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小山田圭吾五輪開会式楽曲制作辞任に際しての私見。それでも音楽は素晴らしいと言いたい

 大きなニュースでした。。僕は小山田圭吾/Corneliusと仕事をしたことはありませんし、東京五輪ともビジネス的な関わりはありませんので、特に何か発言する立場にはありません。ただ、音楽やアーティスト関わる仕事を長年してきた者の一人として、日本の音楽業界の末席にいる立場から、また、音楽に関わり続ける人生を生きている者として、無事に開会式が終わったところで、一連の騒動を通じて書き留めておきたいことがあります。

「作品」は誰のものか?

 本件では東京五輪に関わるという意味で不適格という議論でした。ネットを中心に世論が動いて、プレッシャーを掛け、辞任に至ったという経緯については、特に言いたいことはありません。憤る皆さんの気持も当然だし、「辞任」というのが、日本らしいバランス感覚なのかもしれません。辞任だけでは足らないという方もいらっしゃることでしょう。
 ただ、確認したいと思うのは、「作品自体には罪はない」ということです。音楽家に限らず、優れた作品を生み出す人たちの心の中には、しばしば狂気が存在します。社会的な常識に欠けている人も少なくありません。マネジャーやディレクターなどの、アーティストに関わりクリエイティブな作品作りの現場に携わる職業は、その「狂気」を踏まえてアーティストを導き、作品という着地点を探していくデリケートな仕事です。わかりやすく、そして乱暴に例えると「殺人鬼の小説は葬りますか?」ということです。「殺人を犯した人がその体験で書いた小説で印税を受け取るのはけしからん、せめて遺族に印税は渡せ」という意見を持つ方はいらっしゃるでしょう。それに対しては、敢えて著作権法的な整理をさせてもらうと「著作人格権」と「著作財産権」に分けた説明になります。創作した人に道徳的な問題があった時に、それを「著作財産権」的な視点で(印税を返上したり寄付したりなど含めて)社会が裁くことはあり得ると思います。ただ、僕は道徳・倫理的な価値観で、「著作人格権」的な部分を裁くことはするべきではないという立場です。僕が普段使う言い方をさせてもらえば「作品は発表された後は、音楽家の手を離れて公共財になる、喩えるなら音楽の神様のもの」というのが、音楽の仕事に関わる時の僕の基本的な認識です。他人の人生を蹂躙して癒し難い傷を残したかもしれない本件に関連して、こんなロマンティックな表現は許せない方もいらっしゃるでしょう。でも、優れた作品は人類の公共財であるということは、敢えて、申し上げておきたいです。

ロッキン・オン・ジャパン社の責任は重大

 僕は今回の一連の事件で「一義的に」責任があるのは、「ロッキン・オン・ジャパン」という雑誌と株式会社ロッキング・オン・ホールディングスだという認識を持っています。問題になったのがインタビューだからです。小説や歌詞ならば、アーティストの表現活動ですから、出版社やレコード会社の責任は二義的で、アーティスト自身の責任です。ところが、今回問題になっているのは、インタビューです。ロッキン・オン・ジャパンという雑誌が一時期最大の売りにしていた、「責任編集」を謳ったロングインタビューの内容が断罪の対象です。しゃべったのは事実でしょうから小山田圭吾さんが批判されるのは当然ですが、ロッキン・オン・ジャパンという雑誌がやらせなければ存在しなかったテキストの内容が問題視されて、批判を浴びたという社会現象に対する一番の責任はロッキン・オン・ジャパンという会社にあります。件のインタビューがどのように行われたのか知るよしもありませんが、この雑誌は、インタビューの校正をやらせないのが基本姿勢です。他の音楽雑誌はインタビューした場合、必ず本人やマネージャーがチェックして直します。ところがロッキンオンはチェックをさせず、校正を認めないのが基本姿勢なのです。それが責任編集と言う言葉にも繋がっています。ロッキンジャパン社にあるのは「掲載責任」ではなく、テキストの文責そのものなので、通常の雑誌の掲載とはレベルの違う責任がロッキンオンにあると僕が感じる理由です。雑誌の編集方針として「一万字インタビュー」などとの打ち出しで、アーティストのアブノーマルな発言を抽出し、雑誌の差別化や拡売をしてきたという側面があるのは否定できません。そして繰り返しますが、今回のテキストの文責は、インタビューされたアーティストでは無く、出版社側にあるのです。当時の編集方針と行ったことに対する総括を明確に示す必要があるでしょう。

 前述のように、時に狂気を孕む才能と向き合うことは、覚悟と矜持をもって取り組むべきデリケートな仕事です。才能ある音楽家は時に暴れ馬のようです。リスペクトを持ちつつ、刺し違えるくらいの覚悟を持って向き合わなければ御せるものではありません。もちろん編集者もマネージャーやディレクターなどと同様に大きな社会的な責任を負います。編集長の通り一遍の謝罪文掲出で済ませる話ではありません。
 自らの「責任編集」で行ったインタビューのテキストが理由でアーティストの今後の音楽活動に影響を与えかねないレベルでブランディングが著しく毀損されたという事実は重大に受け止めていただきたいです。雑誌は一旦、廃刊にして、しっかり検証を行い、改めて編集方針と経営方針を明示して再開くらいのことは、最低限必要だと僕は考えます。収益から障害者向けへの基金を作るような方法もあるかもしれません。第三者による検証機関の設置はマストでしょう。J-ROCKを代表するロックフェスティバルを主催し、日本のロック文化を背負う立場となっている会社に相応しい責任ある行動が必要です。この対応で済ませて、今後も、レコード会社は広告を出稿し、アーティストがフェスに喜んで出演し続けると考えてるとしたら、音楽界を舐めています。
 ロッキンフェスを中止に追い込んだ茨城県医師会を僕は激しく批判しましたが、この件を受けて「そんな会社に大規模フェスを主催する資格はあるのですか?」と問われたら抗弁できません。「社会的倫理を持たない会社の感染症対策を信用できるのか?」社会はそんな風に見るでしょう。

音楽の価値を伝えるために

 コロナ禍の中で、音楽は日本社会から「不要不急」として扱われ、コンサートに対しては、科学的根拠の薄い、不合理な「中止要請」を強いられてきました。音楽を愛し、音楽に携わる者は、音楽と音楽家の価値を人々に伝えていく必要と責任があると痛感させられている中での、今回の騒動です。
 「人格的に問題のある音楽家も、たまにいるよねー」と済ますべきではなく、自分達の問題として受け止めるべきだと考えています。アーティストマネージメントを出自とする僕が、音楽家に対して人間性を語る時のポイントは一点です。自分自身も高潔でもなんでも無く、偉そうに説教できる立場では無いと前置きした上で、「神様から与えられた音楽の才能を活かすには適した器が必要です。類まれな才能を持った人には、その器を磨く責任があるのでは?だから、、、」という趣旨のことを伝えます。音楽家や作品と向き合う職業に関わる者には、いつ枯れるかわかない才能という得体のしれない泉が、素晴らしい作品を数多く出せるようにする責任があります。世の中には善と悪が存在しますが、ほとんどのものはその間のグラデーションです。善い人悪い人みたいな二元論は表現から最も遠い浅薄な見方です。特に作品創作や表現というのは、しばしば人間の善と悪の奥の襞に触れるような作業です。
 音楽に関わる者は、ナイーブに才能に接すると同時に、社会に対して(時には行政に対して)音楽の価値を伝えることを真摯に続けなければなりません。自分を省みて無力さを感じています。
 類稀な才能を活かすために、音楽家に器としての人格が必要なように、素晴らしい音楽が、生活を豊かにするために不可欠な存在であると社会に認めさせるためには、音楽界に「自浄機能」が必要です。今回の五輪開会式の件を音楽家個人の問題で片付けてしまえば、音楽は「不要不急」の扱いのままでしょう。

 部外者が言及するにはあまりにデリケートで、憂鬱な話題ですが、音楽を仕事にしてきた者の一人として、表明しておきたいポイントについて書きました。不愉快に感じる方がいらっしゃったら申し訳ありません。

●7月29日付追記:恐れていた残念なことが起きました。
METAFIVE(高橋幸宏×小山田圭吾×砂原良徳×TOWA TEI ×ゴンドウトモヒコ×LEO今井)のアルバムの発売中止と、InterFM897のレギュラーラジオ番組中止の発表です。理由が述べられていないところに問題を感じます。発言が難しいのはよくわかりますが、だからといって「黙って止める」のは最悪の選択です。すぐには難しくても、改めて説明する機会があることを期待します。もちろんアルバムの発売も。そして、引き続き、株式会社ロッキング・オン・ホールディングスにも社会的責任を踏まえた行動を希望します。


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モチベーションあがります(^_-)