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撮るパスタ、鮮明な記憶。

パスタの茹で時間、いつかの思い出に重ねたくて2010年のヒットソングを検索した。小学生の頃の記憶の断片、TVから漏れていた音、はたまた父が好んだ車の音。

懐かしい。
じわじわと忘れかけていた記憶の彩度が上がっていく。
父と母と、草津小学校の友人と、先生と、あの時代を生きていたのだと振り返る。

それと同時に、もう戻れないことの残酷さが私の胸に刺さる。

深く、鋭く。

かつて、変わらないものをテーマに文章を綴ったが、二十歳前後にして人や人が作る世界の儚さ・脆さを強く意識し、今日も記憶の代用として写真と映像を撮っている。ここには、自ら写真家や映像クリエイターと名乗ることを辞めた理由にも繋がっているが、私が肩書きや生業にしたいのは、「撮影」や「編集」ではなく、記憶の記録だ。

あの頃は戻ってこないし、今はすぐに戻らないものとなる。
当たり前の現象で、当たり前なので人々もこの残酷さを気にも留めない。

先日、小学時代の親友に昔の写真を送ると感謝された。
自分が「私は一生写真撮っているな」と伝えたところ

「当時は写真のイメージなかったけど今考えると本当にそうよな」「残ってるのもめちゃありがたいし嬉しい」

親友より

などと返信がきた。

写真が残っていることがありがたい。ということは、かつての記憶(写真)を思い出せたことに価値を感じたということだろうか?
いや、鮮明な記憶に触れることができたの方が近いか。

人は、戻ってこないはずの記憶に触れると価値を感じる生き物なのだろうか。トラウマなどもあるので、全てがプラスに働きはしないが。

1つ分かったのは、記憶は不鮮明、写真・映像は鮮明なのだ。

こんな文章を書いている今ですら、パスタを食べている時には過去となる。

今ですら、戻ってこなくなる。

今を撮ろう、今を撮ることが価値を生む。私の生きがいになる。
茹でているパスタを撮ろう、鮮明な記憶として。



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