「SRサイタマノラッパー」と「恋は雨上がりのように」を比較する (ネタバレあり)

 

 入江悠の「サイタマノラッパー」を見た。なんだかなあ…と思いながら最初見たが、ラストで普通に感動してしまった。

 この作品は非常にオーソドックスな作りになっている。なにもない、かっこつけてラップを始めた太っちょの駒木根隆介が冷たい現実に出会って挫折していく話だ。(めんどくさいので役者名で呼んでいく)

 構成的には、北野武「キッズ・リターン」に似ているかもしれない。クオリティとしては「キッズ・リターン」の方が上だが、青春の挫折を描く方法論は似ているように感じる。

 主人公の駒木根は、一流のラッパーを目指して、仲間を集めてライブしようとするが、埼玉の田舎に、ラップをする場所なんかなく、周囲も冷たい目線だ。中盤、公民館のような所で、クソ真面目な中年男女を前にラップをする場面があるが、その場面はいかにも実際にありそうで、そこで無理矢理ラップをしている様が見ているこちらも「痛い!」と思わせる。

 ラップ仲間達は次第に離れていく。就職する者、イケている先輩にくっついていく者、病死する者。ちょっと気があった女、みひろも地元を離れてどこかに行ってしまう。仲間も女もみな消えてしまう。駒木根は一人ぼっちになってしまう。彼はニートだったが、渋々焼肉店でバイトを始める。
 
 焼肉店でバイトをしていると、かつてのラップ仲間が店に入ってくる。ラップ仲間は既に就職していたので、他の同僚と共に作業着を着ている。駒木根とラップ仲間は顔を見合わせて、互いに気づいて、気まずい雰囲気が一瞬流れる。やがて、何か、思いを決したかのように、駒木根は一人ラップを始める。それはラップ仲間に向けたもので、「自分はまだ夢を失っていない、ラップを辞めていない」というメッセージが込められていた。結局、何もかも奪われた彼に残されていたのは、かっこつけで始めた「ラップ」だけだったわけだ。

 宇多丸がこの映画のレビューをしていたが、宇多丸の指摘は納得できるものだった。作中、駒木根がラップの歌詞を書こうとする部分があるのだが、歌詞を書こうとしても、何も思いつかない。駒木根はかっこつけて、雰囲気だけでラップを始めたので、どうしても言いたい事、表現したい事が思いつかない。この地点では、彼は「フェイク」だったわけだ。

 しかし、作品の最後では、彼はフェイクから「本物」になる。何故だろうか。何もかも奪われても、尚、ラップをするという事で、彼にとって「ラップ」・「ラッパー」というファッションアイテム、単なる夢を叶える、ビッグになる為の道具は、彼の中で「真実」となった。作品の最後で、何が失われても、ラップだけは捨てない、という事によって本当に世界に訴えかける言語を彼は持つ事になった。

 この作品の構成はそういうものになっており、これは駒木根が本物のラッパーになる話だと自分は見た。例えば、それと比べると、「恋は雨上がりのように」のラストに自分は心底がっかりした。

 「恋は雨上がりのように」のラストでは、年上の男に恋をしていた女子高生のあきらは、あっさり恋を諦めて、元の陸上部に戻る。「サイタマノラッパー」と比べた時、どうしてあきらは自分の恋愛を貫かなかったのか、疑問が残る。それには、人は色々な理由を上げるだろうが、そんな理由はどうだっていいのだ。なぜなら、それら全ての理由を破っても、恋愛を貫こうとして傷つき果てる事に精神の力があり、そこに物語というものの本質があるからだ。

 「ロミオとジュリエット」という作品はそんな作品だった。ロミオとジュリエットは、恋を成就する代償に、それぞれの生命を失った。しかし、それでも、自分達の恋を貫くという事に意味があった。そこに価値があった。

 「恋は雨上がりのように」で、どうしてあきらは諦めたのか。確かに、年上の男性への一時的な恋心など、若い頃の過ちであり、ほんの一時の気まぐれだろう。恋心などは所詮幻想だと言った方がいいかもしれない。元々、女子高生と四十越えた男の恋愛など無理だったのかもしれない。

 しかし、だからどうだというのだ? 「サイタマノラッパー」との違いはここにある。「サイタマノラッパー」の駒木根はラップという、ただのファッションアイテム、かっこつけたノリを最初は振り回していた。それは若い頃の過ち、気まぐれにすぎないだろう。しかし、作品の最後、駒木根は何もかも失ってもまだラップをした。それによって、嘘が真実になったわけだ。現実という冷酷な査定を経て、何もかも失っても、焼肉店で一人でラップをした事によって、嘘は彼にとって真実になったのだ。

 「恋は雨上がりのように」のあきらは、恋愛をさっさと諦めた。かつて、陸上を諦めたように恋愛も諦めた。また陸上を始めたが、その内また諦めるかもしれない。彼女はきっと凡庸な、それなりの人間として、この先、うまく幸福にやっていくだろう。しかし、そんなものをフィクションで見せられて、それでどうしろというのだろう? そんな人間を自分は死ぬほど見てきて、自分も(残念ながら)そんな人間だ。しかし、だから、どうだというのだ?

 恋愛とか、芸術とかいうものは、高尚なものではない。そんなものは、嘘っぱちだというのは正しい。しかしながら、神が存在するのは神を信じる人にとってのみだ、という定理と同様に、恋愛とか芸術とかが真実になる瞬間というのがある。通常、恋愛も芸術も現実に服している。現実の大きな力、人々や自然の大きな力の元で、それに認可される限りにおいて存在する。そうして、現実の大きな力がのしかかってくると、人は蜘蛛の子を散らすようにそこから離れていく。

 が、それでも、そこに居残って、居残る者がいて、始めて人はそれが「真実」でありうると知るのだ。ラップを馬鹿にしている者、軽蔑している者が大勢いて、その人々の視線が痛いほど突き刺さり、現実にも何も得られるものがない、その事が証明されても尚、彼がラップを捨てないという事により、ラップというものが単なるファッションではなく真実だという事がはっきりするのだ。

 駒木根は最後にはサイタマノラッパーそのものになったわけだが、それは彼が、何もかもを失った後にそれでもラップをしたためだ。このラストは「キッズ・リターン」のラストに多少似ている。「キッズ・リターン」では、全てを失っても尚笑う、強がる、まだ「始まって」すらいないと言明する事によって、過酷な現実に対して自分達の精神の優位を示した。もう最後の希望がなくなっても、まだ希望を持っている「振り」をするから希望は希望として現れてくるわけだ。根拠がなくなった場所に一人で立つ事ができるからこそ、人は人になれるのだった。

 「恋は雨上がりのように」はふんわりと着地し、現実の過酷さを適当に茶化し、ぼんやりした夢と現実を混ぜ合わせたままに終わった。この大衆社会というのは正にそんなものかもしれない。ロック風味のロック、文学風味の文学、芸術風味の芸術、批評風味の批評。そういうものがこの世界全体を覆っている。そういうものが、真実でありうるのは人々の夢が大きく広がっている為だ。

 彼らは現実の過酷さがやってきたらそこからさっさと逃げる。彼らはいつも正しい事を言う。いわく、「間違いだと気付いたから辞めた」「若気の至りだと知ったから辞めた」 もちろん、そう言う事によって、彼らは常に「自分」になる機会を逃して、あきらのようにふんわりと現実と融和して生きる。そこにはダサくて太っちょの「サイタマノラッパー」はいない。自分はお洒落で綺麗でふんわりとした、世界が作り上げたある種の幻想のドームよりも「サイタマノラッパー」を取る。そこには、どれほどダサくても真実を握っている太っちょラッパーが存在する。

 人々が笑って立ち去り、人々がさっさと大人になる地点、社会と融和する地点を乗り越えて、人は人になる。人間は知恵の実をかじって楽園を追い出される事により、人間になった。掟を守り、世界に融和しつつ、楽園の中にいた方が楽だろう。しかし、そんな姿をフィクションで見せられてどうすればいいのか。「サイタマノラッパー」はある極限を越えた。そこには、ダサいラッパーが、ふんわり綺麗でお洒落で「リア充」を越えていく瞬間というのが確かにある。 

 

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