在るがままに在る
都市部における、自然に触れられる施設として、動物園、水族館、博物館などの屋内施設が挙げられるだろう。それらは確かに自然に沢山触れられる場である。しかしそれらは、人の手で作られた以上、間取りや解説、展示の仕方など、場の全てに誰かの意思が介在する。
それは即ち、誰かの視界を借りて見る世界に他ならない。
自然そのものでは無いというのは、動物園で動物の繁殖が難儀している点も挙げれらるだろう(勿論その努力と研究には、本質的に重要な価値がある。そして何より、自力では一生かかっても見られないような生き物を簡単に見ることができるのが本当に有難い)。また科学そのものも、反例が一つでも見つかれば、常識が書き替わる不安定なものである。
例えばティラノサウルスに羽毛が生えているとかいないとか、トリケラトプスはディアルガみたいなガニ股だ、いやスマートな脚だ、とか、○○時代は、実は××××年からでした、とか。大概、一般的に、「現時点ではこれが正しいと解釈されています」というものではないか。
本当の意味で自然と触れ合いたのなら、山や海へ行くべきである。自然を自分なりに解釈する上で、何かしらのヒントを得たいという時には勿論、先述の施設は大いに手助けになってくれる。
自然を知りに行きたいという時、「頭で理解する」自然(=誰かの解釈を知りに行く)と、「身体で理解する」自然(=自分の身体感覚で捉える世界)の、どちらを求めているのかを、自問すべきではないかという提言である。
ところで、都市は人工物だらけだ。木ですら、誰かが選定し計画したものが植えられているといった状態である(勿論探せば、ネズミやコウモリ、鳥類、菌類、植物など色々いるけれど)。パッと周りを見回したら、四角い空以外、目に入るものは全て人工物という場所だって少なくない。
人工物には、必ず誰かの意図が含まれる。特に資本経済の中で量産されるものは、「より多くの人に気に入られるよう」デザインされているだろうと思う。そして誰かに選定された物によって形作られ、数年後、数十年後に残っていたり、残っていなかったりする。
誰かの意思が内在した物体で、都市は形成されている。
対して、自然は在るものがただ、在るように在るだけである。
「誰かに対して~」「誰かに気に入られようと~」という意図は存在しない。ドライと言えばドライである。人間の事など、全く意に介していないという風に感じられる。そして突き放すことも無い。自然の場では、人も、ただ在るように在るだけの存在になる。そこが、自然の中で「開放的になるわ~」と、都市部の人が感じる理由なのだろうと思う。