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やさしい気持ち。

スタバや図書館にいる時に僕にはやさしい時間が流れている。ざわつきのある空間と静寂のある空間とで対象的な空間ではあるのだけれど、どちらもそこにいる時だけは心が穏やかなのだ。心が落ち着かない時は静かな場所に行くのが良い、は普通だけれど時に静寂の音がうるさいことだってある。注意が自分に向きすぎるのはあまり良くないのかも、と最近は思っている。

ライフスタイル誌BRUTUSが好きで毎月そうきたかと唸らされる特集を楽しみにしている。図書館でふと手に取ったバックナンバーは「やさしい気持ち。」特集。なんともまぁ攻めた企画にふふふと手を伸ばす。各界の著名人がそれぞれの''やさしさ''を語る。なるほどそれはやさしい気持ちなのか、とまた自分の中で言葉にならなかった感情にやさしさという名前がつく。

「やさしい気持ち。」とはなんだろう?

「やさしい気持ち。」とはなんだろう?道徳の主発問になりそうな答えのない問いを考えたり、言葉にするのが難しい感情に言葉を当てていったりする時間は自然と幸せとやさしい気持ちに満たされるため、僕がこうしてnoteを書く理由の一つなのだけれど、見切り発車で書き始めた今回ばかりは最後に言いたいことが見えてこない。

「なぜ今やさしい気持ちでいられるのか?」安易に答えを導き出すとすると、「誰にも邪魔されることなく好きなことをしていられるから」と結論付けられる。24時間を自由に使うことは誰にでも与えられた当然の権利であり、それは誰にも邪魔はできないのだ。とすると、''邪魔しない''は''やさしさ''であり、手を貸すことは''やさしさ''を助ける''思いやり''であり、過剰に貸すことは邪魔しちゃう''おせっかい''なのである。「自分を大切にしなさい」は「我慢せずにやりたいことをしなさい」と同義で使われることが多いが、我慢に邪魔されがちな自分の時間に、''今日は周りのことは気にせず思い切って好きなことやっていいよ''という自分への思いやりを加えるとやさしさは成り立つ。

当然やさしさの感じ方は人それぞれ異なる。だから僕が与えたやさしさが誤変換されて相手を傷つけてしまったりすることもあるのだけれど、そんなことは稀でだいたい誰かにやさしくしたり、やさしくされたりしたら嬉しいし、気持ちがいいというフィードバックが返ってくる。僕らはそのやさしさを与えたり、受け取ったりして人と人との繋がりを感じていられるからまたやさしくあれるのだと思う。

「やさしい気持ち。」とは与えた時、また受け取った時に心がふっと軽くなったあの感じのことを言うのだろうか。そんな気持ちにさせてくれる言葉があって、音楽があって、場所がある。悩んでいた時に晴れ間が差し込む言葉はやさしいし、朝起きがけに乾いた喉に流す豆乳はやさしいし、温泉の帰り熱った身体に当たる風はやさしい。そんなこんなでやさしい気持ちでいられると、また誰かにやさしくいられるのだと感じる。気分が良いといいことをしたくなるじゃない。だからみんながやさしくいられる社会になればいいと本気で思うのだ。お互いの好きを邪魔しない社会をね。

まったく終わらせ方の見えてこない記事を書いている間にホワイトモカが氷だけになった。この甘さはホッとする。やさしい。

最近感じたことがある。人に当たると自分が嫌いになるってことだ。それはまったく自分にやさしくない。

僕は職業柄毎日を子ども達と過ごす。子どもは間違える。時間は守らないし、宿題は忘れるし、嘘もつく。1日にたくさんのストレスとなり得る間違いがあるのだけれど、そのストレスを正面から受け取ってしまうことは誰にとっても不快なのである。それを一時的に解消しようとするなら当たってみたり、怒ってみたりするといい。僕も経験があるからわかるけれどその場はスカッとする。

ただ、時間が経つと自分が嫌いになる。怒ってしまった、汚ない言葉を吐き捨ててしまった自分が嫌になるのだ。そんな自分は嫌いになるには十分で、やさしい気持ちからは程遠いところにある。

余裕ない時期だからこそやさしくいる方が結果的に自分を嫌いにならずに済む、そんなことを考えたら今年はずっとやさしい人でいる。まったく怒らないから逆に不気味だとアンケートに書かれた。

やさしい気持ち。はみんなを救う。あの人がいるだけで、周りの人たちも変わっていく。そんな人になりたい。

結局まとまらなかったけれど、いいのさ。まとまらないんだもの。

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