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遠くのひと

遠めに歩いてくる人がいる。

こちらに向かって来ているとも横向きに歩いているとも、あるいはちょっと斜めに離れて行っているとも判別の付かないぐらいの距離感。100mぐらい先に歩いているその人は、どうやら知ってるあの人っぽい。

(おーーい)

僕はまだ声に出していないけど、そう呼びかけるぐらいの気持ちで自然と足が速まる。

6,70m

ちょっと右手を挙げてみる。肘を完全に伸ばしてぶんぶん手を振れる間柄の人ではないから、でもお世話になってるあの人だと思うから、ちょっと右手を挙げて、あごの高さぐらいに止めてみる。

挙げるだけで振ってはいない。手を振れる間柄ではない。あごの高さで手を振る間柄は、ちょっと好きかもっていう高校の同じクラスの女子だ。今見ている相手はお世話になっている同僚であり、上司ではないが目上の人だから、大人のカジュアルフォーマルな会釈として、ちょっとだけ右手を挙げてあごの高さで止めてみる。

知ってる人と思われるその人は、こっちを見ていないかもしれない。
目が良くないのかな。



4,50m

知ってるっぽい人はこっちを見たが僕の右手に反応しない。


40m


知らない人だった。

僕は右手の引っ込みがつかず、別に伸ばそうと思って伸ばしているわけではない無精ひげの端っこを掻くふりをした。あごの高さに挙げた右手には会釈以外の用途がいくつかある。右手には申し訳ないことをしたが、僕は会釈から逃げた。


25m

知らない人は真っ向にこちらに来ているわけではなく、僕から見て斜め左方向(西北西の方向)に移動していたので、僕の遠めの会釈に気付いていたかも知れないが最終的には気付かないふりをしてくれた、優しい人だったと思う。

知らない人は長めの髪を下ろしてモノトーンの落ち着いたダークなコートを着てマスクをしてうつむき加減で、ほかの誰とでも見えそうな何処にでもいる体型の人だった。僕は知らないその人を「知っているあの人」として、100mの距離からずっと目を細めながら凝視していたことになる。


もしかしたら「知らないその人」は100mの地点から僕の凝視に気付いていた可能性もあり、本当は最短距離で僕のいる方向に用事があって歩いてきたかったにも拘らず、僕が変な右手の会釈をしながらわくわくした顔で近づいてきたから、西北西に方向を変えて僕の視界から外れようとした可能性はある。




そんな日曜の正午。