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修整、結局人。

修整ばかりの世の中で。辞書の言葉たちは埃をかぶる。

写真。それが名は体を表さなくなり、どれほど経ったのだろうか。現在は外来語であるフォトグラフィ(光の絵図)の意味合いが約100%で用いられている。

魅力的に写ったモノ達の共通項を探す生活をしていたら、とある疑問が浮かんだ。広辞苑に載る意味は人類にとって必要最低限のツールでしかないのではないか?それぞれが付けた主観的な定義の方に実は価値があるのではないか?と。

今振り返ると、高校生までは辞書を覚え続けるような生活だった。A=Bと決められたものを、とにかく覚える。昨日も今日も明日も。正解を当て続けることでいつかは報いを受けられる。そんなふうに育てられた。

自分オリジナルの解を求められる機会は、数えるほどしかなかった。

しかし大人になって、A=Bを覚えているだけでは価値を見出されない事実に気がつく。「それは誰でもできる」と「できて当たり前だ」と。まして表現者は「ありきたりだ」「個性がない」「浅い」などの蔑みの対象にすらなる。

人が求め、必要とし、魅力的だと思うのは新たな解だった。

質問が限られたインタビューで、貴方にとって仕事とは何ですか?とわざわざ聞くのはなぜだろう。辞書に載っているような意味でなく、再定義を求められるのだ。

ではなぜ、主観的な定義を求めるのか?
それはおそらく、物事の再定義の際、そこには言い直す者の思考が大いに反映されるからだ。

言葉を別の言葉に修整するためには、必ずしも意味が必要だ。
「仕事は希望です」と言うならば、仕事がなぜ希望となるのか?の理由が必要であり、その部分に人間的な思考や実体験が伴ってくる。

再定義に魅力を感じるのは、私たちは無意識に、その人らしさ(個性)を求めているからだろう。

写真について触れよう

写真にも様々なスタイルがある。加工するもしないも、どんなカメラを使うも、撮り方も、色も、被写体も、思想も、何もかも。

今の時代は始点すらも分からない。過度なレタッチも撮影しているだけで優しいものだ、AIで作ろうが、フリー素材をPhotoshopで加工しようが写真として投稿される時代になった。正直なところ、それが撮影されたモノなのかテクノロジーの進化で既に判断ができない。

もう写真における修整の有無など、自己申告しない限りほとんどが分からない世界になった。

そうだ、答えなんて分かる筈がない。誰も知り得ない。しかし、それを推測で貶し合う空間が存在する。自論を語るだけなら良いが、自論に当てはまっていなければ否定する場所がある。

それがSNS上だった。

〇〇は写真家ではない。
写真家なら〇〇だろう。
プロは〇〇だ。
〇〇していない人間はフォトグラファーとは呼べない。

貶しあう空間にあったのは、自我で強固な武器となった再定義だった。

何かの再定義に成功した時、それは自身の魅力やアイデンティティの一部となる。対して、人に向けると武器となる。

自分で決めたルールなので、時と場合によっては他者の方に向けることで自身の表現となる。

しかし顔も見れないSNSで、日常的に武器を振り回す行為はあまりにも危険なのだ。

その矛先に納得いかないものが、誰かに自らの矛先を向け。主観の正義同士は、終わりなくぶつかり合う。

そんなことをする為に、あなたは写真家になったのか。映像クリエイターと名乗ったのか。

そうやって他者を攻撃し続けることを、一途や本気と呼ぶのならそれまでだ、私にとって肩書きの内側はあまりにも肩身が狭くて、2年前から名乗らないことにしたのだ。
その世界にいるだけで、無意味な矛先を向けられそうで怖かった。

そんな自分だ、烏滸がましくて写真家や映像作家などと名乗れないし、いまだに自身の説明が難しい。 

でも一つ言えるのは、あの世界から保身と解放のために離れたのは、正解だった。

あえて正当化するなら、あの分岐点が私のアイデンティティの確立だ。

その後、創作における修整を気にも止めなくなった。SNSも見なくなった。肩書きもなくなった。


見る対象は人の修整だけで十分だ。
結局、人。人間性だ。

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