於愛の父・戸塚忠春と菩提寺・天龍寺
1.戸塚忠春に関する2つの謎
於愛の実父・戸塚忠春は、遠江国大森城の城主で、「大森の戦い」で討ち死にしました。実母・於貞は東三河西郷氏の娘でした。於愛は、東三河西郷氏の西郷清員(母の兄)の養女となって、徳川家康と結婚し、「西郷局」と名乗り、徳川2代将軍秀忠を儲けました。
謎は2つ。
①遠江国には大森城はなく、「大森の戦い」という戦もない。
②東遠の戸塚氏が、なぜ東三河西郷氏の娘と結婚できたのか。
戦国時代の土豪や国衆は、近くの土豪や国衆と閨閥関係を結ぶことがよく行われました。東三河西郷氏(愛知県豊橋市石巻中山町)であれば、近くの諏訪部氏や菅沼氏、東遠の戸塚氏(静岡県掛川市上西郷)であれば、東遠の西郷氏と婚姻関係を結ぶのが普通でしょう。なぜ、東三河西郷氏は、娘を異国の身分の低い武士(注)に嫁がせたのでしょうか?
(注)戸塚忠春:大森城の城主ではなく、東遠(静岡県掛川市)の西郷政清(後の石谷政清)率いる「西郷十八士」の1人に過ぎない武将。
2.「於国文書」
徳川家康
西郷正勝─於貞 ├徳川秀忠
├おあい子(於愛)
┌戸塚五郎大夫忠春┬戸塚四郎左衛門忠家─戸塚作右衛門忠之
└女子─於国 └心翁永伝(法泉寺七世)
於愛や実父・戸塚忠春が出てくる1次史料に、戸塚忠春の姪(妹の娘)である於国が書いた「於国文書」4通(現地案内板では、「於国上申書」と「先祖覚」の2通を1通として3通としている。また「大納言宛上申書」の年次比定は誤りである)があります。
①於国文書A「於国上申書」(1663)
②於国文書B「先祖覚」(1663)
③於国文書C「大納言宛上申書」(1664)
④於国文書D「奉行所宛上申書」(1645)
この中で重要なのが「先祖覚」です。
全文を掲載します。
【現代語訳】「先祖についての覚え書き」
一、遠江国佐野郡上西郷村(静岡県掛川市上西郷)の戸塚五郎大夫忠春という者の娘は、相国様の局へ奉公に出された。相国様とは徳川家康公の事である。
ー、この戸塚五郎大夫忠春の娘の名を「おあい子」といい、徳川家康公に召し出され、後に御台所(正室相当の立場)になられた。その時、「おあい子」という名を「西郷」と変えられた。その時には、遠江国浜松(静岡県浜松市中区)の浜松城に召された。
一、その後、徳川家康は、戸塚五郎大夫忠春に西郷屋敷を与えた。堀、構を備えた「構屋敷」(城屋敷)で、現存している。この西郷屋敷は遠江国佐野郡上西郷村にある。
一、西郷局の父・戸塚五郎大夫忠春は、徳川家康から500石3000石与えられた。この戸塚五郎大夫忠春は、西郷屋敷を預かり、守った。その後は(戸塚五郎大夫忠春の死後は)、戸塚五郎大夫忠春の妹が西郷屋敷を受け取って守った。また、その後は(戸塚五郎大夫忠春の妹の死後は)、(戸塚五郎大夫忠春の妹の)娘・於国が受け取って今に至る。
ー、戸塚五郎大夫忠春の世倅(嫡男)は、この500石3000石を受け継いた。戸塚四郎左衛門忠家という。彼の子・戸塚作右衛門忠之は、鷹師町(静岡県掛川市小鷹町)に住んでいる。今はまた若代(家を継いだが、宗主にしては若い人物)である。
寛文3癸卯年(1663年)の
12月16日 於国書
つまり、於愛が徳川家康と結婚した時、戸塚五郎大夫忠春は生きており、徳川家康から西郷屋敷と3000石を与えられているのです。「大森の戦い」で討ち死にしてはいません。
3.菩提寺・天龍寺
戸塚五郎大夫忠春はいつ亡くなったのでしょうか?
戸塚五郎大夫忠春の菩提寺は法泉寺(現・天龍寺)です。
天龍寺開山堂には、「大森の戦い」で戸塚五郎大夫忠春が討たれたと聞いた徳川家康(13歳)が、彼の死を悼み、陣中で彼の法名「西月友船大禅定門」を彫ったという「家康鉈彫位牌」が祀られています。また元に逆戻りか───。
新宿の禅刹・天龍寺は、旧・静岡縣小笠原西郷村にありて、法泉寺という。康正2年宗能の開創に係わる。徳川秀忠の外祖父・戸塚正春の香華院たるを以て、その子、僧・永伝、徳川幕府の命によって、これを牛込に移せしは、天正19年なりという。後、天和3年の回禄に罹りて、今地に移れり。
4.結論
・於愛は身分が低かったので、西郷清員の養女となって、徳川家康と結婚。
・西郷清員は徳川家康との繋がりが欲しくて於愛を養女とした。
徳川家康は一目惚れした於愛と結婚したかったが、身分が低くて釣り合わない。そこで、西郷清員が「於愛は遠江国西郷の出と聞いています。ここは西郷繋がりで、私の養女ということで」と助け舟を入れたのではないでしょうか。
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