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未来に語るオブザベーション

『死にたがりの完全犯罪と部屋に降る七時前の雨』(TOブックス)より
3・11を忘れない企画SS 本編時間につき2021年の話

 空は本当に、一足早く季節を変えている。
 あまりに綺麗な青だったから、ボクは君を連れ出さずにはいられなかったんだ。
 (つづく)
 2011.03.11 07:12 fri

 ブログに綴られた物語は、確かに途中で終わっていた。
 ずっと不登校で、部屋にこもりきりの少女。彼女の過去を知り、想いを寄せていた少年が、とうとう手を伸ばす――クライマックスの直前だった。
(三月十一日か……)
 本文の終わりに小さく表示された年月日に眉を寄せ、日下くさか陽介ようすけはブログを閉じる。代わりに、この物語へと導くきっかけとなった「依頼」を表示した。
 新型感染症により大学が閉鎖され、バイトのシフトもなくなった時、暇潰しに始めたスキル販売「理系探偵」。
 科学的思考、ロジックにより問題解決を目指す探偵の元に届いた、今日だからこその依頼を。

【ニックネーム 愛読者さん】
 はじめまして、理系探偵さん。
 三月十一日が近付くと、どうしても思い出してしまうブログがあります。ブログといっても、それは小説の投稿に使われていました。
 その最終更新日が、二〇一一年三月十一日、午前七時十二分なのです。
 それきり十年。
 一度も更新されることなく、ブログだけが残り続けています。
 最近は投稿サイトも増えたので、どこかで活動していないかと探し回ってみているのですが、どこにもそれらしい作品は見当たりません。
 あれから十年。
 このことを、どう捉えるのがいいと思いますか?

(どう捉えるか、かぁ……)
 陽介はそっと息を吐き出し、「ボク」が見たのだろう青を求めて空を仰いだ。ベランダから見上げる空は、屋根のせいで直線に切れている。
 きっと、少年が見た青は、こんなものではなかっただろう。
 視線と共に、陽介はスマホをアイアンテーブルの上に置いた。ちらりと小指が触れたテーブルは暖かく、日差しが春になったことを感じさせた。
 けれど、それはここが首都圏だからだ。
 東北の三月上旬は、とても春とは呼べなかった。十年前の「あの日」など、まだ雪が舞っていたくらいだ。
「まだ、小学生でしたね、僕らは」
 呟いて、陽介はべっこう色の眼鏡を押し上げる。自然とため息がこぼれ、テーブルの向こうから流れてきたタバコの煙を揺らめかせた。
 煙を漂わせた犯人、かつら月也つきやは、ゆっくりと瞬く。何か言おうとしたのか唇を動かし、何も言わずに加熱式タバコを口に運んだ。
 陽介も、何か言いたいような気がして口を開ける。けれど何も言えないままに、黒いマグカップへと手を伸ばした。
 今日だけは、いつものようにお茶やコーヒーではない。
 三月十一日だから。
 今日だけは特別に、東北地方を悼む気持ちを忘れないように、地元の特産品のリンゴジュースにしてある。わざわざ実家から取り寄せなくても、アンテナショップに行けば手に入るのだから、便利になったものだ。
「やっぱ濃いよな」
 月也もタバコをやめ、リンゴジュースを口にする。濃縮還元ではない、皮ごと搾られたご当地のリンゴジュースは、甘いだけではなく酸味と、ほんのわずかに渋みのようなものもあった。
「濃いですね」
「これだけはどうしてもなぁ、向こうの味に慣れてっから。他の飲めねぇんだよな」
「薄いというか、さらさらしてるというか、別物みたいですからね」
「ああ」
 頷いて苦笑した月也は、テーブルの上のスマホをいじった。暗くなっていた画面に時計が表示される。
 14:46
 時間だ。
 今日――二〇二一年三月十一日から十年前。午後二時四十六分。東日本大震災は起こった。小学校という何気ない日常を、突然に終わらせるように。
「………」
 黙祷、というほど確かには目を閉じることなく、陽介は軽く瞼を伏せる。そうして思い出すのは十歳だった自分だ。
 何もできなかった。
 先生の言葉だけが頼りで、雪がもたらす寒さのせいではない震えを感じていた。それでも「死」の恐怖がまとわりついていなかったのは、あの町が海から離れた盆地で、地盤の固さがあったからだろう。
 十年の人生の中では知らない揺れではあったけれど、ひどく驚いただけとも言えた。
 テレビの向こう、波に呑まれ町が消える様を見るまでは。
 原子力発電所が、脅威に変わるところを見るまでは――
(さすがに先輩も3・11は大人しいな)
 過去。親との確執がもたらした死にたがりも、完全犯罪を望む思考も、今日ばかりはなりを潜めている。あまりにも一瞬で、あまりにもたくさんの命が消えた日だから、かもしれない。
 死を想う。それだけでもう、いっぱいなのだろう。
(今年はパンデミックまで起きてるし……)
 あまりにも「死」があふれている。
 あまりにも、日常が奪われている。
 陽介は胸の底に沈むものを吐き出すようにため息をついた。目を伏せているうちに、気持ちまで重くなってしまった。パチパチと瞬きを繰り返しながら、瞳に春の日差しを取り込む。
 それでも、すっきりと晴れることはなかった。
「先輩」
 すがるように呼び掛け、陽介はスマホを手にする。親指だけで操作して、「依頼」を再度表示した。
 ――あれから十年。
 ――このことを、どう捉えるのがいいと思いますか?
「どう答えたらいいと思いますか?」
 依頼者の最後の言葉につられるように、陽介は首をかしげる。月也は睫毛を伏せてマグカップを置くと、加熱式タバコをつかんだ。中の吸い殻を取り出して、新しいタバコをセットする。
「答えはたぶん、一つだろ」
「分かりますけど。依頼人だってそれは分かっているんでしょう。だからこそ、別の答えを求めて依頼してきたんでしょう?」
「別の答え、なぁ」
 ひゅうっと月也は煙を空に飛ばした。微かに吹く風に乱されて、タバコの煙はあっという間に見えなくなった。
「そもそも、世界は存在しているのだろうか?」
「……は?」
「量子論の父とも言えるニールス・ボーアは、観測されるまで状態の定まらない量子について、観測前の状態を考えることはナンセンスだと考えていたっぽいんだよ。まあ、あの人の言葉は曖昧でつかみどころがなくて、彼を慕う物理学者たちがあれこれ考察したりしてるくらいなんだけど」
 アインシュタインなんかは真っ向から噛みついているし、とまるで見てきたかのように月也は笑う。
「そんな量子論の一つの解釈として考えるなら、作者の生死は分からない。考えること自体がナンセンスなんだ。それが依頼人にとって残酷なことだとしても、観測されない世界は存在していないのと同じなんだ」
「そう、ですか……」
 陽介は納得できない気持ちに唇を噛む。「分からない」のは確かだ。けれど、その中には希望だって含まれていた。時間と共に薄れていく希望だとしても。
 けれど。考えることすら否定され、「存在しない」とされてしまっては。
 なけなしの希望さえも消え去ってしまう。依頼人は、そんな「答え」を望んで、理系探偵を頼ってきたわけではないだろう。
 陽介は、やるせなさをため息に変えた。
 ケラケラと、月也は笑った。
「不満そうだな」
「まあ」
「仕方ねぇな。お前のためにもう少し、慰めになるロジックにしてやると。幸いなのはブログが残っていることなんだろうな。そこに、作者の世界があり、依頼人はそれを観測することができる。その意味を考えてみればいい」
「作者の世界と、依頼人の観測……」
 陽介はゆっくりと瞬くと、青い空を背景に漂うタバコの煙を見つめた。細かった煙はゆらめくごとに薄くなり、空に溶け込むように消えてしまう。
 見届けて、陽介は思う。
 自分が見ていなかった時、果たして煙は漂っていたのだろうか?
(そういうことか……)
 だから、語り継ぎ、思い出す日が必要なのだ。
 記憶だけになってしまったとしても、記録だけになってしまったとしても、それを「見る」人がいなければ、存在しないことと同じになってしまうから。
「依頼人が読み続ける限り、その作者は生き続けるんですね」
「ああ、きっと」
 暗い目で微笑んで、月也は白いマグカップに手を伸ばす。陽介も、ほとんど同時に口へと運んだ。どうしようもなく懐かしい、リンゴジュースを。
「濃いですねぇ」
「ああ、濃いな」
 この味は今、三月十一日を忘れないためにある。

【スキル提供者 理系探偵】
 愛読者さま
 ご依頼ありがとうございました。理系探偵として、私が出せる答えは、あなたの望むものではないかもしれません。けれど、私が言えることはこれで全てです。
 あなたが観測を続けている限り、作者が綴った物語世界は存在し続けることでしょう。

(終)

【参考文献】
『量子力学の奥深くに隠されているもの
 コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』
著者 ショーン・キャロル
訳者 塩原通緒
青土社 2020.10.10