喪失と成長 (宇多丸の「STAND BY ME ドラえもん」評より)

 宇多丸の映画レビューをずっと聞いていたが、一番唸ったのは映画「STAND BY ME ドラえもん」の批評だった。

 「STAND BY ME ドラえもん」という映画自体はドラえもんの総集編という感じで、テレビ屋が作った大ヒットを狙った作品、とはいえ、その目的に対しては忠実な「よくできた」ものだ。自分は、この作品自体は全く興味がなかった。

 しかし、宇多丸が、この映画を批評をするのを聞いて唸ったというか、久しぶりに、批評というものの重要さ、大きな力を感じた。この回の批評は他の回と比べても傑作だと思う。こういう「神回」が出てきたのは、宇多丸が原作のドラえもんを好きで、しっかり読み込んでいるという所から来ていると思う。

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 まず、宇多丸のレビューを元に、対立図式にして考えたいと思う。この対立図は単純なものにするので、特に、原作ドラえもんに詳しい人から(そうじゃない)という声があがるだろう。完全に間違っているわけではないが、ところどころおかしいとか、そういう所が出てくる。それに関しては意図的にやっているので、あくまでも、自分の意図を考える上での「利用」として考えていきたい。なんというか、自分が下敷きにするのは、原作のドラえもんではなく、「STAND BY ME ドラえもん」でもなく、あくまでも、宇多丸の「STAND BY ME ドラえもん」評である。そこから、わかりやすい概念を二つ抽出する為に、それぞれの作品のニュアンスを捨象する事になるが、それは最初に断っておきたい。

 さて、宇多丸は映画評でどんな事を言っているだろうか。簡単に言うと、原作の構造と、新作「STAND BY ME ドラえもん」(「STAND BY ME」と略そう)の構造の違いに言及している。構造の違いは、作品哲学の違い、更にはそれぞれの人生観の違いに収斂されていく。

 宇多丸の言いたいのは次のようなものだ。ドラえもんとはそもそもどういう作品か。それは「のび太」というどうしようもない少年の成長物語である。ドラえもんには、作者がつけた三つの最終回があり、特に、三つ目の最終回が重要だと宇多丸は捉えている。

 三つ目の最終回「さようなら ドラえもん」とはどういうものか。wikiから引っ張ってくるが、のび太はいつものように、ジャイアンにいじめられて帰ってくる。ドラえもんに喧嘩に勝てる道具を貸して欲しいとのび太は甘えるが、ドラえもんはいつになく冷たい。様子がおかしいと思い、ドラえもんを問い詰める。ドラえもんは、未来に帰らないといけなくなったという告白する。

 この唐突なドラえもんの「別れ」の場面を契機にのび太は「成長」する。のび太は最後の夜、眠れずに外に出る。そこで、ジャイアンとたまたま会い喧嘩になる。何度も殴り倒されるが、のび太は「自分がしっかりしないとドラえもんが安心して未来に帰れない」と必死でジャイアンにつかみかかる。ジャイアンは根負けして、「おれの負けだ」と言う。のび太は家に帰り、とうとうジャイアンに勝ったとドラえもんに報告する。その報告を受け、のび太の成長を知った状態で、ドラえもんは未来へと帰ってゆく…。

 さて、この感動的な最終回の後、「帰ってきたドラえもん」という『続き』が書かれる。これはタイトルの通り、ドラえもんが帰ってくるという話で、これはこれで感動的な話になっている。

 宇多丸の評を聞いていると、原作への批判にまでは踏み込んではいないが、「帰ってきたドラえもん」は蛇足だと考えているのがわかる。宇多丸の言いたい事は次のようなものだ。

 「ドラえもん」とは一体どういう作品か。それは、のび太という少年の成長物語である。しかし、のび太が実際に成長してしまえば、作品は終わってしまう。だから、ある種、「のび太・ジャイアン・スネ夫・しずか・ドラえもん」の主にこのメンバーで構成される世界は「永遠」である。この辺りはコナンなんかもそうだろう。

 ここで、少年時代は、一種の牧歌的な、永遠の遊戯的なイメージで眺められる事になる。僕自身の意見も言わせてもらうと、「ドラえもん」が凄いと思えるのは、今言ったメンバーだけで、「少年時代の世界」をほとんど全て表現している事にある。

 また、このメンバーでは、ドラえもんだけが特異な存在である。ドラえもんはのび太の話をなんでも聞いてくれて、願望を叶えてくれる、そういう僕らの根源的な欲求、根っこにある欲求を満たしてくれるものである。ドラえもんは、僕らの子供時代に「いてほしかった存在」であるが、「実際にはいなかった」ものだ。このドラえもんというキャラを付け加える事による大きな結果、子供向け作品としてのクラシックになったのは、大いにうなずけるものがある。

 さて、それでは、この世界においての「成長」とは何か。宇多丸が言いたいのは次の点ーーー「成長」とは「不可逆」なものという事だ。つまり、「さようなら ドラえもん」においてドラえもんは二度と帰ってこない。二度と帰ってこないとのび太は確信し、受け入れる。ここで絶対に強調しておきたいのは、ドラえもんは二度と帰ってこない、もうそれが永遠の別れであるから、否応なく、必然的にのび太は成長せざるを得ないという事だ。

 この関係は甘く考えるべきではない。のび太が成長するのはあくまでも、ドラえもんとはもう二度と会えない事、ドラえもんにもう決して頼る事ができない事、それを受け入れるからこそ、のび太は自立するのであって、いつまでもドラえもんが助けてくれていたら、のび太は永遠に成長できないままである。

 だから、宇多丸的な視点からは、「帰ってきたドラえもん」は蛇足なわけである。自分もやはり蛇足であると思う。しかし、この辺りの関係は、「ドラえもん」という原作では、混乱しているというか、あやふやなままになっている。「ドラえもん」は、子供向け漫画のクラシックであるから、そこにずっと居続けられるような、そういうものである事が望まれる。「ドラえもん」に明確な「終わり」が来たら、それは子供向けではなく、もっと自立的な、何か違う形態の作品になってしまう。

 さて、それでは映画版「STAND BY ME」はどうか。映画は当然尺があるから、ずっと続くテレビシリーズとは違う。そこで、作品全体をどう見せるかという事は、どういう終わらせ方をするのかという事と大きく関わってくる。「ずっと楽しければいい」ではなく、「明確なラストがある」が映画の本質としてあると言っても良いだろう。

 「STAND BY ME」の終わりはどうなっているか。これは、原作の「帰ってきたドラえもん」を当てている。つまり、ジャイアンとの喧嘩、勝利、ドラえもんとの別れ、その後にドラえもんが帰ってきた部分を当てている。宇多丸の言葉を借りれば「STAND BY ME」の監督は、ドラえもんの存在する少年時代を円環構造として、輪にとして閉じようとしている。つまり「永遠にドラえもんがいる世界」であって、最後が「さようなら ドラえもん」ではないわけだ。宇多丸はこの点に対して疑問を呈している。つまり、次のような対立構造がある。

 〈宇多丸的ドラえもん〉

 「さようなら ドラえもん」を終わりとして、ドラえもんとは永劫の別れを経験する。それが不可逆の経験である為に、のび太は人として成長する。それによって、「ドラえもん」の世界、少年時のノスタルジックな空間そのものが終わり、作品も終わる。終わる事により、むしろ始まる何かもまた存在する。

 〈「STAND BY ME」のドラえもん〉

 「帰ってきたドラえもん」を終わりとする。これによって、少年時の空間は円環構造になり、ドラえもんのいる、ドラえもん的な世界は永遠に続くものとされる。「ドラえもん」という作品はいつまでも終わらず、ずっと続く事が示唆されて作品は終わる。作品内では、ドラえもんは存在し続け、ある種の黄金郷は続いたままだ。

 この両者の見解は、そもそも原作の「ドラえもん」自体が、両方含んだ微妙な作品だったために、二つの見方が出てきたと言えるだろう。これはかなり重大な対決だと自分は考える。

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 話を映画「STAND BY ME ドラえもん」の方に振るが、そもそもこの作品は明らかに一般客狙いの、感動させようという製作者の魂胆の見えた作品である。アマゾンプライムにあったので少し見たが、自分はほとんど興味を感じなかった。

 しかし、それは所詮「主観的意見」でしかないと人は言うだろう。では、この作品に「感動した!」「泣けた!」「良かった!」という人は、そもそもどういう観点でこの作品を見ているのだろうか。

 もちろん、別にそれは「どういう観点」でもないのであって、「そもそもそんなに理屈っぽく見てないわ!」だろうし、「楽しかったんでごちゃごちゃ言うな」「売れたから凄いでしょ」というもので、それ以上のものはほとんどないだろう。逆に言うと、それ以上のものを映画とか小説とかに求める人、アニメに、普通の視聴者が望む以上のものを望む人はこういう作品からはだんだんと巣立っていくものだと思う。自分自身で言えば、中学生の時は司馬遼太郎なんかが好きだったが、今ではまともに読めない。それは、小説に求めるものが「進歩」(進歩と言わせてもらおう)したからであって、観点が変化した為だ。

 「STAND BY ME」という作品に一般観客が求めるものは何か。また、製作者が狙いとしているものは何か。この二つがうまく一致し、技術的に作品を成立する上で、それなりのラインを越えたからこそ、この作品はヒット作になった。しかし、ここで、一体、何が観られているだろうか。

 簡単に言えば、この作品に感動した!という人々はライト層であろうし、大層なものを映画に求めていないと想定される。あくまでも、この作品は「娯楽」でしかないわけである。「娯楽」、つまり「楽しめれば」いいのであって、それ以上のものは、求められてすらいない。

 これは、「STAND BY ME」という作品そのものの内容と釣り合っている。「STAND BY ME」のラストは宇多丸の言うように、少年時の円環構造が示唆されて終わる。黄金時代はいつまでも続く。ドラえもんは願望を叶え続けてくれる。永劫の別れと見えたドラえもんは「帰って」きた。だから、また物語はスタート地点に戻る。

 これは、自分達が「楽しければいい」という一般観客の要請するものと釣り合っている。だから、監督の山崎貴はヒット作を作る才能というのは確かにあるが、その才能はあくまでもそういう観客向けのものなのだろう。ここには一致点がある。自分達が楽しくなれればそれでいい、という人々の在り方と、実際に楽しい、甘えられる、ドラえもんのいる少年世界がずっと続くというのは、一致した事柄だ。

 しかし、宇多丸の言いたいのはその先の事だと思う。つまり、「それでいいのか」と。もちろん、宇多丸にしろ、僕にしろ、「それでいいのか」と言っても、「別にいいじゃん。どうせフィクションだし(笑)」みたいな人がたくさんいるのはよく知っている。だが、この問題はもっと本質的なものとしてあって、それが現実にはみ出して、構造として続いていくのではないかと自分は思っている。

 宇多丸の推奨するラストは不可逆的なものであり、だからこそ、のび太は成長するというものだ。ドラえもんが返ってきたら、またドラえもんに甘える日々が始まってしまう。ここで、人々が求めるものと、山崎貴が作り出すものは一致していて、そこではある種の万能感、何か問題が起こっても解決してしまう世界が未だに続く事が想像される。ドラえもんが帰ってきた場面は確かに泣ける所だ。だが、そこで、帰ってきた事によって失われるものはなんだったのかと言うと、のび太の成長だ。そして、のび太が成長すれば、「ドラえもん」という作品世界は終わる。

 もっと根源的に考えてみよう。宇多丸推奨の「さようなら ドラえもん」で終わる「ドラえもん」という作品世界は、ドラえもんの消失と共に消えて終わる。ドラえもんの消失と共に、のび太は成長し、我々のノスタルジーも同時に消える。のび太にはもうドラえもんは残されていない。彼は大人になる。大人になるとは、僕の言葉では相対的な存在になる、その事を自覚的に受け入れる事を意味する。

 ドラえもんのいないのび太は既に大人である。彼は、もう困った時に甘える存在がいない。困った時になんとかしてくれる存在は消えた。だから、一人で、自立して生きていかねばならない。もちろん、仲間はいるだろう。ジャイアンもスネ夫も仲間になるかもしれない。しかし、現実の厳しさはいつも彼岸に立ちはだかっている。

 これはどういう姿なのだろうか。僕は、これは現実に生きる我々の姿そのものだと考えたい。つまり、宇多丸案の「ドラえもん」は作品が終わった後、『現実の僕ら』にその道程は続いている。現実の僕らにドラえもんは存在しない。そんな万能なものなどありえない。だから、人は成長しなければならない。自分が相対的な存在で、なんら特別な絶対な存在ではない。その事を受け入れ、自覚的に世界と関わって生きていかねばならない。

 宇多丸の言う不可逆的な成長とは、我々の欲していたものが断念される事により、むしろ、我々が自覚的に生きなければならない事を示しているのだと思う。ちなみに言えば「STAND BY ME」に出てくる「成し遂げプログラム」というのは、現代の悪しき側面を凝縮したようなもので、「夢(目的)を持ってそれを叶える」という勝手な理性の在り方を全面的に肯定したものになっている。成し遂げプログラムは叶えられ、ドラえもんは未来に帰ってもまた戻ってくる。あらゆるものが万能感に満ちていて、もしかしたら村上春樹が受ける要素と一致するかもしれないが、ここでは巧妙に現実の厳しさに対する疎外が満ち溢れている。

 もう一度、「かえってきた ドラえもん」について考えてみよう。「成長」というのは不可逆的だと宇多丸は考えている。自分が注目したいのは、のび太は最初に、理由もなく、ドラえもんが帰るという現実を示されるという事だ。理由がはっきり示される事もなく、ドラえもんは未来に帰らなければならない。それは残酷な現実であり、のび太にとって万能の喪失である。しかし、だからこそ、のび太はいつもと違い、ジャイアンに突っかかっていったのだった。

 自分は作家のプルーストなどを思い出すが、プルーストは金持ちのどら息子的な存在であった。もちろん、そう単純ではないが、プルーストが「失われた時を求めて」を書き出したのは両親が亡くなってからだ。プルーストにとって、両親という後ろ盾が亡くなった為に、自分で何かを創造しなくてはならなかった、という風に自分は考えている。先に成長が来て、自立し、後ろ盾がなくなるのではない。ある日、突然、後ろ盾が消える。何もなくなってしまう。その理不尽な現実を受け入れ、乗り越えようとするから人は成長する。

 そういう意味では、「さようなら ドラえもん」という最終回に置いては、「ドラえもん」という作品は少年向けの漫画である事を乗り越えている。ドラえもんはいなくなるのである。しかし、作者は後に「帰ってきた ドラえもん」というものを継ぎ足した。

 「STAND BY ME」は大ヒットしたが、ここで人々が望んでいるのは喪失と、それと共にやってくる成長ではない。人が望んでいるのは喪失がなく、万能感が満たされ、更には「泣ける」作品だ。現実がどう厳しいものであろうと、フィクションの中ではそれは弱められ、自分達に吸収できるものに変えられる。現実は乗り越えられるというメッセージ。未来は明るいというメッセージ。ドラえもんが存在し続ける世界。そこに人は耽溺する。それによって、彼らは喪失を失い、そうして常に、井戸の底で幸福感を感じ続ける。映画に涙し、涙はすぐに忘れ去られる。夢を見て人は生きる。それが現実であると互いに規定しあい、そういう人々に波及するものが現実だと信じて。

 宇多丸の論を引き伸ばすと、ドラえもんは「さようなら ドラえもん」で終わるべきであった。それによって少年時代に終止符を打つべきだった。逆に言えば、終止符を打たれて少年時代は始めて少年時代となる。そこから巣立つ事によって、人は過去を「黄金時代」と回想できる。黄金時代は、理想の未来でもなければ絶対的な過去でもない。それは我々が抜け出てきた一つの現実であって、それから抜け出たからこそ、我々はそれを甘い気持ちで眺める事ができる。

 そういう過去を未来に対象化すれば、未来は明るいというメッセージになる。しかし、真に未来を生きる人間は、今現在を生きる人間であろう。少年時のノスタルジーに涙するのは、今を生きる者の特権だ。それにしても、フィクションとは辛い現実を忘れさせてくれるようなものではない。それは現実を踏まえて、それを乗り越えていこうとする意志であるべきだと思っている。だから、フィクションに最も深くのめり込んだものが最も深く現実を見るとは、矛盾でもなんでもない。

 トルストイやドストエフスキーがなぜあれほど偉大な作家になったかと言えば、タイプは違えど、彼らが不毛な現実、不可解な、救いのない悲惨な現実を手放さずそれを乗り越えようとした為であると思う。現在はベストセラーを作れば、それによって「現実の自分」も恵まれた立場に移る事ができる。それ故、「夢を叶える」、「明るい未来」といった事が可能であるように見えるが、集団で夢を見ればそれは真実なのだろうか? 「成長」というものが、ドラえもんとの別れ、万能の喪失を経て成されるものであるとするなら、それは人が現実を引き受けて成長する事を示している。

 「所詮はフィクションの話」と、現実とフィクションを簡単に切り分けられると考えている人間がいかに現実を見ていないかという事を自分は繰り返し観察してきた。彼らは現実を見ない。よって、フィクションにも嘘と夢を見ようとする。フィクションと現実と、二つに分けても彼の両眼は一つの視座である。一つの認識が二つのものを貫いている。それを二つに分割して、自分自身をごまかすのは不可能だろう。人は一つの視点で世界を見る。その時、世界に対して自分自身も見られているが、その世界の視点をも自分の中に繰り込む視点というものもあるだろう。人が現実を抱いて生きるとは、自分が他者の視点で何者でもない、「特別ではない」と知る事でもある。だが、それでも、「特別でない」と知る視点そのものは、その視点にとって、彼にとっては、特別なままだ。その特別さが『語りえないもの』だとしてもやはり、特別だ。

 「STAND BY ME」という作品は、人々の欲求に沿ったよくできた作品だが、作品の外側、描かれなかった未来、描く事が、ああした作品には原理的に不可能な領域に、人間的成長というものはあるのだと自分は考えている。それはそもそも「人々」という母胎から離れた、自立した精神の物語なのかもしれない。いつかは、のび太はドラえもんから別れる。その事がのび太にも、ドラえもんにも分かるからこそ、今この瞬間の人生が意味のあるものになっていく。

 永遠に続く、万能的な子供時代はおとぎ話であるが、おとぎ話から離れて、人は成長する。この成長を「STAND BY ME」は描かず、うまく丸め込んだ。それによって人は泣いて、感動して、それ以上は何も突きつけられない作品となった。人々は自分の幻想が他者にうまく肯定された事を知る。「自分達」が間違いでない事を、自分達の仲間によって知らされる。

 だが、映画館を出ても現実は何も変わっていない。「STAND BY ME」において、ドラえもんのいる世界は続き、「ドラえもん」は子供向けの作品として機能し続ける。そうして、社会的には大人になっても、精神的な自立を拒む我々にとっては、口当たりの良いものとなった。成長とは、ただドラえもんを失うだけではなく、特別な自分、世界に守られた自分を廃棄する事でもある。それによって、人は始めて成長できる。非情な現実が人間を一本立ちさせる。

 苦悩によって教えられる事のない人生を歩んだ人は、来世において、「次の人生」の選択を間違える。そんな古代ギリシャの寓話があるが、これは極めて示唆的に思われる。幸福に守られた人々は、苦悩によって自己を鍛え、学び、考える事がなかった為に、「次」の生の選択を間違えるのである。

 「さようなら ドラえもん」というラストの後には、のび太は成長した存在となっている。しかし、それを描くスペースはない。ドラえもんという万能の魔法の道具は失われた。のび太にとって特別な空間は失われた。それでも、彼はそれを失う事によってようやく一人の人間として自立した。作者はその後に、「帰ってきたドラえもん」を付け足したが、宇多丸の考えるように、やはりこれはいらなかったのだと思う。

 だが、このラストを受け入れられないのは、つまり、喪失から来る成長を受け入れられないのは、一般の観客であり、彼らの願望がまとわりついてドラえもんは未来から戻ってきたのかもしれない。「STAND BY ME」に流された多くの涙、「成し遂げプログラム」の成功、観客の感動、一回きりの感動作の消費、それらは、彼ら自身の生活の内に存在し、彼らの生活の在り方を肯定するものとなる。そうして、理不尽な現実が目の前に現れれば、彼らはそれを消そうと考える。そうして、消えたように見せるマジックが世間の表面を渡っていく。

 だが、成長したのび太の姿、ドラえもんと別れたのび太の姿はその先にあるはずだ。「さようなら ドラえもん」という話の筋は、作品の外側へと続いていっている。のび太はもはや、作品世界の中に立ち止まっていない。彼は成長する。すると、もしかしたら、それを見ていた我々、のび太を半ば馬鹿にしつつ、共感しながら見ていた僕らものび太に置いていかれているのかもしれない。「ドラえもん」という作品を振り返った時、あの作品の主人公はダメ人間の「のび太」でなければ駄目だったという事がはっきりするだろう。出来杉君でも、しずかちゃんでも、ジャイアンでも主人公にふさわしくない。

 のび太の成長にドラマはある。スタート地点から万能であり、万能感を満たしてくれる近年のエンタメコンテンツは「過程」や「葛藤」を欠いているが、それは我々の深層の欲求と合致する。我々は子供のような精神で、誰にも負けない大人の力を手に入れたがっている。そこは永遠に万能が続く遊戯的な場所であり、ドラえもんがいつも何かしてくれるような所だ。それぞれの立場に見合ったそれぞれの理想的な場所がある。しかし、ドラえもんが去る事を知ってのび太は成長する。喪失が成長を呼ぶのだが、喪失は望んでやってくるものではない。人間の意図を越えた自然としてやってくる。人の理性の外側にあるものが現れて始めて、人は次のステップに移る事ができる。人間の望むものではなく、望むものの外側に道はある。

 「STAND BY ME」はそれを排除したが、「さようなら ドラえもん」でドラえもんが消えた後の空間はこの世界のどこかに残り続けている。その見えない空間で、本当の我々は大人として、くだらなくも真剣な人生を歩んでいく事になるだろう。だが、それを世の大人は否定するかもしれない。彼らは、子供である事、自身が未熟であると認めるのを拒否したから、子供の精神としての大人世界を持続させる。本来的には、その世界の外側に「ドラえもん」という作品は続いていくべきだった。

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