしても詰め込み主義になってしまいます。今回のFさんへのアドバイス、実はほとんど私自身の反省に基づいています。

 長く付き合える教室、肩の力を抜いて、Fさんの持っている良いもの十全に発揮されますように。

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