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イルカ館

ここは地方の片田舎には珍しい、ジムとエクササイズスタジオ、プールと温泉が一挙に叶うありがたい施設だ。最近ハマっている水泳を終えてヘトヘトで温泉に向かい、身体を洗って温泉に浸かる。「ふぅ〜……」と冷えた身体を温めるべく内湯に入っていると、何やらタオルをぶらぶらと揺らして、ミストサウナから出て来たばかりのある女が膝の高さの段差に右足を掛け、ポンの状態で腰に左手を当てる。すかさず右手を伸ばして、ピンク色のスターバックスの水筒からガボガボ〜っと水分補給をしている。ちなみにポンとは、すっぽんポンの略語である。今日もいつものようにガサツの典型”戸越銀座”が来ていた。戸越銀座とは何物かというと、この女に私が勝手につけたニックネームである。何ゆえ戸越銀座なのかというと、それはひと月ほど前のことだった。このありがたき施設は日替わりで男湯と女湯が入れ替わる。その日もいつものようにプールで30分間泳いだ後に温泉に入っていた。約10分ほど湯船を楽しむと、日課のサウナ室に向かった。ドライサウナのドアを開けると、見慣れた顔ぶれのおばあちゃん軍団が居た。ちょうど1年ほど前に始めた水泳とサウナ活動のおかげで、この地域で幅を効かせるサウナの重鎮達にも認められ、今日も優しく迎え入れられたのだった。サウナの中では、流れているテレビをおばあちゃん達と一緒に眺める。ローカル番組を見て同じ場面で笑いが出たり、ローカルタレントが描いたちょっとよく分からないアート作品が映し出されすぐにCMに入ると、「今のお花畑に見えたっけ?」と静かに微笑みが溢れでる。老若女が互いにほのぼのとした良い時間だ。そこに勢いよくドアを開けた女が居た。小さなサウナの熱気は瞬時に程よい加減まで冷めてしまった。傍迷惑なこの女の歳は私よりも少し若いだろう。まだ30代中頃の女は身体に赤みを帯びている。そして、持参したサウナマットで席を確保していて、ドスッとそこに座った。暖かなムードのサウナ室は、一度静まり返った。心地の良い沈黙も束の間で、一人のおばあちゃんが口火をきった。確かみかんか何かの話だったように思う。二人のおばちゃんの心地良い話し声に、キンキンとした金切り声で参加した女は「早生みかんとか色々あるけどそのワセの意味が分からん」と話す。そうかそうかとおばあちゃん達は優しく諭すように言う。「早摘みのことよ」と、言った側から女が続けた。「方言じゃ分からん!だって私は東京都銀座やも〜ん」そう話すイントネーションは、誰にでも真似できるものではないので、この人はこの地方で生まれ育ったことが容易に分かる。そして、頭と腰に巻いたタオル姿の出立ちを見ても、見事に内側に巻いた肩を見ても、中央区にある銀座で見かける人達とは随分違うなと思った。そのこともあり、この人のいう東京都銀座とは十条銀座か戸越銀座の辺りだろうと悟った。彼女の圧がとても凄く印象に残っているので、見かける度に(あっ、戸越銀座がまた来てる)と、そう思うようになった。
それからひと月と経たないうちに、家の近所にボクシングジムが出来た。私たちは登山の出来ない雨の日の週末になると、イルカ館ラバーの夫婦だったのだが、二日ほど前からそのジムのプレオープンが始まり、有難いことに夫に地元の伝説の先輩からのお誘いもあって見学に行ってきた。夫婦共々デスクワークで腰回りに余分なものが沢山ついていたこともあり、とにかく身体を動かしたかった。宅トレ用の道具には不自由していなかったが、誰も見ていないところでコツコツトレーニング出来る人は余り多くないように思う。多分に漏れず、私もそうだ。ボクシングは、夫の勧めで市内で教えているおじいちゃん先生に体験させてもらい、スタンスを教えて貰った。そして、このおじいちゃん先生の教え子が運営するジムの会長にバンテージの巻き方を教わった。どちらも練習自体は楽しかったのだが、片道50分かけて車で通うのは、移動に使う時間で休日の楽しみが軽減してしまう。そんな理由で気が向いたときだけ練習に参加する程度になっていた。
初めてKキングの扉を開くと、人当たりの良いジムの会長とその奥さんやトレーナーの皆さんが暖かく出迎えてくれた。夫と共にあいさつを交わし、体験がしたいと伝えると快く引き受けてくれた。ジムの奥を見渡すと、他にも体験に来ている小学生やそのご両親や昔格闘家としてやっていた人も居て、とても活気に満ち溢れている。ここにある真っ赤なリングには神聖な何かが宿っているように思う。これについては、壁に掲げたKキングの会長の師である金城監督の写真が、この真っ赤なリングを天国から見守っているのかも知れないとも感じた。それにしても家の近所にこんな異空間があることは、本当にありがたい。知らない空間に来てしまって僅かな緊張感が走るなか、とりあえず最初はランニングマシンで2、30分走ることにした。身体も温まり、20分経ったころ走るのを辞めてランニングマシンから降りてジムの中を見学していると、会長の奥さんがミット打ちを勧めてきた。ミット打ちは2、3度やったことはあったが、サッパリ覚えていない。Kキングジムでの初めての相手は会長だった。3分間のタイマーが鳴るまで、素人なりにジャブとストレートをひたすらやるのだが、リングの中でミットを持っている会長について行くのがやっとだ。息は切れているが、身体の中のアドレナリンが作用していたのか、この3分間が終わるまでに、キツイとかもう無理だとか、そんなことを思うことは全く無かった。ただ面白く楽しかった。しかし、ドがつくほどの素人が3分間懸命にリングの中を動き回りジャブとストレートを繰り返していると、体力は酷く消耗した。1セットのミット打ちが終わり、会長にありがとうございましたとお礼を伝えた直後、息をしてもしても苦しくて堪らなかった。様子を見ていた会長がすかさず呼吸の仕方を教えてくれた。教えの通り、胸が開いて肺が膨らむように鼻からたっぷりの空気を吸い込み、口からハァーっと吐き出すのを繰り返すと、ようやく上手く息が出来ず軽いパニック状態にあった心と身体が、フーッと落ち着いた。しばらくの間胸の高鳴りが収まるまでリングの片隅に腰掛けていたら、脳内にあった偏頭痛の悩みや抱えていた心配事が一気に消えてしまっていた。「あー、スッキリしたー」と知らないうちに口にしていた。夫に初めてのミット打ちを動画に撮ってもらっていたのだが、楽しそうに教える会長のニコニコ笑顔が移って、私も楽しそうにニコニコと練習していた。特に私はシラフでいても笑いの沸点が低いため、少しでも楽しいとか面白いことがあると、顔が微笑んでしまうのだった。体験を終えて夫とジムを後にすると、自宅に帰って撮りあった動画を眺めて余韻に浸っていた。そして、この日の夜は二人とも久しぶりに熟睡した。翌朝起きると、夫が今日からジムに入会すると言ってきた。お月謝についてあれほど悩んでいた私達だったが、余りの楽しさとスタイル維持の手っ取り早さに魅了され、私もそうだねとすぐにうなづいて仕事の後の新しい日課が始まった。
ボクシングジムに入会して2週間ほど経ったころ、夫と二人で毎年恒例の海水浴に行くことにした。日本列島の北側で産まれた夫は、放っておくとシンデレラとイジられるほど肌は白く美しい。九州に住んでいれば尚のこと一段と際立ってしまう。女性からしたらこれほど羨ましいことは無い。白い肌はそれだけで七難を隠すと聞いたことがある。それが理由かは分からないが、夫は小麦色の肌への憧れは強い方だ。海で一通り泳いだ後にオイルを塗ってのんびりひと休みする。ちょっと熱くなってきたなと思ったら、今度はうつ伏せになって背中を大空に向けてひと休みする。こうして海水浴に3回行けば、泳いで筋肉のコリをほぐす事も出来て、念願の小麦色の色男の出来上がりだ。更に、これは余り知られてはいない秘密なのだが、ここの海水浴場は9時までに駐車場に到着すると、駐車料金が無料になる。そして、南国の日差しはあまりにも強いので、多少早めに海に入り、日焼けに入る方がお肌への負担は少ないのだ。いつもだったら私も一緒に水着に着替えて海にまっしぐらだったのが、ジムでの練習で日々筋疲労と共に生きている今、さすがに海に入る元気は残っていなかった。週末の買い出しを先に済ませようと思っていたが、常設された大きなテントの中で砂だらけのプラスチック製の白い椅子を手ではらって座ったらもう最後。BGMにはBEGINが流れる。常夏のリゾートとして全く申し分は無く、そして慣れ親しんでいるこの居心地の良いビーチから帰りたくないと言わんばかりに、無意識的に椅子から立ち上がることを拒んでいる。椅子の足が私の体重でズズッと砂の中に潜っていて、もはや人をダメにするクッションと何ら変わらぬ座り心地を披露する。今日はもう買い物は後回しにして、ここで週末を満喫することに決めた。そよぐ潮風はとても気持ちよかった。海水浴が終わると、二人でランチを食べて一度自宅に戻った。夫は体を動かすことが大好きなので、少し休むと15時にはKキングのジムへ行き練習していた。毎日練習に通う夫と違い、30代に入ってからスポーツに目覚めたポッと出の私には、今まで無かった習慣に毎晩睡眠時間も短くなり、体力が全く付いていかなかった。出来ることなら毎日続けたいところだが、早く練習したくてバンテージを巻く時に手抜きして、適当にグルグルと巻きつけていると、翌日指が痛くてミットが叩けなくなった。限界を感じて翌週は練習量を減らすことにした。インドア歴の方が長かっただけあって、週に2、3回のミット打ちで十分楽しい。通い始めてひと月経つころには、同時期に入会した子どもたちとウォームアップで一緒に縄跳びをしているうちに気が付くと打ち解けていた。そこに行けば小さな仲間とも逢える。そんな環境が出来上がり始めている。
そういえば最近、今まで感じていた小さなストレスが気にならなくなった。私の言う小さなストレスの代表格は、戸越銀座みたいな品格に欠ける行動をとる人がやけに目についたりする事も含んでいる。さらに言うと、別の温泉の露天風呂で陰毛をブチブチーッと2、3本まとめてむしり取る女が、ひとたび温泉から上がって休憩所で待ち合わせた彼氏の前では、猫を100匹以上被っていておとなしそうな姿を装っている。そういうのも別にいいけれど、本音は(お手入れとかそういうのは風呂の中でやらないでくれよ〜)と思っていても、この人達は家では自身のお手入れが満足にできない環境にあるのかも知れない等と思って無理やり腑に落とすようにしていた。いやそうではなく、小さなストレスはそこかしこに転がっているのに変わりはないが、ミット打ちで夢中になって上がった心拍数が落ち着くと、抱えていた(なんだかなあ)の気持ちが全てどこかに消え去っていくのだ。週末にイルカ館で体力を限界まで使った後にサウナで整う感じも最高に良かったが、家から車で3分の近さで平日にも通うことの出来るボクシングジムは、私の精神衛生をすぐに整えてくれる。そう言えば、ジムに通うようになって浪費も減ったように思う。肉体を整えられ、精神も整えられ、金銭的にも優しい。田舎に住みながら十分に満足して暮らしてゆける。朝食にはホットケーキを焼いた。運動もしっかり取り入れることの出来る今は、遠慮してバターを少なめにする必要もない。ヨーグルトには農業高校の生徒さんが作った美味しいと評判のジャムを入れて食べる。ああ素晴らしい。こんな日々が長く続くことを切に願う日曜の朝だった。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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