気仙沼市内探索

中学生から参加できる東北ボランティアツアー まとめ

深夜の東北道、支援物資を満載にしたワンボックスカーは、大きな亀裂に なんども跳ね返って、交代でなんて寝てられません。
2011年3月27日、東北を襲った大地震から2週間ほど経ち、東北自動車道が開通したばかりでした。
翌朝、花巻に着くと復興支援団体を訪問。
情報を得た後、遠野から瓦礫の釜石をひた走り大槌に到着。
津波と火災で焼け野原になった光景は、今も脳裏に焼き付いています。
この時、「復興支援隊☆チーム府中」の代表Oとふたり、同じことを思っていました。
「復興するには最低でも10年はかかるだろう。復興を見届けたい。いや、見届けなければならない。それが、ここに立ったものの役目かもしれない」

大震災から8年、チーム府中のいろいろな取り組みの中でも、2012年から始めた この中学生と行くボランティアツアーは、代表Oが現地と繋がり、そして作った縁で構成されています。
そのため、通常のツアーにはない貴重な経験を聞くことができ、中学生が見聞を広める機会であったとともに、Oや私にとってもとても大切な活動でした。
しかし、応募が少なくなり残念ながら10年を前にして、今年を最後にします。

ツアー変遷

ツアー初期
大型バスを借りて夜出発、翌朝着いた気仙沼の市内を気仙沼の若者から震災当時の話を聞きながら散策。
そのあと、唐桑でカキの漁業者さんのお手伝い。
暑い中の慣れない作業は、子どもたちにとって大変だったと思います。


作業のあと、ご褒美に乗せてもらった漁船クルーズは爽快でした。
船上で食べるホタテは、疲れからの開放感も手伝い、この上なく美味しく、楽しい思い出になりました。

フェリーで大島にも渡り、ボランティアをしたこともありました。
帰りには南三陸や陸前高田、名取に至る沿岸部をまわり、各地でお話を伺ってきました。

写真は、SF小説に出てくるような光景。
盛り土のため山を掘削しその土を運ぶためのベルトコンベアーが、宙を舞っていた2014年の陸前高田です。

年月の経過とともに
ボランティアを中心に行っていたツアーも、年月を経て少しずつ形を変え、チーム府中の活発な活動を現すように、訪問先や話をお聞きする機会も幅広く増えていきました。

写真では、気仙沼の波路上にある地福寺住職から当時の話を伺っています。
避難所となっていた こちらにも津波が押し寄せたそうです。

70名を超える児童が犠牲になった石巻市の旧大川小学校では、遺族の方に貴重なお話を伺いました。
他にも、南三陸の高校生の語り部「まずもって」や、閖上の「閖上の記憶」など、多くの語り部の方からもお話を伺いました。

相馬農業高校と
このような活動をしていると、時として思わぬ出会いもあります。
以前からの知人が、南相馬市の相馬農業高校と繋がりがあり、その方の紹介で、ここ数年は最終日に相馬農業高校のハマナス農園で高校生とともに、活動をしています。


相馬農業の生徒さんが震災後に調査したところ、自生するハマナスを見つけ、その後、栽培を始めめたそうです。

2018年夏、東松島に防災体験教育施設「キボッチャ」ができると聞き、この2年ほど宿泊しました。
前身は野蒜小学校で、近くにある航空自衛隊のOBなどがスタッフを務め、周辺の案内や実践に即した訓練を体験してきました。

この8年の間に、大型バスからマイクロバスに、そして今年はワンボックスカーと参加者の減少とともに、車も小さくなりました。

8年経って

8年が経ち防潮堤や道路などのインフラ、高台には復興住宅もあちこちに整備されつつあります。
「ハードはできたので、これからはソフト。どれだけの人が戻ってくるのか。それが鍵となる」と現地のみなさんは口々に話しています。
今年、南三陸から石巻に向かう国道には「○○団地入り口」と書かれた看板がいくつもありました。
海岸に近いところは、漁業権を持っている人は住むことができますが、漁業権を持っていない人は高台にある復興住宅に移住しています。

名取市閖上地区では、住宅があったところを造成、土盛りした上に復興住宅を建てています。
「商店やスーパーもなく、買い物も医者にかかるのも離れた街まで行かなくてはならない。年金を下ろそうにも街にある銀行に行かなくてはならない。ここでは、高齢者でも運転ができないと生活できません」と聞きました。

立派な堤防も立派な道路は誰のため?
もともと、この地方は人口が流出傾向にありましたが、今回の地震・津波がそれに拍車をかける形となりました。
震災の後、復興に何年かかるか分からない状況でしたので、資金のある方はいち早くこの地を離れたそうです。
バラバラになったコミュニティを8年も経った今、イチから作り直すことができるのでしょうか。

閖上の語り部は、復興住宅が建っているその場所を指差し、「他のところにあった里山を崩してここに持ってくる。ここに盛り土をするために自然破壊をしている訳です。仙台平野になぜ土を盛る必要があったのか。1000年経って、未来の人はきっと不思議に思うことだろう」と語っていました。

そう言えば、気仙沼線や大船渡線は不通となった後、線路があった場所はアスファルトで舗装され、BRT(バス・ラピッド・トランジット)という高速バスが運行されるようになりました。住民の足として1日も早い復旧が必要との理由もあったようですが、将来的な乗客の見込みと再開費用を検討した結果だったのでしょう。

明日のために忘れない
この大震災を後世にどのように伝えるか、住民を含め議論したとは思いますが、地域により、その取り組みに大きな違いが現れてきました。
学校などの被害を受けたところを遺構として整備をし、伝承館も併設しながら、後世の人に伝える取り組みをしているところ。
全てを取り壊し、メモリアルパークを造成し記念碑を建てて、伝承については行政の取り組みがないため、遺族の方が中心に民間が取り組んでいるところ。
被災した小学校を残すか取り壊すかの議論が長く続けられ、やっと残す方針が決まったものの、維持などを遺族や全国からやってくるボランティアが行なっているところ。

ツアーの訪問先では、語り部ガイドのみなさんが、多くの人に伝える活動をされています。
お話を伺い共通するのは、亡くなっていった方の生きた証として当時のことを話す以外に、このような災害においても被害を少なくする方法を伝える、考えることに目的があるように感じました。
そのためにも遺構を残すことに意義があるのと思います。
それは決して感傷的、後ろ向きな姿ではありません。

大川小学校の「小さな命の意味を考える」には、こんな文章がありました。
「変わろうとすることは、忘れようとするのではなく、忘れないことで、気づいたり、見直すことだと思っています」
終わったことではなく、次の災害に備えるのは、今生きている私たちの役目です。

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