+80km/hの自由と想像力

■「芸術って何ですか」を考えてみる

 1.芸術についてのQ&A

 「芸術」という言葉は誰もが知っています。しかし、芸術とは一体何なのかということになると、専門家でもない限り、おそらくほとんどの人はなかなかうまく説明することができないのではないかと思います。私はこうして美術を教える仕事をしていますので、私なりの芸術に対する考え方を持っています。しかし授業を通じて伝えられるのはその断片に過ぎません。いつかまとまったカタチにしてお伝えしようと考えていました。今回改めてこの問題を取り上げようと思ったきっかけはインターネットのQ&Aサイトです。そこには芸術に関する質問も多く寄せられています。それを見ると世の中の人たちが芸術についてどんな疑問や質問を持っているのかがよくわかります。おそらく本学の学生の中にもこれと同じような疑問や質問を抱えている人は少なくないでしょう。このように一般の人から出てきた疑問、質問に回答していく、そんな気持ちで考えると「芸術」についてわかりやすい説明ができるのではないかと考えた次第です。
 そこで見つけた質問をいくつか紹介します「美しくないものも芸術なのでしょうか」「芸術は人の役に立ちますか?」「芸術の社会的な役割は何でしょうか?」「何故芸術が必要なのでしょうか?」「芸術作品の見方、捉え方は?」「芸術は最高の価値なのでしょうか?」「芸術作品とそうでない作品の違いは?」「芸術的価値とは?」「どうしたら芸術についての造詣を深められますか?」「芸術と社会の関係は?」
 さて、いきなりこれらの質問に答えていくのはちょっと無理があります。そもそも「芸術とは何なのか」「どのような活動であるのか」ということをはっきりさせておく必要があります。

2.芸術と自由

 「芸術」と「自由」が関係しているということはみなさんも薄々感じていると思います。芸術とはそれぞれの人が、それぞれに見つけたテーマに対し、それぞれのやり方で自由に主体的に取り組むことである。とりあえず今はそんな認識からスタートしましょう。
 今「自由に主体的に」と書きましたが、「自由」には「自らを由(「理由」あるいは「根拠」)として」という意味合いがあります。つまり「自由」とは単に制約や束縛がない状態のことではなく、主体的な姿勢のあり方も含んでいると言えます。
 「自由を手に入れる」という言葉がありますが、自由とは望んで努力して手に入れるものではありません。人間は誰もが生まれながらに自由を持っているからです。不自由というのは、例えば昆虫が本能に従って同じことを繰り返し続けるような状態のことです。
 人間は本能だけで生きているわけではありません。いろいろなことを学習し、新しい考え方や行動様式を身につけていくことができます。そうやって人間は自分の人生を「主体的」に作っていける、それが「自由」ということです。決して大袈裟なことではありません。「あの店は不味かった、もう行かない」こんな些細なことも学習による行動様式の変化であり、自由さの証です。人間や人間のいる環境を好ましい状態に変えていくことのできる「自由」、そのために物事の原理や真理を追求する「自由」。 「自由を手に入れる」とは正確には「自分の持っている自由を発揮できる状況を手に入れる」ということになろうかと思います。

3.自由と想像力

 自分や環境を変化させるにしろ、原理を探求するにしろ、そのためには「今」「ここ」に実際に存在しているものとは異なる自分や、環境のあり方を想い描く必要があります。そうやって活動の目標を設定しなければ「自由」はどこに向かって良いのかわからなくなります。それを可能にしてくれるのが「想像力」です。
 「想像力」とは字のとおり、「像」を想い描く力です。目の前で鳥が鳴いている。私たちは目を通じその鳥の姿を見、耳を通じてその鳥の鳴き声を聴くことができます。しかし想像力があれば私たちは「今」「ここ」に存在しない鳥の姿やその鳴き声を想い浮かべることがでます。更には、頭の中でその鳥たちと戯れたり、あるいは焼き鳥にして食べてしまうこともできるのです。想像力は人間にだけ備わっているものではありませんが、人間の想像力の性能は群を抜いています。恐らく、それぞれの生物の持つ自由の大きさと、想像力の性能の高さは比例していると思います。想像力を発揮するということは、自由を発揮するのと同じ、人間にとっては当たり前の活動です。普段の生活の中でなら、ほぼ無意識に発揮しています。気づかないかも知れませんが、人間はいつでもどこでも四六時中、「今」「ここ」ではないことばかり想像しているといっても過言ではありません。「次はどうする」という瞬間的な想像はあらゆる行動や思考に常に影のように寄り添っていて、そのお陰で私たちは一連の思考や行動をスムースに行うことができるのです

4.能力を発揮したいという欲求

 あるテレビ番組で「何故人間はわざわざお金を払ってホラー映画を見たり、ジェットコースターに乗ったりして『恐怖』を体験しようとするのか」というテーマを取り上げていました。それに対しある心理学者が次のような回答をあたえていました。

・「怖がる」ということは、人間が生存していく上で危険を回避するための大切な能力である
・人間には持っている能力をしっかりと使いたいという基本的な欲求がある
・安全な現代社会では実生活の中で怖がる機会も少なくなったため人工的に怖がる機会作り出してその欲求を満たしているのであろう
・そのように欲求に従って能力を発揮することを、人間は「快」と感じるように出来ている。

 能力は常日頃から使っていないと鈍ってしまう、そうならないために本能は特に目的がなくてもいろんな能力を使おうとしている、つまり能力を使うことそのこと事態を目的とする本能的な欲求があるということです。
 「想像力」も能力のひとつです。特に何かの目的がなくとも、ただただ想像力を発揮すること自体が目的となり得る、そしてそれが「快」を伴うことである…そこに「芸術」との関わりが見えてくるように思われます。先に述べたように想像力は普段の生活のあらゆる場面、あらゆる時に発揮されています。しかし常にその持てる力をフルに発揮しているわけではありません。
 自動車に例えてみます。法定速度は高速道路でも100km/hまでです。しかし非常事態に対応したり、余裕をもって円滑に100km/hで走ることができるためには、180km/hを出せるように設計する必要があるそうです。私たちの体力や思考力の使い方を想像すればこれは人間にも当てはまることだとわかります。勿論「想像力」についても同じだと考えるのが妥当でしょう。
 もし本能の欲するままに何の制限もなく想像力を発揮させたらいったいどんなものが飛び出すのでしょうか。想像力は想像以上にいろんなことを想像するに違いありません。何やらわけのわからない、得体の知れないものがいっぱい登場しそうです。段々と「芸術」っぽいにおいがしてきたように思いませんか。

5.回答を試みる

 「芸術とは、本能に基づき想像力をフルに発揮させることを目的とした自由な活動である」
 少し中途半端な気がするかも知れませんが、この段階でとりあえず結論は出しておくこととしましょう。話は逸れますが、私はこの「とりあえず××としておきましょう」という考え方は大切だと思います。すべてがはっきりするまで結論を保留にするのではなく、その都度その都度わかったことでとりあえずの結論を出す、検証を通じ修正や補完する、新しい「とりあえずの結論」を導きだす、それを繰り返しながらより確かな結論に迫っていくのです。
 さて、次からはいよいよ、この「とりあえずの結論」をもってQ&Aサイトの質問にどれだけ答えられるか試してみることとします。その中で考え方の弱点を修正したり、また新たな発見が得られることができるのではないかという期待を込めて。
 作品個々に制作意図や作用は千差万別ですので、ここではすべての回答にあたり「芸術一般としては」という前提で話を進めていきますので、そのつもりでお読みください。

1) 美しくないものも芸術なのでしょうか?
 「美」にもいろいろな考え方がありますので、ここでは「調和のとれた心地よさ」として考えることにします。現実には存在しないような、調和のとれた心地よいものを想い描くことも想像力の働きのひとつではあります。しかし裏を返せば、想像力の働きのひとつに過ぎないと言えます。先にも述べたように「恐怖」ですら人間にとっては大切なものです。「調和のとれた心地よさ」は人間にとって重要な意味を持つことに間違いありませんが、人間はそれのみを必要として生きているわけではありません。人間にまつわるあらゆることが想像力の対象となると考えるべきです。その意味ではむしろ想像の内容をが「調和のとれた心地よさ」に限定されることのほうが不自然で、不自由なものであると言えるのではないでしょうか。

2) 芸術は人の役に立ちますか?
 想像力を自由に働かせようとするなら、その働きを邪魔するものをなくす必要があります。想像力によって役に立つものを想い描いていけないわけではありませんが、役に立つことだけを求められたら、それは想像力にとって大きな足枷となります。ですからまず言えることは「役に立つかどうか」という前提ではやっていないということです。
 学術の世界には基礎研究と応用研究があります。基礎研究とは用途に考慮することなくとにかく何か新しいものを発見したり、より深い原理を追求することを目的とします。そのような基礎研究の成果を社会の役に立つようにするのが応用研究です。その意味では芸術は基礎研究と同じような意義をもつ活動であると言えます。しかし人々と全く無縁というわけではありません。その活動を通じて人々の想像を超えた新しいものや驚くべきものと出会わせてくれること、またそれを追求する人々の姿勢に触れることは私たちに直接感動をもたらしてくれます。

3) 芸術の社会的な役割は何でしょうか?
 想像力とは決して個人の能力にとどまるものではありません。社会も想像力を持っています。個々の人間にとって想像力が大切な役割を果たしているように、社会にとっても想像力は大切なものです。常に自由と想像力を鍛えている社会は新しいものを生み出し、また状況の変化に応じて自らも姿を変え適応していける生命力の強い社会となります。先ほどの自動車の話になぞらえるなら100km/hの自由と想像力を安定的に余裕をもって活用するために、180km/hの自由と想像力が発揮できる力が必要です。一見役に立たなそうに見えて実は重要な芸術という活動はそのプラス80km/hに関わるのかも知れません。芸術家は、表現内容そのものは縛られないものであっても、社会の一員としてはその責任とプライドを背負って活動する必要があると私は思います。
 それともうひとつ忘れてはならないことがあります。芸術が存在できる社会というのは、あなたの表現の自由も尊重され守られている社会だということです。

4) 何故芸術が必要なのでしょうか?  

 2)、3)の回答の中でも、既に芸術の必要性については触れています。ですからここでは「何故芸術のような目的や正体の曖昧な活動が必要なのか」という視点で回答を試みることにしましょう。目的がはっきりしている事柄に対処するのであれば、人間は自分の持っている知識や能力のうちどれをどのように使おうか見極め計画を立てることができます。そうやって最低限の手間と労力で効率的に対処していきます。
  ところが目の前の、今から取り組むべきことがまったく得体の知れないものだとしたらどうでしょうか。その正体を知るべく感覚器官のすべてをフル稼働させ情報を集めようとするでしょう。そして頭の中のあらゆる記憶と知識を検索し、知恵と想像力を総動員して判断を試みるでしょう。更に身体を使って様々に働きかけて試行錯誤したりもします。
 得体の知れないものを相手にするのは本当にやっかいなことですね。しかしその結果どうだったでしょうか。あなたは普段使うことのない様々ものをフル稼働させることがでたのです。しかもバラバラにではなく、ある瞬間にあなたの心と体のすべて、全身全霊、持てるものすべてがオーケストラのように協調ながら発揮されたのです。これはとても素晴らしいことです。
 「3.芸術と社会の関係は?」のところで述べたように、このように芸術が一人の人間に対して作用することは、社会全体にも同様に作用すると考えることができます。いろんな社会でビエンナーレやトリエンナーレといったアートイベントが開催されています。その社会にあるあらゆること、潜在的な部分まで含めて、こうした芸術の作用によって刺激され活性化されることが期待されているのです。

 さて、いかがでしたでしょうか。「芸術とは、本能に基づき想像力をフルに発揮させることを目的とした自由な活動である」というとりあえずの定義で4つの質問への回答を考えてみました。納得してもらえる部分もあったでしょう、またやっぱり釈然としない部分もまた少なくなかったかと思います。

例えば「自由ならなんでも芸術なのか」「自由度の高さだけが芸術的価値のバロメータで想像された内容は問われないのか」「絵画、彫刻、音楽、文学といった具体的な活動との関わりが見えてこない」等々みなさんには更なる疑問が湧いてきたのではないでしょうか。新しい疑問が湧くということは、あなたの「自由」と「想像力」が刺激されたということです。次回、こうした問題を踏まえ、更に「芸術」について考察を進めて行きたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?