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山田上団地 地図から消えた場所

EXPO '70とぼくたち家族のいえ

 いつもの、ランチのあとの本屋散策で、僕はその地図に出会ってしまった。
 私鉄沿線の今昔を駅ごとに地図でたどるという企画に興味をひかれ手に取った本の、阪急電車千里線一九六七年の地図に「山田上団地」が記載されていた。一九七〇年、大阪・千里丘陵で開催された万国博覧会の前の何年間かを、僕たち家族が住んでいた所だ。
 山田上団地、一九六三年十月に吹田市により分譲された住宅地で、一戸建て住宅を建てるための宅造団地だった。折しも高度経済成長期の住宅難に対応するため吹田市が開発し、市民を対象に分譲したものだった。現在の地図には載っていない。それがあったところは、万国博覧会場の跡地であることを示す千里万博公園という地名表示の、広大な白紙状の、のっぺりとしたゾーンとなっている。
 あの家に住んだのは、僕が何歳からだったのだろう。東京オリンピック(一度目の一九六四年一〇月 東京五輪)のテレビ中継を、泊まりに来ていた従兄たちと観た記憶はあるのだが思い違いかもしれない。今は亡き両親に聞いてみることはもはやできない。この年上の従兄たちの家には、僕と弟もよく泊まりに行った。上の従兄が国葬(戦後一度目の一九六七年十月 吉田茂・元首相国葬)の中継をテレビで熱心に観ていたという記憶は、僕も小二になっていたので確かなのだが。
 それまで子供二人と社宅暮らしだった両親は、この宅地分譲に申し込み当選した。吹田市の分譲だから何といっても安心(当時のこと悪徳不動産業者などもいたのだろう)だし、水道・電気・ごみ収集完備の好条件物件、マイホームを持つ絶好のチャンスだ、と周囲が薦めてくれたからだが、土地購入に加え家も建てることとなり会社が資金を貸してくれるというので借りることになった、と母親から聞いた。会社からとは言え借金を負うことになったわけである(この分譲地は、契約後二年以内に上物を建てて転居しなければ入居の権利を失うという建築条件付だった)。
 母がこの顛末をどのように考えていたかはわからない。父は会社での仕事がうまく行きだした頃で、決して少なくはなかったであろう借入金も、夫婦二人で頑張ればなんとかなる、と話して合意したのかもしれない。
 あの家での、ある日曜の遅い朝食を覚えている。白い皿に盛られた母の手づくりのサンドイッチを、庭のベランダに持ち出した食卓で、紅茶と一緒にみんなで食べた。家族でのそうした食事は初めてのことだった。
 それまで住んでいた社宅には庭はなく周囲も平地の住宅地だったが、あの家は千里丘陵の広大な竹やぶを切り開いた南垂れの丘状地で陽当たりも風通しも良く、庭からの眺めも気持ちが良かった。暮らしの舞台のそんな変化が、あの日曜の朝食のアイデアを、母に思い付かせたのかもしれない。
 山田上団地の世帯数は八十あまりあったのだが、米や灯油を扱う米穀店以外に商店はなかった。毎日の生活に必要な生鮮食料品や日用品を買うためには、団地の外に行かなくてはならない。団地を取り囲む雑木林の、住民たちが歩いて踏み固めた道を通って、隣接する千里ニュータウンの店舗まで行った。
 この千里ニュータウンに結節する地点を走っていたのが小野原街道という道で、箕面市の小野原と摂津市の千里丘を現在も結んでいる。そしてこの小野原街道は、この頃より遡ること十年余りの一九五二年六月に起きた吹田事件の舞台のひとつとなった場所だった。
 吹田事件とは、その二年前に勃発していた朝鮮戦争に反対する人たちが、東洋一の操車場といわれた国鉄(当時)吹田操車場へのデモ行進ののち構内になだれ込んだもので、非公然の地下活動もおこなっていた当時の日本共産党員もこのなかにいた。現場となった吹田操車場に向けて、デモに向かう集団が夜を徹してこの小野原街道を歩いたという。
 父は、学生時代に党の周辺協力者だったと、一度だけ聞いたことがある。吹田事件に先立って起きた血のメーデー事件(東京皇居前広場でメーデーのデモ隊が暴徒化し死傷者が出た)ののち、当局に捜索されている人物をかくまってほしいと要請されたがそれを断り、協力者活動からも離脱した。
 周辺協力者に過ぎなかった父だが、社会変革につながると考えた若き日の行動と、今は実社会において職業人や家庭人として市民社会生活の改善を目指そうとしている、時間を隔てたこのふたつの思いが、この道で交錯していたのだ。僕たち兄弟は父とここを何度も渡ったが、父は気づいていたのだろうか。
 一九六五年九月、山田上団地を含む千里丘陵一帯が万国博の会場に決定した。分譲時の入居条件であったまさに二年後に、今度は立ち退きを迫られることとなる。立ち退き要求に対して当初住民は態度を硬化させ、説明会ではこれを非難する強硬意見も出たが、万国博という国家プロジェクトの前ではいずれ買収の条件交渉に移行せざるを得ず、条件闘争に対する住民間の温度差も顕在化していった。
 「今夜の住民会議で妥結案(妥結額)受け入れが決まる。それで終わることになる」
夕食を終えると父は母にそう言って、夜の会議に出かけていった。
 ちょうどその頃、もうひとつ家族にとって大きな転機があった。父の東京転勤が決まった。異動は栄転で、母の心中はともかく、父にとってもはや立ち退きは重大事ではなくなり、俄然社業に傾倒していくことになる。
こうして、僕たち家族のあの家での生活は終わることに。ほんの何年間か住んだだけの新築の家は取り壊された。乱暴な時代ではあった。僕たちの家の跡地は、万博会場では英国館パビリオンの辺りになるのだと聞いた。
 
「万国博の用地買収ほぼ終わる 山田上団地も解決」
「【大阪】万国博用地内で、買収が難航していた吹田市山田上団地自治会(折田英夫会長、八三戸、未建築三戸)は、二一日夜開いた役員会で、大阪府がさきに示した「一戸平均八百万円」の買収案を受入れることをきめ、あっせん役の山本吹田市長に伝えた。
これで、まる二年間もみにもんだ同団地の買収交渉はやっと解決し、万国博用地約三百三十万平方㍍のうち未買収地は三%たらずとなった。」(『朝日新聞』一九六七年一〇月二二日)
小さな新聞記事だが、国家イベントである万国博の用地買収問題解決という内容からか、東京本社版に掲載されている。
 一九七〇年三月、千里万博EXPO`70開幕。
 一九七〇年四月、父の転勤で東京は武蔵野の地に引っ越していた僕たち家族は、そこで生まれた弟を加えた五人家族になっていた。
小学五年になった僕は、それまでそりの合わなかった壮年の体育教師から開明的な(彼女は翌年の東京都知事選挙期間中、美濃部革新候補陣営の緑のバッジを就業中も着け続けていた!)担任に変わり、新しい友達ができたこともあって、毎日何かが変わる予感を抱きながら学校に通い、かつて住んでいた場所のそのニュースは、遠いところの事だと感じていた。

 【参考文献】

生田誠『阪急全線古地図さんぽ』フォト・パブリッシング、二〇一八

山田自治会郷土史編纂委員会編『山田郷土史山田のあゆみ』山田自治会郷土史編纂委員会、二〇〇一

吹田市史編さん委員会『吹田市史 第三巻』吹田市役所、一九八九

吹田市市長公室編『吹田市政三十年の歩み』吹田市市長公室、一九七〇

西村秀樹『大阪で闘った朝鮮戦争 吹田枚方事件の青春群像』岩波書店、二〇〇四

石川元也『朝鮮戦争と吹田事件』吹田市立博物館特別講演会レジュメ、二〇二二

朝日新聞、読売新聞


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