音楽から学んだこと(?)①

はじめに

こんにちは、みなさん元気ですか。最近、私は疲れていますが、noteに投稿できるぐらいの気力はあるみたいですね。今回も備忘録的な位置づけでくっちゃべるので暇な人は見てください。忙しい人も見てください。

さて表題にあるように、「分かっていること」って必ずしも豊かなんでしょうかね?言わずもがな反語表現ですので、私は「分かっていること」が豊かではないときがある、という考えを持っています。これまでに数々の科学の進歩により、人間社会が明らかになっています。豊かになったというのは事実ですが、その一方で豊かではない、もっと踏み込めば科学の進歩によって心の豊かさが減ったというのは既に指摘されています。

今度話したいと思いますが、これまでに私は理性的に生き過ぎた気がします。これから具体的な例を挙げたいと思いますが、今回は私の実体験に基づき、音楽をテーマに話します。

音楽を例に

みなさんは音楽は聴きますか。私はよく聞きますねえ。割と昔からクラシックが好きで、今でもよく聴いています。個人的な話ですが、現代音楽はあまりに複雑でついていけないっ、っていうのが現状です。ですが最近は、adoさんをはじめとした音楽も聴くようになりました。少し幅が広がりましたねん。
さて本題に入りますが、みなさんは楽典を勉強したことはありますか? 楽典とは簡単にいうと音楽の理論といったところです。ところで私は小学生の時からドラゴンクエストをやっていました。昔からドラクエ音楽が好きでして、先日のすぎやまこういちさんの訃報には驚きました。彼の音楽をこれ以上聴けないって考えるとねえ…。話がそれましたが、ドラクエの舞台は中世ヨーロッパぐらいだと思います。ドラクエ1と2のフィールド曲を聴いてみるとわかると思います。ちなみに、これらの曲のいずれも「ドリア形式」が用いられています。ドリア形式とは、レからはじまる音階です。レから始まるというと、ニ長調(Dメジャー)を思い浮かぶと思いますが、これとは決定的に異なる点があります。ニ長調では、ファとドに#がつきますよね? ドリア形式ではつきません! つまり私たちが使っている、全全全半…っていう感じの音階ではないのです。実際に音階を弾いてみると、なんか中世の教会っぽい感じに聞こえます。確かに中世ヨーロッパの教会の音楽に用いられていたようです。
さてよくわからない方向の話になりましたが、さっそく本題に入ります(なっが!)。作曲者は、中世ヨーロッパのイメージを出すためにドリア形式を用いたとします。本題をいうと、これを見抜くべきかどうかっていう話です。私は演奏者、音楽の表現者としては見抜くべきだと思うけど、果たしてそれが正しいのかがわからなくなりました。見抜いたら見抜いたで、作曲者の意図を汲み入れた演奏ができると思いますが、それでは心からの演奏ではないのではないかっていう話です。つまり、作曲者の意図が分からずに自分の感じたことを旋律にのせたほうがより自然な演奏ができるのはないかっていう考えです。なんせ私は演奏スキルがあんま高くないから、よっく分からん!っていうのが現状ですねえ…。
 っていう感じで、分かっているがゆえに豊かではなくなる可能性があるのではないか、という私の問いです。経験の浅い私ではまだ議論する能力がないですね。今後もっと考えてみたいものですな。

最後に小話♪

ヘアオイル使ったことある人いますか? どんな感じなんだか教えてもらいたいです。あと今日は休講だったらしいですね、知りませんでした。1コマあったから早起きしたけど、意味はなかったね。かなし。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?