物質と感覚器

 五感のいずれかで把握できる領域は物質界であり、五感のいずれでも把握できない領域は精神界と二分する。そして、物質界はさらに一次物質界と二次物質界に分けることができる。前者は物質の形、運動を指し、後者は色、音、味、匂いなど人間の感覚器に依存する。前者はおそらく万人にとって共通の世界であろうが、後者は必ずしも共通であるとは言えない。色よりも形の方が物体に備わった普遍的な性質であると言えるだろう。前者は万人にとって大きく変わらず感知できるからこそ、科学は成り立つ。十七世紀あたりに誕生した古典物理学の世界は、一次物質界を土台として成立しているものであろう。物質の色は人間の視覚によって認識するものだが、形は視覚と触覚によって認識するものだ。

 世界は時間と空間から成ると考えるときに、空間は一次物質界のことを指していると言ってよいかもしれない。物質の形や運動は、座標空間内に配置できるものであると考えて良いのだろう。二次物質界を把握するために重要となる感覚器は視覚、聴覚、味覚、嗅覚となり、一次物質界においては視覚、触覚となる。触覚は外部世界を最も直に認識できる感覚器である。触覚が人間の内と外を最も直接的につなぐと言えそうだ。触覚以外の感覚器は顔に集中しているが、触覚のみが全身に広がっており、進化の早い段階で身に着けた感覚器なのだろう。物質に当たった光が反射して人間の目に入ることで、人間は視覚によって物質を認知する。物同士が衝突する音が人間の耳に入ることで、人間は聴覚によって物質を認知する。視覚と聴覚は、人間と物質の間に光と音が仲介者として存在することで機能する。人間は目と耳によって直に物を認識しているとは言えなさそうだ。嗅覚も同じようなものだと考えられる。物質が放つ臭気を人間が感知して、やはり人間は臭いを感じるのであって、人間と物の間に臭気が存在していると考えられる。味覚になると、少し話は違ってきそうだ。物と人間の舌が直に触れあって初めて感知できるものが味覚なので、先に挙げた三つの感覚とは事情が異なる。味覚を感知するためには、人間は物に直接触れる必要がある。ここまで書いて味覚と触覚の区別がつかなくなってきた。味覚は触覚の一部として扱った方が良いのかわからなくなった。

 視覚、聴覚、嗅覚は当事者である人間と物質の間に距離があっても問題なく機能する。むしろ人間から離れた物質を感知するために重要な感覚器である。味覚と触覚は人間と物質との間に距離がないときに初めて働く感覚器である。直に接触することで機能する器官だ。空気中には光や音や臭気が存在しており、動物は進化の段階でそれらを感知する術を身に着けた。人間も同様である。目も耳も鼻も、人間の外側に存在する物質を直に認識するための器官ではない。間接的に認識するためのものであり、だからこそ距離が遠く離れている物体も把握できる。現代の科学では、光と音は電磁波として同じ括りに入れられるが、臭気に関してはよくわからない。

 一次物質界は、視覚と触覚の共同作業によって把握が可能となる。人間は見て触ることで物の形を正確に把握できる。空間内の物質を認識するために重要になる感覚器は視覚と触覚であり、その二つに比べると聴覚、嗅覚、味覚は役に立たない。また、一次物質界は人間だけでなく、人間以外の動物にとってもおそらく同じように存在している世界であり、だからこそ科学で扱える領域と言える。しかし、二次物質界に関しては科学で切り込める部分とそうでない部分があり、主観と客観の齟齬が生じやすい領域であると言える。このようなことは前にも書いた。二次物質界を一次物質界と同様に扱おうとすると、様々な問題が生じる。そもそも科学的方法で扱える領域は極めて限られているのだからしかたがない。

 このように私は勝手に世界を物質界と精神界に区分した。前に時間を主観的時間と客観的時間に区分して色々論じたりした。この二つの区分法がどのように関わりあうのか。そもそも世界を物質界と精神界に分けた場合は、はなから時間の存在を考慮に入れていないのではないかと私は前から考えていた。時間自体について考える場合、主観的時間と客観的時間に分けるべきではないかと思われる(これは自分が最近読んだ本の影響も受けている)。二つの区分法は似通っている。区分の仕方自体はとても似ている。世界を二分しようとするときに用いる方法は、同じパターンに陥りやすい傾向にあるのかもしれない。世界には様々な二元論があるが、どれも同じような分け方を採用しており、その分け方を問うべきではないかと思うことはある。時間の存在を無視した空間のみからなる世界では、物質界と精神界からなるという区分法が好ましく、空間をあまり考慮に入れずに時間について考えた場合に、主観的時間と客観的時間という区分法が好ましいようだ。

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