わたしたちの湯
〈栞日〉が運営する、向かいの銭湯〈菊の湯〉は、本日 10.15[金]、おかげさまで、リニューアルオープンから丸1年。ひとつめの節目を迎えることができました。この1年間、もちろんさまざまなアクシデントはありましたが、大きな事故もなく、無事この日を迎えることができたことに、ただただ感謝しています。日頃からご愛顧いただき、足繁く通ってくださる地域のみなさん、本当に、ありがとうございます。
毎朝の清掃に、湯沸かし、夜遅くに及ぶ番台業務に、日々取り組んでくれている、スタッフのみんながいたからこそ、この1年間がありました。みんな、心から、ありがとう。
そして、この1年間、常に寄り添い、伴走してくださり、困ったことがあると、すぐに駆けつけ、一緒に考え、解決に導いてくださった、先代、宮坂夫妻にも、この場を借りて、お礼申し上げます。いつも、ありがとうございます。
1年前のきょう、「先代の頃からの常連のみなさんは、リニューアル前と同じようにこの銭湯に通ってくださるだろうか」と、僕はやや不安な面持ちでオープン目前の〈菊の湯〉の玄関に立っていました。オープン時刻になって、あちらから、こちらから、次から次に、これまで向かいの〈栞日〉から眺めていて見知った顔のみなさんが現れてくださったとき、どれほど嬉しかったことか。そして、1年経ったいまも、そのみなさんが変わらず〈菊の湯〉を慕ってくださっていることに、大きな喜びを感じています。
リニューアルオープン当日のあの日、扉を開けた僕に、ひとりのおばあちゃんが「よろしくー」と云って中に入っていきました。そのとき僕は、その言葉に対して、「これからよろしくお願いします」と云いたのは、僕の方なのにな、と戸惑いました。しばらくして、この「よろしく」は、常連のみなさんが用いる、「こんにちは」とほぼ同義の挨拶なのだ、と気づきました。「こんにちはー。きょうもよろしくねー」。そして、何を「よろしく」されているのかといえば、「わたしがお風呂に入っている間、お湯のこと、お願いね」なのでしょう。人が、対価を支払い、サービスを受け取る側にも関わらず、相手に「よろしくお願いします」と伝えるのは、そのサービスが施されることを相手の手に委ねるときです(診療や施術を受けるとき、修理や施工を頼むとき、など)。銭湯では「わたしのお風呂を、よろしくね」なのだと、まずは納得しました。「わたしのお風呂」と思ってくださっているみなさんが、地域にたくさんいらして嬉しいな、と。
そして、さらに月日を経て、常連のみなさん同士の会話、やり取りに触れるなかで、どうやらあの「よろしく」は「わたしの風呂を」であると同時に「わたしたちの風呂を」でもあるようだ、と感じる機会が増えました。この地域に暮らす同じ「わたしたち」であることを、地域を大きな家に例えるならば、ひとつ屋根のしたで、寝食を共にする「わたしたち」であることを、確かめ合うような場として、銭湯が機能している場面に、繰り返し出会う毎日です。
リニューアル前から予感していたことですが、やはり僕は、この側面であり性質に、この時代の、そして、これからの、銭湯という場の可能性を感じずにはいられません。それぞれがひとりの「わたし」になる(立ち返る/向き合う)ことに対して、互いが互いに寛容になれる場であり、と同時に、この地域に暮らす同じ「わたしたち」であることを確認し合える場でもある。そんな空間であり時間は、現代の街場を見渡してもなかなか他には見当たらない一方で、個が尊重されているようでいて、ともすると個が置き去りにされ、もの哀しさとひと恋しさが同時に漂う現代の街場にこそ必要とされる、稀有な存在なのではないでしょうか。やはり、服を脱ぎ捨てるとき、社会での立場や地位や肩書き、その他もろもろも脱ぎ捨てて、湯のもとでは誰もが裸一貫で、平等に、ひとつの空間を共有できることが、大きいように思えます。この空間を、多世代で共有する、銭湯本来の姿に立ち戻らせることができたら。想像しただけで、胸が躍ります。
湯屋を営む者としては、ようやく1年生を終えたばかりの青二才ではありますが、思い描くイメージの実現に向けて、たゆまぬアップデートと、そのためのたゆまぬ努力を、続けていく所存です。2年目の〈菊の湯〉も、どうぞ、よろしくお願いします。