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コロナ渦での「ごちそうさまでした」の重み

ツイッターからはみ出るテキストはnoteに書けって偉い人に言われたので、こっちに書き残しておきます。

現在、コロナが蔓延する中、飲食店の情勢はとても厳しいというのが現実です。

いま、食べているこの大好きなラーメンも、もしかすると閉店になってしまい、もう食べられないかもしれないと思ってしまうことがあります。これを不謹慎と捉えてしまう方がいたら申し訳ないですが、事実、つぶれているお店は増えていく一方です。

だからといって、外食したほうがいいと言いたいわけではありません。感染リスクに対する倫理観は人それぞれだし、私だってあまり外食しません。

だけど、ふと、今食べているこの料理が、「もしかしたら最後かもしれない」と思ったら、「いただきます」「ごちそうさまでした」の意味とその重みが、以前とは比べ物にならないと感じるようになりました。

注文すれば当たり前のようにでてくる料理も、じっくり味わって食べたくなりました。この気持は、例えコロナが収まっても忘れたくないなと感じてしまったのです。

心で記憶するという言葉が私は好きで、その食べているシーンを記憶することを言います。そのためにはそこで感情が動く必要があります。

外食のとき、「もしかすると、ここで食べられるのが最後かもしれないな」と思うだけで、全然違う食事になるんじゃないかなと思います。この記事をみて、一人でも『ごちそうさまでした』に、今までとは違う意味を見出せていただければと思い、記事に残しておきます。

それでは、また。

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