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おみくじとブラックホール

 一月八日――
 今日は宇宙論の本を買おうと、桂月也は決めていた。理由は単純で、理科嫌いの人でも名前くらい聞いたことがあるだろう、スティーブン・ホーキング博士の誕生日だからだ。
(んー、なかなか新しい出会いはねぇな)
 最新の論文は本屋には並ばない。翻訳を待っていたら、それで数年かかってしまう。大学から専門サイトにアクセスした方が情報量は多いけれど、本屋には本屋にしかできないこともあるのだ。
 ふらりと立ち寄った、宇宙とは無縁に生きてきた人が、何気なく「こちら側」にふれることになるかもしれない。そのきっかけを増やすには、本屋の棚を維持しなければならない。たった一人の購入ができることには限界があるとしても。
(ループ理論もまだよく分かってねぇんだよな……)
 どの本もだいたいそうであるように、宇宙らしい黒と青の背表紙を引き抜く。パラパラと目次をチェックして、これでいいかと購入を決めた。
 まっすぐレジに向かわず、料理本コーナーを目指す。眼鏡の同居人、日下陽介がちょうど本を棚に戻した。真剣な面持ちの彼は、次の本を引っ張り出す。
「イタリア系?」
 横からそっと声を掛け、月也はずれたマスクを直した。陽介は少しだけ驚いてみせたあと、持っていた本を閉じる。
「パスタならメニュー増やしやすいかと思って。でも、先輩は和食の方がいいですか?」
「まあ、米の方が好きではあるけど。俺は、陽介が作ったのならなんでも……」
 語尾を口内に閉じ込めて、月也は前髪をつまむ。隠した視界の向こうで、陽介は微かに笑った。パスタの本を棚に戻し、数歩移動する。別の本を引き抜いた。
「じゃあ、こっちの丼メニューにします。値段も手頃なんで」
「……一緒に買ってくる」
 陽介の手から引っ手繰るようにレシピ本を取り、月也は大股でレジに向かう。「素直じゃないなぁ」と笑う声が背中に聞こえた。その声は、外で待っていると自動ドアに向かっていく。なんとなく目で追った月也は、門松のパネルに新年だということを思い出した。
 もう、松の内も終わっているけれど。
(初詣行かなくなったな)
 地元にいた頃は、神社が身近だった。それでも、陽介に連れ出されなければお参りになど行かなかったけれど。こちらに来てからは、陽介も行かなくなってしまった。
 土地神様、という発想があるのかもしれない。
 どんなに離れた場所にいたとしても、彼にとっての氏神は一柱だけなのだろう。
 それはとても「日下」らしかった。つまらなく思えて、会計を終えた月也はスマホを取り出す。お参りに興味はないけれど、それでも、行ってみてもいいと思える神社を検索した。
「いきなりですが。ちょっとここまで初詣に行きませんか?」
「……相模原?」
 スマホの中に表示された地図と、月也の顔を交互に見て、陽介は不思議そうに眉を寄せる。月也は大きく頷き、彼が納得するだろう一言を加えた。
「小惑星探査機の成功祈願をした場所だって」
 へぇ、と陽介は瞬いた。
「科学の粋を集めても、最後は神頼みなんですね」
「そりゃあ、この世界の神はサイコロを振るのが好きだからな」
 何か、確率的問題が発生した時、成功と失敗のどちらに転がるか。はるか宇宙まで一緒に探査に行けない人間に変わって、神様に観測してもらうしかない。
「……なんて。そういう余白に面白さを感じてもいいんじゃないかって。余白はのりしろでもあるから、宇宙開発してる科学者でも神に祈るんだって共感が、それまで興味のなかった人とのつながりになるかもしれないだろ」
「本当、先輩は科学の伝道師ですねー」
 くすくすと笑い、陽介は月也の手から二冊の本が入った袋を取った。先に、駅へと向かって歩き始める。
「確かに、僕にとっての神社は三野辺さんだけですけど」
 見透かしたように真っ青な空を仰いだ。
「神社はあくまで接点で、祈る気持ちに場所は関係ないことも分かってます。僕が初詣に行かないのは、単純に混んでいるからです。先輩、人混み苦手でしょう?」
「そうだけど。なんで……」
 何故、初詣に誘った理由を見抜かれてしまったのか。前を歩く陽介はくるりと回れ右をして、後ろ向きに歩いた。
「店内を流れる正月ソング。門松のパネル。漂う正月ムードに影響されて、初詣のことを思い出したんだろうなって。でも、先輩は自分から参拝なんてする質じゃないから、きっと僕のせいなんだろうなって」
「これだから、名探偵はなぁ」
「違いますよ。共犯者でしょ」
 ふざけて歩いていた陽介の踵が、歩道のひび割れに引っ掛かる。バランスを崩すその腕をつかんで支えた。
 馬鹿だろ。馬鹿でした。
 視線で交わして、並んで歩く。新型感染症が当たり前となった二〇二三年、電車内はもう、マスク以外はなんら以前と変わらない雰囲気だった。

「ステンドグラスのない拝殿って、なんか新鮮でした」
「そもそも稲荷って時点で違うんじゃね」
 お参りを済ませた足は、なんとなくおみくじに向かった。参拝習慣がなくとも、テレビなどで覚えた「流れ」に沿ってしまうものだ。
「本代払ってませんから」
 百円と書かれた木箱に、陽介が百円玉を二枚入れる。初詣直後で回収されたばかりなのだろう、からん、と空っぽの音がした。それがまた、平日に戻り、人の気配がなくなった神社の寂しさを強調した。
「先輩からどうぞ」
 促され、月也は透明な箱の中に手を入れる。何を思って引けばいいのか分からず、最初につかんだものを選んだ。
 陽介を待って、同時に広げた。
「吉だ」
「僕も」
 いいとも悪いとも分からない運勢だ。そもそも、と月也は首を捻った。
「完全犯罪って、願い事の部分読めばいいのか?」
「またそういう罰当たりなことを……」
「努力は報われるってさ」
「それなら僕も、道が開かれるそうですよ」
 つまり、犯罪者が勝つか名探偵が勝つか、神でも判断できないというわけだ。となると……月也は苦笑して、既にたくさんのおみくじが結ばれたロープに結び付けた。
(陽介が勝っちゃうんだろうなぁ)
 今日まで自分が生きているということが、最大の根拠だ。そこから計算すれば、本当は一つだけ、自分が勝つ方法があることは分かっている。
 日下陽介の殺害――
 名探偵でありストッパーである彼が亡き者となれば、月也にはもう、何も未練はない。解いてもらう必要すらなくなる。
 そうして観測してもらえなくなったなら、どこまでも壊れていけるだろう。
 自重で潰れていくブラックホールのように……。
「先輩」
 暗い思考に囚われかけていた月也は、はっと左を向いた。おみくじを片手に、陽介が一番上のロープを指差している。
「あそこ、結べますか?」
「届くと思うけど、なんで?」
 わざわざ高い場所を選ぶ必要はない。三本渡されたロープには余裕がある。陽介の手で届く範囲でも充分に結ぶことはできた。
「先輩よりも高い位置にしてやりたくて。なんか、その方が、僕の願い事の方が有利って感じするじゃないですか」
「いや、だったら自分で結べよ」
「そうしたいんですけど。微妙に届かないんですよ」
 お願いします、と眼鏡の奥の瞳がきらめく。月也はどうにも腑に落ちないものを感じながら、陽介のおみくじを受け取った。結びながらしみじみと思う。
(やっぱり、かなわねぇな)
 陽介には、敵わない。自分の願い事は、叶わない。
「太陽質量よりもでかくなきゃブラックホールにもなれねぇもんなぁ」
 月の質量などその程度だ。ため息とともに月也は結び終える。腕を下ろすと、「ありがとうございます?」と陽介が首をかしげた。
「別に。おみくじの箱にホーキング放射思い出してただけ」
「……え?」
「だって、情報が蒸発していってるだろ」
 内面を誤魔化すためのこじつけを語り始めながら、月也は鳥居に足を向ける。となりに並んだ陽介は、ますます不可思議そうに瞬いた。
「ホーキング放射ってのは、ブラックホールの熱力学的性質の話なんだけど。事象の地平面――ブラックホールに落ちるか落ちないかの境目で、対生成が起きた時」
 鳥居の下で止まり、回れ右をする。一礼するために生じた間を逃さず、陽介は声を張り上げた。
「先輩。カフェ探しましょう!」
 小難しい理科の話となると、彼は甘いものを必要とする。月也は笑って、近場の地図を検索した。
 神社はこんなにも緑を感じ、静かだというのに、チェーンのコーヒーショップがあっさりと見つかる。神様との接点には田舎も都会もなくとも、ここはやっぱり首都圏だった。

「対生成ってのは、真空では物質と反物質が同時に生成されてるってことで。ふつうならすぐに結びついて真空に戻る、対消滅するんだけど。それが事象の地平面で起こるとちょっと事情が違ってくるんだ」
 ショップのロゴが入ったマグカップを傾け、月也はホットココアをすする。お参りに冷えた身体にちょうどいい熱量だった。
「物質だけが逃れて、反物質がブラックホールに落ちたとなると、どうなるでしょう?」
「え。どうもならないんじゃないですか?」
 陽介は蜂蜜入りのカフェラテに眼鏡を曇らせる。ブラックホールはなんでも吸い込んじゃうんでしょう、と。だから、何が入り込んでも変わらないと考えるらしい。
「確かにそのイメージは悪くない。問題は、対生成しているような素粒子は区別がつかないってことで。同時に生成された、本来なら対になっている物質・反物質同士でなくても対消滅を引き起こす。つまり、ブラックホール内の物質と境界面から落ちた反物質が結びつけば、ブラックホールの中で対消滅が起きるんだ。結果、ブラックホールから物質が飛び出して、ブラックホールの内部エネルギーが減少したように見える」
 これが「ホーキング放射」だ。
 ホーキング放射が続けば、いずれブラックホールは蒸発したように消えてしまう。
「……それと、おみくじの箱にどんな関係が?」
 陽介はカフェラテのクリームに唇の上を白くした。眼鏡の奥の瞳は泳ぎがちで、ホーキング放射を理解したかどうかも怪しかった。
「いや、まあ、そこまで相関があるってわけじゃねぇけど」
 本当はこじつけに過ぎないことを黙って、月也もココアを口にする。たぶん、同じようにクリームが唇についた。
「百円硬貨って区別のつかないものが増えるにつれて、箱の中の情報が失われていってるだろ。百円を反物質、おみくじを物質と考えれば、見かけ上起こってることは似てるかなぁって」
「あー、反物質と交換して物質を取り出して、いずれ空っぽになるってことですか」
「うん。まあ、そんなとこ」
「それで、ブラックホールですか」
 陽介は呆れたように笑った。「先輩はいつでも物理ですね」と。そればかりは否定できないから、月也も一緒になって笑う。
 そうしていると、心の中のブラックホールが蒸発する気がした。
(本当、かなわねぇなぁ)
 マグカップを傾ける。甘いのは、ココアか自分か。
 どちらでもいいのかもしれない。