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お独りさま。

このところまた早起きを始めた。1年ほど前に早朝5時に起床することがカナコの決めたルーティンだったが、いつからかすっかりやらなくなっていた。夏が終わりつつある朝、夜明け前の涼しい時間に目覚めると、気だるそうにトイレに行く。用を足しトイレから出ると、1歳5ヶ月の成猫すーちゃんと生後4ヶ月の子猫のさーちゃんがカナコの足元に擦り寄ってくる。腹時計の正確な二匹の雄猫は、にゃおーん、にゃーにゃーと甘えきった声を出し、さっさと餌をよこせと言わんばかりにカナコの歩みを遮りながらグルグルと喉を鳴らし、スリスリと懸命に意思表示をする。
「はいはい、ちょっと待ってね」
寝起きのかすれた声でそう言いながら新鮮な水に取り替えて、成猫用の毛玉をケアしてくれるキャットフードと、子猫用の粒の小さいキャットフードを差し出す。それが済むと、カナコは前の晩に用意しておいた程よい加減のお白湯をポットから大きめのガラスのコップに注ぎ入れ、ゴクゴクと一気に飲み干した。すーちゃんは野菜のキャットフードを食べながら、横目にお肉で作られたさーちゃんのキャットフードに目を輝かせている。因みにこの子たちの名前は、春に産まれたことでSpringのすーちゃんと、夏に拾ってきたことでSummerのさーちゃんと命名した。捻りなどは全くない。話は戻るが、カナコは猫のエサについて初めのうちはそのまま放っておいた。けれどもひと月ほど前、次男坊のさーちゃんのワクチン接種で毎週動物病院へ通院していた時のことだった。カナコはさーちゃんが先週と比べて200グラムしか太っていないと知り、注射が終わって会計を待つ待合室で自宅で留守番中のすーちゃんについて想いを巡らせていた。最近、彼の後ろ足付近の胴体にくびれが無くなってきている。(もしかしてフード皿が空っぽなのってすーちゃんが食べていたんじゃ…)とやっと気が付いた。なるほど、そう言うことだったのかと一人頭の中で納得していると、(これはきちんと対策を取らねば)と決心して四十肩の痛みを堪えながらゲージに入れたさーちゃんを抱え、車に乗り、そのまま自宅へ走らせた。それからはさーちゃんのエサをすーちゃんが強奪しないように見張っている。そして、二匹が一通りご飯を食べ終えると、さーちゃんのフード皿だけを終うことにした。その甲斐もあってか、便秘がちだったすーちゃんのお腹は、くびれたスリムなウエストを取り戻し、さーちゃんはまん丸い子猫が持つ愛らしさを見事にモノにしている。
二匹の家族にご飯を与え終えると、カナコは自分の朝食の準備を済ませ、ソファーに座る。前屈みの姿勢でスマホを手に取り、SNSを親指でスクロールしていると、寝起きに飲んだコップ一杯のお白湯が腸のぜん動運動を促し、効果を発揮する。ソファーから便座に座り直し、再びトイレで用を足すと、ここでようやく頭が冴え始める。脱衣所に向かったカナコは、ウォーキング用のタイツに履き替え、スポーツブラを着ける。カナコの早起きの理由は、この1時間のウォーキングの為だった。有酸素運動については、彼女がまだ10代の若い頃から身体にいいと聞いていて、ウォーキングだのジョギングだのといった様々なトレーニングを始めてみても三日坊主で終わってしまう。カナコは運動が大の苦手だった。ところが最近、急にウォーキングの後の爽快感が堪らないとクセになっている。玄関先で準備運動を終えると、イヤホンで音楽を流す。そのリズムに合わせて両腕を振り、スタコラサッサと歩いてゆく。いつかの夕方にこれをやった時には、道端で退屈を持て余す警備員のオジサンがすれ違いざまに何かを話しかけるそぶりを見せる。視力の弱いカナコは肌も強い方ではなく、汗で金属アレルギーのデキモノが出来て痛痒いのが嫌で、メガネを外して歩いている。本来メガネを外すのならコンタクトを入れるのが当たり前なのだが、節約を兼ねて裸眼で歩いている。音楽が好きなカナコは、そのビートに足を合わせて歩く。左足から出して息を吸い、右足を出して息を吐く。これを淡々と1時間やるのが快感なのだ。路上で伸びきった草や景色はなんとなく分かるけれど、すれ違う人の顔は全くわからない。その上使っているBOSEのワイヤレスイヤホンはしっかりノイズをカットしている。体力の限界がなければどこまでも歩き続けていたい程だった。この警備員のオジサンは、恐らくカナコの聞いている音楽が次曲に切り替わる時に歩幅を合わせようとしている彼女の姿を見て、休憩に入ったとでも思ったのだろう。笑いながらこちらに近寄ってくるオジサンを無視することが出来ずにイヤホンを外すと、
「涼しくなりましたねえ。いやー、さっきまで暑くてどうしようもありませんでしたが…」
と世間話を求めている。(暑くても寒くても私は気分転換したいんだから、運動の邪魔しないでしっかり自分の仕事をやっといてくれ)と、頭の中で思いながら、
「そうですねえ…。どうも失礼します」
と笑顔で告げて、耳にイヤホンをねじ込んで軽い会釈をする。そして、(左、右、左、右)と数えながら愛してやまないスタコラサッサ歩きに戻っていった。すると、どういう訳か、右足でビートを取ってしまう。ついでに、歩きながら右足で呼吸してしまう感じがたまらなく気持ち悪い。(もぉ、あのオッサンがはなしかけてこなければ…)などと頭の中で独り言を話しながら、一度ゆっくりと歩き、息を吸いながら音に合わせて左足を出し直した。そんな理由で、小さなストレスを回避するためにも朝の方が何かと気楽なので、早起きを再開し、ウォーキングを楽しんでいるのである。
家に戻ると、庭で再び軽いストレッチを済ませて中に入る。出がけに用意しておいた常温に近いグレープフルーツジュースを飲み干して汗を拭き、部屋着に着替える。一息ついて、(今日は何キロ歩いたのかなー)と、アプリをチェックする。ソファーに沈み込み、片足をオットマンに預けボーッと外の景色を眺めたり、気が済むまで休んでから朝食を摂るのが日課になっている。
カナコは30代で若くして未亡人となった。それだけでも大変辛い出来事を経験したのに、知人の中には心無い人たちも居て”金目当て”とか”殺した”などと言ってるのを人づてに聞いた。(この人たちは何も知らないのにどうしてこんなに酷いことが言えるのだろう?)と真面目に考えてみると、(なるほど。いわゆるお金コンプレックスを中々たくさんの人達が持っているのだなー)と、他人事のような心境で解答に辿り着き、一人ふむふむと納得している。日々弱ってゆく愛する亭主を失う辛さは、当事者でなければ解らないほど痛みを伴う。とはいえ、彼らは全く失言もいいところだと思いながら過ごしていると、気が付けばその知人たちとは見事に疎遠になって逆にホッとしている。先立った夫の仏壇に向かって、
「ありがとうね、変人たちから守ってくれて。少しは悲しんだり胸が痛かったりもしたけど、そんな人とお付き合いするのは時間の無駄だもんね」
と感謝するばかりだった。知らないうちに人間関係の断捨離に成功していた。
夫を亡くしてしばらくの間は、町内のお友達が気に掛けてくれていたけれど、時間の経過とともに連絡しても返事が1週間後に帰ってくるようになった。隣県にある実家に帰省する時など、愛猫のすーちゃんのお世話を頼んでいたのだが、ある時奇妙なことを言ってきた。夏場の締め切った室内で、猫のトイレの匂いが気になったらしく換気扇をつけて帰ったという。しかし、翌日来てみるとその換気扇が消えていたのだという。すーちゃんは人間くさい性格ではあるが、その愛らしい肉球で換気扇のスイッチを押すことはできない。システムキッチンに備え付けた換気扇のスイッチは、すーちゃんが頑張って背伸びしてもまず届かないだろう。要するに、遠回しにこの家にオバケがいるみたいなことなのだろう。この話を聞いてからは、たまに電話するといつも体調が悪い様子なので、一緒に行っていた気晴らしのお茶に誘うことも、しばらくはやめることにした。大切な友人だからこそ、彼女には彼女の事情があるのだろうというところで、ここらで一旦腑に落とすことにした。
灼熱の夏が終わりを迎え、秋がもうそこまで来ている。思い掛けない一人暮らしにもようやく慣れてきたカナコは、庭先の小さな家庭菜園の土作りを始めようと、ホームセンターで堆肥を買ってきた。去年苗を買って作ったサニーレタスは、本当に重宝した。買いに行く手間も省けるし、何より節約になる。野菜は突然の値上がりに目玉が飛び出そうになることもある。その点家でパセリやセロリなどを植えておけば、買ったものよりも美味しい無農薬野菜が食べられる。まさに一石二鳥なのである。カナコはこんな気晴らしを盛り込みながら、一人黙々と小説作りに勤しんでいる。先立った夫には、
「君は頭がいいんだよ」
といつも励ましてもらっていたが、最新じゃ誰もそんなことを言ってはくれない。カナコの話し相手は夫を失って以来、基本的に猫なのだ。そんなカナコも子どもの頃に得意だったことがあった。それは作文だった。よく連休の時に宿題になりがちの作文に、
「書くことなんて何もないよー」
と嘆いて半べそになる友達は沢山いたが、カナコはこれに関して困ったことが一度も無かった。子どもながらにほんの一瞬(将来小説家になったりしてー)といった雑念が頭の中をかすめ通ってゆく程度で、本当にPCに向かってコツコツと文字を起こしているとは思いもしなかった。
いつかの夏に友達からの誘いで久しぶりに呑みに行くことになり、彼女の行きつけの店へゆく。すると、友達がその飲み仲間たちに
「この子作家だよー」
と紹介する。(えーもう、収入もないのに恥ずかしいからバラさないでー)と、内心困っているのだけど、カナコは確かに小説を書いてそのための資料を読んで毎日過ごしている。無職扱いされるとそれはそれで癪で仕方ない。それに、いつでも気分良く過ごせている訳でもないし、将来のことを考えれば考えるほど(絶対働いた方がマシだよなあ)などと沈んでしまうこともある。けれど、何とかモチベーションを保ってゆこうと気持ちを奮い立たせて、一日一日を過ごしている。変わった職業ではあるけれど、カナコだって他の人と同じように浮いたり沈んだりを繰り返しながら、地道にコツコツと物語を編んでいるのだ。それでも流石に何も浮かんでくれない時もある。そうなると、大体畳の上で寝っ転がって放心する。それでも描く気が起きない時は、外の菜園で草を取り始め土いじりをする。結局何も湧かずに一日が過ぎてしまうこともある。初めのうちは(やっぱり私には向いていない)などの泣き言ばかりを頭の中で繰り返していたが、最近ではストーリーの一字も浮かばず執筆が進んでいなくても、
「今日も一日よく頑張ったなー」
と呟き、達成感が溢れ出ていることもある。そうでもしないと、家の中は元気に走り回るすーちゃんとさーちゃんの毛で、歩くたびに素足で歩くカナコの足の裏がモップ化するようになる。椅子に腰を掛けて両膝を開いてその間にゴミ箱を置き、その上で両方の足の裏を合わせて擦ると結構なゴミが出る。それからカナコは自炊を好んでいる。となると、掃除を怠ると油でギトギトになりがちなキッチンは二匹の猫の毛で取れない汚れに変わってしまう。日々の掃除をサボって溜まった汚れを大掃除するといった無駄なエネルギーを使いたくないので、(小説は書けなくても、日々の営みがきちんと済めばよろしい)そんな心境で過ごせる図太さを身に付けた。
土いじりも済んで気を取り直し、PCの前に座ったものの、Google先生の検索窓に[どうすればよかったのか]と打ち込んでいて、自分で驚いた。カナコはやっぱり腑に落ちないのである。みんな勝手気ままに好きなように言っているが、自分でも気が付かないうちに精神的なダメージは膨らんでいたのだった。そして、考え抜いた後にいつも湧いてくる言葉は、(だったら闘病に付き添ってみたらいいじゃん!)とか(どこに病気の夫を見殺しにできる人がいるんだ!)といった、ぶつけようのない怒りだった。未亡人とは、珍しい種類のストレスに晒される傾向にあるようだ。
ある日の3連休に、あまりに辛い現実を過ごすカナコを心配して、1歳年上のあかねが遊びに行くといった。前日の朝、カナコは久しぶりの来客に備えてビシッと部屋を綺麗にする。日中来客用の布団も干してばっちりスタンバイしていた。ところが、どんな時間配分で手違いがあったのか、あかねはフィアンセと愛犬を連れて12時間早く我が家に到着した。夜の8時、手土産に持参した豚足を8パック広げると、
「ほらあんた、豚足大好きだったでしょ。地元でいっちばん豚足の美味しい店で買ってきたよ」
と言っていた。その豚足はご丁寧に真空パックになっている。味は二種類あったけれど、一人暮らしのカナコに豚2頭分の豚足はいくら何でも多過ぎる。豪快な性格のあかねらしいといえばその通りで、そのあかねが一番可愛がった後輩カナコは大量の豚足をきちんと胃袋に収めてしまう生真面目なやつだった。
雨上がりの翌朝はとても綺麗に晴れていて、空の隅々までが澄んでいた。日中は彼の運転で、日本のモアイ像を見に行こうと観光し、名物の地鶏のたたきを買って帰った。あかねは久しぶりに逢うカナコがすっかり痩せていたことと、3人で晩酌しながら二匹の猫と小型犬が戯れ合う姿を眺めながら、ポロッとカナコが口にした
「最近鏡の前に座っても、化粧の仕方忘れたみたいなんだー」
なんていう信じられない事態に、
「あんた、昔はあーんなに綺麗にしてたのに、何なのそれ?ちゃんと化粧しないと、女が廃るよ!」
と叱咤した。照れ隠ししながら
「わかったよぉー」
と話しているうちに、その日の晩は過ぎていた。翌朝起きると、カナコは3人分の朝食を用意している。物音であかねは目を覚まし、そのままフィアンセと犬と猫と、ゴロゴロして過ごしていた。9時近くになると、あかねは突然広げていた荷物をもの凄いスピードで片してゆく。そして、1時間もしないうちにフィアンセと愛犬を連れて帰って行った。極限までくつろいで身支度の時間を短縮したその姿と、ゆったりのんびりと生きているカナコは、あかねから迸っていた底知れぬ強いファイト精神に脱帽するしか無かった。もうやることは一つしかない。
「やるって決めたらやるんだ!」
と自分に喝を入れPCを開いた。立ち上がったPCを目の前にすると、仕事前のいつもの流れでSNSをチェックした。そこで誰かがシェアした呟きが目にとまった。そこには、自分の嫌いな人の幸せを願うことの難しさと、難しくてもその相手を許すようにと勧めていた。さらに言うと、その憎い人は自分自身の鏡ですとも書いていた。ここにあることは恐らく真理だろう。それくらいのことはカナコでも知っている。けれど、それは同時に夫を看取って間もない未亡人にヌケヌケと酷いことを言った連中とカナコが同等であると認めたも同然だった。どうしてもそこは腑に落ちないがそれも仕方ない、と根性ブスにだけはなりたくないカナコは、彼らの嫌いなところを、出来る気はしないけれども何とか許せるようになろうと努力することを心に決めた。性格貧乏のあの人達だってカナコと同様にそれなりに精一杯生きているのである。決めてしまうと早いもので、(なんだー、そんなに簡単なことだったのかー)と、腹を立てることを忘れてしまった。しかし、罪を憎んで人を憎まずのその精神と、その時の怒りのエネルギーは中々役に立った。久しぶりに順調に進む執筆も日が暮れてきたので仕事を終えることにした。あかねたちのお陰で萎えかけていた気持ちに、ゆとりと優しさが生まれた。するとカナコは、自分が何で思い悩んでいたのかものの見事に忘れてしまった。ただ、思い出せない程度の出来事を今更気にする必要はなく、でもクヨクヨと考え込んでいたことは確かだなあと反省し、椅子に座ったまま両腕を上げて背伸びをして深呼吸すると落ち着いた。椅子から立ち上がるとお夕飯の支度をしようと書斎を後にした。

猛暑が訪れる前の頃、父方の祖父が亡くなった。カナコの母と離婚した父が数年前に他界して以来、父の姉にあたる叔母がもうここには帰ってくるなと言ってきたこともあり、こちらの一族とは疎遠になりつつあった。兄妹で話し合った結果、長男が代表して葬儀に行くことになった。カナコは両親の離婚が成立するまでこの祖父の暮らす家で産まれ育ったこともあり、亡骸にも逢えないのはどうしても悔やみきれない。そこでお通夜のある日中に弔いに向かうことにした。悲しみに暮れる祖母はカナコに、四十九日には来ないでと告げた。胸の内に僅かな痛みを抱え、黙って承諾した。叔父の一家はカナコの顔を見るなり、
「アレだからちょっと向こうに行ってくるわ」
と、叔父以外の一同が揃って視線が合わない様子をかまして、その”謎のアレ”を理由に祖母宅を出て行った。カナコは父を亡くした後、いつか祖母が言っていた”死んだら終い”との言葉が頭の中でこだましていた。その、”死んだら終い”の指す終わりとは、親戚付き合いの終わりも含んでいることを身を以て経験していたので他界した祖父にお別れを告げると、母方の祖母の家に泊まりに行った。向こうの親戚とは違う、母方の祖母ヨシエの元に向かうと、カナコはその日の出来事をありのままに伝えた。
「あらまぁ〜、いい爺さんだったのにねえ。ホントにねえ」
と悲しそうな顔を見せ死を悼むと、カナコの話を聞いて、自分のことのように憤慨しはじめた。
「今、なんて言った?」
「あらまっ。アンタに挨拶も無しに?そんなことがあるの?」
「まあ酷いわあ。四十九日には来るなって?」
「あんた達を都合のいい時だけ調子のいいこと言って手伝わせておいて、人なんて分からないものだわっ。ああ、恐ろしい〜」
と、徐々に声を荒げてゆく。怒りで声量が大きくなると、毎度お決まりの
「あんた達の親の離婚で、子どもたちをそっちで面倒見てと言ってきたのは向こうの婆さんだからね!」
と鼻を大きく膨らませて怒り始める。ヨシエはこの話をする時は決まって声が大きくなり、言葉に勢いが付いてもしこの場所に現れた人がいたら噛みついてしまうのではないかと思うほどの怒りを露わにしてみせる。20年ほど前に脳梗塞で一命を取り留めたヨシエの脳の血管が、今度こそ本当に切れてしまうのではないかと、幼かったカナコ兄妹の痛みを庇い続ける優しいヨシエの姿はいつも誇らしかった。しかし、興奮したヨシエを見るとどうしても(この鼻の穴なら、今なら縦にした五百円玉が二千円分くらいは貯金出来そうだなあ)と、考えてしまっている。これを言葉にして口から出すことをしなければ、誰も傷つくことは無い。なので、思考は自然に湧いて出るもので、それを良いとか悪いとかジャッジすることはもうやめた。自己嫌悪に入る必要は無いからだ。
ヨシエは10年前に祖父を看取り、それから一人暮らしをしている。最近、少しづつ老いを見せ始め、年々身体が小さくなってゆく。いつもカナコの見方をしてくれて清く正しい眼差しで物事を判断出来る唯一の人だから、いずれ祖母もこの世から居なくなってしまうことが悲しくて堪らない。この人だけは何とか私よりも後にこの世を去ってくれないだろうかと、出来もしないことを本気で考えてしまうのだった。ヨシエの淹れたお煎茶を啜りながら二人の気が一通り済んだところで玄関の鍵がガチャっと鳴ってドアが開く音がした。
「あら?来てたのー」
と、ヨシエの娘であるカナコの母が来た。茶の間に入るとお洒落な肩掛けの鞄を下ろし、カナコとヨシエの座っている猫足のちゃぶ台に両手を付き、ヨイショと声を漏らしながら尻を着いた。そのまま後ろに寝っ転がった。
「あ〜、疲れた」
そう言って大の字のまま3分と経たないうちに、んガーッっと巨大なイビキをかきながら昼寝に入った。ヨシエはカナコに
「お母さんはずいぶん疲れてるみたいだねえ」
と言うと、カナコは
「そうねえ」
と言った。カナコは母を眺めながらこの人は羨ましいなと思っていた。バツイチの母は数年前に再婚して、義父と二人で暮らしている。それまで、誰の力も借りずに働きながら3人の子どもを一人で養った。義父は社長なので母はもうあくせく働く必要はなく再婚して初めの2年間ほどフラダンス教室に通ったり陶芸教室に通ったりして過ごしていた。ところが、日本の不景気は容赦無く義父のところにもやってきた。カナコがたまに実家となる義父宅に帰ると、
「お父さんはこんなに働いてるのに給料なしよ」
と言っている。すると、
「まあ、食べていけるから良いけどね、大変だよ」
と義父もぼやいていた。そんな時、習い事に通ってのんびりするのにも飽きていた母は、それまで役職付きで働いていた長年やってきた仕事に復帰した。誰もが認めるキャリアウーマン体質の母は、食べて行けるだけでは足りないのだ。義父と再婚するまで独身だったこともあり、長い間お金の使い道は自由だった。洋服はブティックやデパートで揃えるのが好きで、今まで使っていた基礎化粧品などを気兼ねなく買い物出来ないこの状況は極めてストレスなのであろう。しかし、専業主婦やパートとは違い、仕事に必要なスキルは人並み以上に持っている。頭のキレる母はサッと働き始めてもう収入を手にしている。このおかげで義父も大助かりなのである。それから2年ほどで義父の会社の危機も通り過ぎ、再度働く必要の無くなった母だったが、昔一緒に働いていた親しい仕事の仲間たちもまだ頑張ってるからとの理由で、仕事を手放す気が失せてしまった。ちょっとしたワーカホリック気味な母にも、仕事を終えて帰宅すると家事が待っている。手際良く出来上がっていく料理はもう、料亭で出てくるほどの腕前だ。母の性格は何か気に掛かることが目に付くと、すぐにやらないと気が済まない。家事の中ではとにかく徹底的に掃除はやるが整理整頓は苦手な様子だ。義父も新しいものや家電製品が大好きですぐに買ってくるので、この家には圧倒的に物が多い。リビングにテレビが3台あり、扇風機は2つある。モノを一度片隅に押しやると、それからスイスイと掃除機を掛け、雑巾で床を拭いてゆく。けれど、時間に追われがちな母にハタキを掛ける習慣はないので、部屋のほこりはすぐに目に見えるところに現れフローリングの上でフワフワと優雅に遊び始める。母は目敏いのですぐに見つけてしまい、(今掃除したのに、またほこりが出た…)と、頭上に吹き出しが出ているような視線でホコリを見つめている。そんな姿を見てカナコは密かに思っていた。(パーっとハタキ掛けして茶でも飲みながら15分放置したらホコリ落ちて来ないのに)と。昔チラッと言ってみたけれど、それは図星を付いたことで逆鱗に触れ、
「お母さんいつも大変だったのに、手伝いもしないでそんなこと言うのっ」
と、呆れた表情で怒りが入り混じり、顔がどんどん引きつっていった。その時に何かとんでもない地雷を踏んでしまったと学習したので、お互いのために触れないようにしている。そうして母は、休みの日に買い出しを済ませるとふらっとヨシエの元へ寄り昼寝して、束の間の娘時間を満喫しているのである。それから30分ほど過ぎてムクっと起き上がると、
「あら……。今日は家でたくさんやることあったのに、こんなに寝てしまったわ。も〜う、二人とも起こしてよ〜」
などと言っている。そんな話は全く聞いていないしカナコとヨシエには無理な話だろう。それに、座りもせずにゴロっと横になり眠っておいて、(完全に昼寝しに来たと思ってたし)と思う胸の内は、ヨシエもカナコも明かさなかった。母は拗ねると大変だからだ。一人でブツクサ言いながら置いてある鞄を肩にかけると、またねと言って帰って行った。ヨシエとカナコは母の居なくなった居間で何が起きたのだろうと目を合わせ、
「あはははは」
と揃った声で大きく笑うのであった。
翌日、祖母宅から自宅に戻ったカナコはいつも通っている前平鍼灸院に電話を入れると、先生は19時に来るように言った。施術前にお夕飯を食べるのは何かいけないような気がして、お夕飯をスキップして空腹のまま向かうことにした。前月ここの院に来た時に、子猫がたくさん産まれていた。駐車場に車を停めると先月と同様に可愛い子猫たちがゴロゴロしていた。その中に一際小さな身体で、人に触られてもビクともせず、口では鳴いているけれど声が出ていない毛の黄色い子猫がいた。(この子は確か、先月も可愛いと思った子だなあ)と、小さくしゃがんで眺めていると、前平先生がどうぞと外まで呼びに来てくれた。カナコは慌てた様子で
「あら、すみません」
と言いながら施術を受けるべく院の中に入って行った。うつ伏せになってベットに横たわるともみほぐしが始まった。これがとても気持ちいい。大好きだった祖父との別れに加えて”向こうの親戚”が与えたメンタルへのボディーブローの数々は、しっかりとカナコにダメージを与えていた。前平先生は今までの中で一番硬いですと言いながら、なかなかほぐれていかない頑固なコリを力を入れずにゆっくり優しくほぐし、気長に筋肉の緊張を緩めていった。驚いたのはその後に鍼を打った時だった。カナコが思わず
「おぉぉ〜、…効きますねぇ〜」
と、つい声を漏らしてしまった。このツボは、胃と十二指腸と肝臓だった。施術が終わったカナコは放心した状態でお会計を済ませた。精一杯丁寧にありがとうございましたと礼を言うと、外の子猫が再び目に留まった。その日はカナコが最後の患者だったので、先生も一緒に外まで出てきた。先月来た時に先生に良かったらこの子たちを貰ってあげて下さいと言っていた。そして、カナコが気に入っていた黄色の子猫を撫でながら、
「この子が一番小さくて、前は元気だったのに、最近は声も出なくなってきて……」
そう言って子猫を抱き抱えると、カナコに渡して抱かせた。
「この子を貰って帰ったとして、死なせてしまったらどうしよう…」
そう話すカナコに先生は
「でも、ここに居たらもっと死んじゃうと思うんですよね……」
と言った。なるほど確かにと思ったその瞬間、(そりゃいかん)とカナコの悩みが吹き飛んだ。早々と連れて帰ることを決めたカナコに先生は段ボールを用意してくれた。オスかメスか分からないのでとりあえず夏ちゃんと声を掛けた。夏ちゃんはカナコの腕の中でグッタリとしている。箱に入れた夏ちゃんを助手席に乗せると先生に見送られながら車を出した。その足で向かった5分ほどの所にあるホームセンターに着く頃には、箱から脱走してカナコの膝の上でゴロゴロと喉を鳴らしていた。生後2ヶ月の子猫を親猫や兄弟と引き離して間もないうちに車の中に放置することは何か気が引けて、カナコは夏ちゃんを抱っこしたまま店内へ入った。それに、この子は声が掠れてしまっていてあまり鳴き声は聞こえないのだ。密かに小さな夏ちゃんを買い物カゴに入れていたが見事に誰も気付いていなかった。するとそこに店長が挨拶に来た。半年ほど前にお店が手配した委託業者の手違いを謝罪に来たのだった。いいえいいえ、とんでもないですと恐縮し、(ペットって店内に入れたらよろしくないよね)とか考えて、更にもう一度恐縮しながら子猫のミルクはどこに置いていますか?と、手短に事情を話しながらペットコーナーに向かって歩いた。カゴの中の夏ちゃんを見た店長は可愛いと呟いて目を細めた。子猫用のミルクとウエットフードを手に入れたカナコは、自宅に帰ると早速先住ネコのすーちゃんに紹介した。初めて子猫を見たすーちゃんはキョトンとした目付きで物珍しそうに夏ちゃんを見ていたが、夏ちゃんの方は「フーッ」と威嚇した。それを見たカナコは(こりゃ大変だ)と、夏ちゃんは玄関で、すーちゃんをリビングにと別居させることにした。そして、すーちゃんが子猫時代に使っていたフード皿を探したり、いつか脱水症状で死にそうになっていたすーちゃんに使っていたことのあるスポイドを探していたが、もう使うことはないだろうとたかをくくり、ゴミ箱へ入れたことを思い出した。仕方がないのですーちゃんのドライフードとスプーンと数枚の小皿を手に取り、使ってない湯呑みに水を入れて玄関に向かう。夏ちゃんは衰弱しきった様子でグッタリと横になっていた。人の気配がした夏ちゃんはカナコの顔を見つめながらニャーと鳴いている。とにかく何か食べてもらおうとお皿にウエットフードを入れた。鼻をヒクヒクと動かして食べ物への反応は見せるが、食べる気力のないような面持ちでカナコを見つめ直す。別のお皿にミルクを入れたものの、飲み方が分からないでいる。カナコは左腕に夏ちゃんを抱きかかえると、捨ててしまったスポイドの代用に持ってきた大きなスプーンにミルクを入れて口元に持って行った。すると、舌を出してペロペロと舐め始めた。
「やったー」
と声を出して喜び、しばらくそれを繰り返していた。ミルクを飲んだ夏ちゃんは瞳を輝かせてどんどん元気を取り戻してゆく。気が付くと1時間ほど経っていて、少しづつウエットフードを食べられるくらい元気を取り戻した。念の為にすーちゃんのドライフードも小皿に入れておくと、それだけが完食してあってこれが一番の好物だとわかった。けれど、成猫用のエサは夏ちゃんの口には大き過ぎて食べにくそうなので、“水に浸けてふやかそう作戦“に出た。お腹が大きく膨れたところで眠たそうにし始めたので、すーちゃんが使っていた子猫用のトイレに水分を吸収するマットを入れ、アンモニア臭が全く気にならないチップを敷き詰めて置き、その隣にベットの代わりの段ボールを並べてリビングに戻った。すーちゃんは子猫の様子が気になって仕方のないそぶりを見せる。カナコは、(早く明日にならないかなあ。病院に連れてって色々見てもらわなきゃ)と思いながら、夕飯を食べ損ねたままお風呂に入った。心配でいっぱいの夜が明けると、早朝に珍しくカナコの眠るベッドにすーちゃんが起こしにきた。
「はいはい、ご飯でしょ〜?今用意しようと思ってたのお〜」
と、起き上がる気力はまだ戻っていないのに、思ってもない言葉を口走っていた。寝ぼけたカナコは玄関の物音で夏ちゃんのことを思い出した。すーちゃんのご飯を差し出て夏ちゃんの様子を見に行くと、きちんとトイレで用を足し、ふやかしておいたドライフードを完食し、昨日とは全く違う様子で駆け寄ってきた。
「はいはい、夏ちゃんえらいね〜。うんちしたんだね〜」
と、さっきとは明らかに違う猫撫で声で話すカナコを、すーちゃんはリビングのドアのガラス越しに顔を近づけ、しっかりとこちらを見ている。床に座ったカナコのふくらはぎを母猫と勘違いした様子で鼻先をヒクヒク動かし、フローリングを踏み踏みしながらおっぱいを探している。昨夜と同じようにスプーンにミルクを入れ口に運んだが見向きもせずに、袋を開けたばかりのウエットフードをお皿に移すとそれを夢中で食べ始めた。元気になった子猫を見てホッとすると何かお腹に傷のようなものを発見した。すーちゃんのかかりつけの隣町にある動物病院は8時半から診療開始するので、再び心配でいっぱいになったカナコは朝一で診てもらおうと支度を始めた。病院に到着し、受付で昨日拾ってきましたと伝えると、
「飼うんですか?」
と、厳しい目付きで女医さんに聞かれて、
「はい」
とだけ答えた。先生は夏ちゃんの歯を見て、生後2ヶ月ですねと話す。診察台に乗せた夏ちゃんの体重は660グラムしかなかった。これは生後2ヶ月の子猫の体重の約半分といったところだ。カナコは先生にこの子のお腹に傷があることを告げると、傷口の状態から恐らくひと月ほど前に大きな鳥にさらわれそうになったのだろうと言った。鳥のくちばしで大きな傷を負った夏ちゃんは、傷口を何度も何度も舐めて、生きるために毎日傷を癒そうとじっと横になって過ごしていた。生後1ヶ月の子猫に上手なケアは難しかった。時間と共に塞がった傷の中は化膿していた。その状態であの駐車場に1ヶ月も転がっていたのかと思い返すと、カナコの瞼は涙でいっぱいになった。動けば体力の消耗に繋がる瀕死の状態も、側から見ればのんきで人懐っこい愛らしい生き物なだけである。かさぶたを取り除く処置に、なっちゃんは大声を張って怒っている。頑張ってと励まして頭を撫でていると、肥えたノミが何匹も顔や身体を這ってゆく。これほど小さな身体で縫わなければいけない程の大きな傷を作って、ひと月もの間よく生きていてくれたと必死に耐え抜いた夏ちゃんを抱きしめずには居られなかった。処置の途中に先生がオスだと教えてくれた。カナコは勝手に愛くるしさからメスだと思い込んでいて、メスだと判明したら真夏(まなつ)ちゃんにしようと思っていたので、少し調子が狂った。それならすーちゃん同様にサマーのさーちゃんにしようと密かに決めた。痛い治療が終わると、さーちゃんはカナコの左腕に抱かれて安心しきった顔でぼんやりと受付のお姉さんを眺めている。待合室ではアイドル並みの愛らしさを発揮し、その場に居合わせたペットの飼い主たちを魅了した。胴体にグルグルと包帯を巻いたさーちゃんと自宅に帰ると、先住ネコすーちゃんにノミが移りでもしたら大変だと、しばらくの間別居生活を続行することにした。さーちゃんは朝と晩に抗生物質を飲まなければならない。その後は、薬が無くなる1週間後にもう一度診察に行くことになっている。さーちゃんは病院で傷口を塞ぐ手術をして、注射を二本打ち、ノミや寄生虫のお薬を付け、まぶたに軟膏を塗っていたこともあって、重症者のように見えたが夕方には元気を取り戻していった。三日後の朝カナコは先生に言われたように包帯を外して傷口を空気に晒すことにした。とてもやんちゃなさーちゃんは、玄関にあるものの全てをおもちゃにして暮らしている。カナコが包帯を外してゆくと、傷口は随分と塞がり始めていた。三日目ともなると慣れた手つきで注射器を持ち薬を吸い取ると、すーちゃんを抱き抱えて少しづつ飲ませた。その後は待ちに待った美味しい朝ごはんだ。痛々しい傷口をさらしたままガツガツ食べる姿に体の小さなさーちゃんのお腹がポンポコリンと膨れていく。何とも可愛らしい姿であった。ところが、次の日の夕方になると子猫の成長スピードは凄いものであって、しっかり縫合した傷口がにわかに裂け始めている。(これって、このまま明日になったら治ってるってことはないよなあ…)と、明日はもっと裂けてしまうかもしれない傷口を想像すると急に恐ろしくなって病院に電話した。すると、すぐに連れてきてくださいと言っていた。
診察台に乗ったさーちゃんの体重は880グラムと言われ、この4日間で220グラムも大きくなっていた。先生はハサミを取り出しすぐに抜糸を終えると、初めにここにきた時の辛そうな顔つきから生気の漲るキュルルンとした愛らしい表情に変わっているサーちゃんを見て
「良い人に拾ってもらったね」
と笑った。それから更に1週間分の薬を処方すると、全部飲みきったらまた来るように言った。この数日間不安を抱え続けていたカナコはようやくホッとすることが出来た。
それから、すーちゃんを家族に迎え入れて動物病院の通院がひと通り落ち着いた頃、ソファーに座ったのと同時に電話が鳴った。手に取って見てみると、”向こうの家族”の祖母からだった。内容は兄が電話に出ないのだと言っていた。仕事が忙しいんじゃないの?急用なの?と問うと、何かモゴモゴとしている。祖母はカナコの問いには答えるつもりはなさそうだった。とにかく代わりに電話して、ばあちゃんが心配していると伝えてくれと言っていた。スッキリしないやりとりに、こんなに声を震わせてどうしてしまったのだろう?と思いながら電話を切った。(まあ、ばあちゃんの声が聞けてちょうどいい気分転換になったし、キリの良いところまで執筆してからでもいいか)とも思ったけれど、とりあえずラインで知らせておいた。すると、翌日赤いバイクの郵便屋さんがポストに郵便物を入れた音がしたので中を見に行った。封を開けると、死んだ祖父の財産を相続放棄するための書類が入っていた。カナコはなんだそうだったのかとガッカリした。カナコの先立った夫はこのことを予見していて、あらかじめ警告を促していた。しかし、こんなことが実際に起きると精神的なダメージは大きい。どうやら祖母は祖父の遺した遺産について心配でたまらずに電話をかけてきたようだった。他人の話ならともかく、信じていた身内からこの話が出るのは流石に胸の痛みを隠せない。そもそも、財産を分けろなんてカナコもその兄妹も言うはずが無かった。それに私達はこんな風にギクシャクした関係性になるかも知れないと思っていても、相続問題で手を焼かせることをしようなんて考えたこともなかった。この祖母のことを愛しているから、いつも通りに私達を信じてきちんと話してくれたら良かったのにと、胸の内はどんどん暗くなってゆく。そうは言っても身内だからこの手の問題は発生するのであって、先生と呼ばれる専門家の方々に言わせると、もはや常識なのだろう。死別の苦しみとは死に別れただけでも相当辛いものがあるのに、その苦痛の大半はこういった手続きの中でモミクシャにされることなのだ。叔父が作成した明朝体で綴られたお便りを読みながら、(そもそも税金だってさっさと払ってしまわないと、あ、忘れてた。となって、不思議なもので忘れれば忘れるほど払いたくなくなってくるもんなあ。この書類だってめんどくさがって先延ばしにすればするほどやらなくて良い方法を探し出すんだろうなあ。これはとっとと済ませるに限るな)と一人でブツブツと頭の中で整理して、書類にサインと押印をして役場に向かい、必要な書類を揃えてすぐにポストに投函し返送した。
頭脳が妙に疲れたその週、日曜日の午前中に道の駅へ向かった。一人暮らしのカナコは、じゃがいもやにんじんが個別で買えるからといった理由で買い物は近所のスーパーマーケットで済ませていた。ある時、お隣さんに頂いた無農薬野菜のキャベツやふだん草を口にして以来、スーパーで買い物する度に明らかな違いと柔らかな瑞々しさが頭から離れないようになっていた。久しぶりに訪れた道の駅はとても賑わっていた。好きなテレビ番組で見るイタリアの市場のような雰囲気の中で袋詰めのじゃがいもを手に取り、皮を剥きやすい大きさの物を選んでみたり、スーパーでは手に入らないつるむらさきを吟味して一つづつ籠に入れてゆく作業は、清々しく何とも言えない爽快感に包まれる。とても優れた気分転換の方法を見つけた気がした。こうして恵まれたその土地の風土に包まれながら、気分の波から脱したカナコは、再び小説作りに取り掛かることにした。

ある時、物書きのアイデアが全く浮かばずに作業が全く捗らないカナコは外の空気を吸いに出ると、両手を頭の上で組んで天に向かって大きく背伸びをした。フーッと息を吐きながら組んでいた両腕を解放し、太ももの外側でバウンドすると、2週間前に耕した小さな畑が目に留まった。この家庭菜園の規模で耕運機を買うのは甚だ馬鹿馬鹿しいと思っているほど小さな菜園だったが、鍬や鋤で耕すのは中々大変だった。堆肥を入れて栄養満点の土を1週間寝かせてタネを巻いておいた。手持ち無沙汰にブラブラ歩き菜園を覗いてみると、お大根がもう芽を出している。その後に芽を出したのが春菊で、その次は小松菜だった。カナコの畑では二十日大根が20日で育ったことがない。そればかりか生育に時間のかかると思っていた人参の方が先に芽を出していたこともあった。どうしてだろうと不思議に思ったカナコは、農家の大先輩にあたるご近所さんに聞いてみた。解答はそんなものなのだよと言っていた。生まれた家の家業が農家だったことと田舎育ちも加わって、身近に感じていた野菜作りは本当に奥が深く、自分はやっぱり凡人なのだなと改めて自覚した。
カナコは先立った夫と結婚するまでは、千駄木に住んでいた。歩けばすぐに谷根千の商店街のあるとっても住みやすい場所だった。しかし、ほとんどの時間を彼のマンションのある世田谷で過ごすものだから、無駄にお家賃を払い続けていた。冬から春へと季節がゆくと、流石に衣替えをしなければいけないので、お洋服を取りに行かなきゃな〜、と考えていた。彼はもうずっと昔に飲酒運転で免許を無くしていた。原付バイクの免許は残っているので身分証にも困らないし、都内にいれば電車もタクシーもあるので大した問題にならないという。若い頃は車が大好きだったこともあり、運転にはかなりの自信を持っていた様子だった。一度だけ彼の運転を助手席で体感したことがあった。ツーシーターのスポーツカーに乗ってエンジンを掛けると、回転数を上げてギアを取った。クラッチを抜くとそれはもうミニ四駆のレースにも思える俊敏なハンドルさばきで、重力による身体に対する不快感は全く起きず、何だ今のはと瞬きをするたびに目から星が出そうなほど興奮した。走り終えた後は車を停めてしばらくボーッとしていたが、身体の中で熱く燃えるように分泌されたホルモンが駆け巡っていることがわかる。一体何をどうしているのか説明を頼んでみたが、その専門的知識は聞いてもさっぱり分からなかった。実はカナコもミッション免許を持っている。18歳になってすぐに自動車学校に通い始めたカナコは、坂道発進が大の苦手だった。周りの友達のほとんどがオートマ限定の免許を取る中、どうしてもカッコよく見えるマニュアル車の免許に憧れていた。そんな調子で免許が取れたカナコは、こんなので事故でも起こしたらと不安になった。父にそれを相談すると、これからすぐに練習しようと二人で路上に出ることにした。車校の中では踏切前の一時停止の後もスッと発進できるのに、ひとたび路上に出ると焦ってしまい信号機で止まるたびにエンストしていた。
「もー、坂道でもないのに」
とブツクサ言いながら慌てるカナコを見た父は、
「落ち着きなさい」
と慌てた声を出した。後ろで待ってる車の気配とその揺れた父の声に軽いパニックを起こし、車内で親子喧嘩が始まった。それからは父のナビで信号機のない道をできるだけ選択して自宅まで帰ったのだが、
「お父さんなんて二度と乗せてあげないから」
と、何も悪くない父にプンプンと八つ当たりした。訳のわからない言いがかりを付ける娘に父はムキになって、
「カナコはもう、オートマにしか乗っちゃダメだ」
と、手厳しい言葉を吐いて助手席のドアを荒く閉めると車から降りていった。あれから十数年が過ぎて田舎で車社会にも慣れて度胸がついたカナコは、外はまだ寒いのと雪解けでジメジメしていることもあったので、車で荷物を撮りに行こうよと彼を誘った。彼は笑いながら
「ホントかよ〜、カナコ僕の車運転できるの〜?」
などと言いながら携帯を手に取り車屋さんに電話を入れて、しばらく走っていないスポーツカーを整備と点検に出す手配をしていた。本当に大丈夫なのかと疑いの晴れない彼に、水戸黄門さながらに運転免許証をかざして、私はミッションの免許証を持っているんだと誇らしげな顔を見せた。そんなことを言うものの、カナコが今まで運転してきた車はオートマだと知っていてやはり不安を拭えない彼に、
「大丈夫だって。お父さんと一緒に練習したこともあるし、ちゃんと家まで帰り着いたから」
と言った。その後ちょっとだけ胸がズキンとした。
何年も動かしていなかった車の整備が整って、カナコはマンションの立体駐車場からゆっくりと出てきた彼のスポーツカーに乗るとエンジンを掛けた。運転席からの目線は低く、車体の低さとタイヤの大きさを、切ったハンドルで感じ取ると、(今までの車とだいぶ違うな)と思ったが、助手席に乗る彼に不安を与えまいととても慎重に運転を進めて行った。彼の自宅から環七に出るまでに上り坂が無いことはカナコも把握していた。(ここから先は運だ!)と、不安な気持ちを振り切ってハンドルを握った。
高井戸から首都高に乗り入谷で降りる。何かの本で読んだ”不安ごとの9割は取り越し苦労だ“と言った言葉は本当で何のことなく無事にカナコのマンションにたどり着き、近くのコインパーキングに車を停めて荷物を取りに行く。ちょうどお昼時だったので、荷物を積んだらすぐにマンションを出て成城のお寿司屋さんでランチして帰ろうねと話していた。駐車場から車を出そうとすると、清算するのに1400円かかった。それを見た彼は高いなあ!とブツブツ文句を付け始めた。カナコがごめんごめんと宥めながらエンジンを掛けて路上に出ると、ウッカリ車線を間違えた。仕方なく右折レーンに頭を入れようとウインカーを出して右後方を見ると、荒れた運転で近寄る車にクラクションを鳴らされた。その騒音に
「僕が話をつけてきてあげるから、君はここに乗っていなさい」
などと言い始め車を降りようとする彼の腕を掴み、
「いいからお寿司食べに行こ」
と笑って誤魔化している。そのままドアを閉めたものの、分かりやすく彼の不愉快度は増していた。
「カナコさあ、坂道発進大丈夫?」
明らかに全く都会に慣れていない怪しい運転と正面にある上り坂に、察しのいい彼は動揺するカナコをしっかり見ていた。カナコは運転を代わってもらえないこの状況に心もとない顔をしていると、彼は慰めもせずに「チッ」っと舌打ちをした。その時カナコは(少しでも気分良く過ごしてもらうベく初めてに近い都内ドライブにもめげずに、今まで一度も運転したことの無いスポーツカーを走らせ、朝からずっとピーンと肩の凝るような気遣いをして最善を尽くして来たのに舌打ちって何だよ!)と何かがプチっと切れた。
向けられた怒りの矛先は、正面の団子坂下交差点だった。その先は急な上り坂だけならともかく、電柱の工事と重なり車道はすれ違う車とギリギリの幅を保たれている。信号が青になると同時に、(もう知るか)と心の中で呟き発進した。助手席に座る彼は、不安な表情でカナコの横顔をじーっと見つめていた。次の信号は団子坂上交差点だった。そこは、急勾配な坂道の途中にある交差点で、団子坂下交差点で先頭に並んだカナコ達に、この電柱工事がなければここで停められることは無いはずである。つくづくツイてない。赤信号で止まったカナコは青信号に変わる少し前にアクセルを踏み込み、信号が変わると同時にサイドブレーキを下ろした。結構な音を立てたスポーツカーのその走りは見事なまでにスムーズだった。接触事故の危機を脱した二人は成城に立ち寄りランチでお寿司を食べると無事に自宅へ戻った。あの時車内で重苦しい沈黙に包まれたカナコは、顔には出さなかったが、内心、(怒りのパワーって凄くない?)と驚いたのであった。それからしばらく経って、カナコは近所のスーパーへ買い物に行くときにマンションの駐車場から出てゆっくり前進したまま電信柱に車をぶつけた。カナコは冷静になったところで思い出したように、父との路上練習の時に言われていたことを忘れていて本当にごめんなさいと心の中で謝罪した。助手席に乗らなければならない彼は、崖から落ちても強いボディーが特徴のオートマ車をすぐに買い替えた。
今では懐かしい夫婦喧嘩の思い出にプッと吹き出して笑っていると、幼馴染の京香からラインが入った。内容は、来月南の島でのバカンスに何を持ってゆくのかだった。カナコは旅に出る時は特別何も持たずに済ませる。そのため、機内に持ち込める大きさのキャリーバックの半分が空っぽのままということもしょっちゅうだった。京香もまたカナコのことを心配してくれる心優しき親友の一人である。みるみる痩せていく夫を看取った恐怖心は、その後のカナコの恋愛観をスッカリ変えてしまった。更に、未亡人になって間も無い頃に自宅にかかって来た電話では、夫の学生時代の友人から
「夜一人で何してるんですか?」
と言われてしまって、恐ろしくて眠れない日々を過ごしていたのである。その男は自宅の住所を教えてくれと受話器の向こうで15分も粘っていた。世の中何が起こるか全くわからないものである。それ以来、夫婦はとても素敵なものであることは間違いないけれど、亡くした夫よりも素敵な人などこの世に居る訳が無いと高を括り、恋愛や結婚に対して全く興味を失ってしまったのだった。
出発の朝京香の家に迎えに行くと、京香の夫が荷物を積みにきた。カナコは旅の前日になると決まって寝不足になる。よくある運動会の前の前の晩と同じことが起こり、毎度睡眠不足でスタートすることになる。ボーッとした頭でトランクを開けると、ご主人はとても丁寧に挨拶をしてきた。夜明け前の暗さと寝ぼけた頭での思考は冴えず、まともな挨拶も返せずに、その上荷物を入れているのは京香の父親だと勘違いしていたことに空港についてから気が付いた。飛行機を降りると、一面に広がる南国のムードに、本当にここは同じ日本なのかと二人は感激を隠せなかった。さっきまで機内で口を開けたままぐうぐうと寝ていたとは思えない。奄美大島の空港には、手配しておいたレンタカーの送迎が来ているはずだ。その車に乗り込むまでの少しの間に、強い日差しがジリジリと肩を差してくる。普段なら日焼けを避けるところだが、南の島でそれを避けるのには限界がある。そして、バカンスで焼けるのはそこまで嫌だとは思わない。レンタカーのチェックインを済ませ、先に荷物を預けてしまおうと宿に向かって車を走らせた。二人は、道路の両サイドに広がるさとうきび畑を見て、またも感激が止まらない。共感の連続する女子旅は本当に楽しい。京香によると宿泊先のホテルで様々なレジャーの予約も受け付けているそうだ。しかし、到着したホテルのフロントに立っているオジサンは、いかにもインチキ臭そうである。疑いの気持ちを持ったまま確認すると、案の定ウェブに記載されていただけで、シーカヤックもスキューバダイビングもシュノーケリングもここでは何の予約も出来なかった。密かにカナコの脳裏に(全滅)の2文字が浮かび上がり、隣で開いた口が塞がらない様子の京香に
「しょうがないよね、だってハイシーズンだもん。とりあえず、ドライブ行こ」
と誘った。再び車に乗って走り出すと、南の島の自然がすぐに二人を癒した。目の前の道端で無造作に咲くハイビスカスや、誰かの自宅の2階にぶら下がったドラゴンフルーツにも二人はイチイチ感激し、日常とはひと味もふた味も違う文化の新鮮さをしっかりと満喫している。薄い青色の綺麗な海を眺めながら走っていると繁華街の側に来ていた。もうすぐお昼時で何かランチに島の料理でも、と思ったが、この島に到着して早々に何とか商店で買い求めた、ご飯にスパムを挟み込み、海苔や薄焼き玉子で巻いたおにぎりを美味しい美味しいと絶賛しながらつまみ食いしたせいで、二人ともお腹が空いていない。即座に開いたプチミーティングにてランチは中止と決まると、京香はホテルで貰った旅のマップのような冊子を開いて、名物の黒糖焼酎の酒蔵見物に行ってみようと言った。信号待ちでカナコもその広告を見てみると、100円で好きなラベルが作れると記載されていたのでお土産にちょうど良いなと賛成した。酒蔵の工場見物は楽しいものだった。そういえばいつか酒好きの夫が
「このウイスキーは蒸留が2回だな」
などと言っていて、どういうことか説明を求めたが、聞いたところでさっぱり分からずチンプンカンプンだった。しかし、百聞は一見に如かずとはよく言ったもので、ここでカナコが長年抱えていた生きるためには大して必要のない、どうでもいい知識部門トップテンに入る謎が解けてスッキリした。しかし、お盆明けの南の島での正午過ぎに始まった工場見学は、中々の暑さである。瓶詰め、ラベル貼り、その一連の工程を丁寧に教えてくれる工場の女子社員は、鼻の上にびっしりと汗をかきながらこの暑さにもめげず、ゆっくりと二人に付き合ってくれる。この島では、どこにいても人の温もりと優しさを感じる。ところが、クーラーの効いた事務所へ戻ると、試飲を勧めてはくれるが楽しみにしていたラベル作りの説明が一向に始まらない。カナコは考えた。さっきのドライブ中の記憶をたどり、(黒糖焼酎の酒蔵なら他にもあったなあ…)と思うと、勇気を出してこの優しい女性社員に聞くことが出来なかった。そして、仕方がないので一方的に彼女を信じることにしてラベル作りの話が出てくるのをひたすら待った。その間、運転しない京香はずっと試飲を楽しんでいた。様々な種類の焼酎を飲んだところで女子社員は、
「以上で工場見学を終わります。島に沢山ある中、私どもの酒蔵を選んでいただいてありがとうございました」
と頭を下げた。残念な結果を迎えてしまったが、姿勢を正したカナコはいいえとんでもないですなどと言いながら、同じように頭を下げた。
二人は車に乗って走り出すと、チェックインには少し早いが宿に車を置いて目の前のビーチで時間を潰すことにした。悔いの残っているカナコは真相が気になって仕方のない。そこでさっきの冊子を手に取るとラベル作りのページを開いた。やはり、さっきの酒蔵の広告に載っている。これから先の人生で、同じ酒蔵の工場見物に二度と行く機会は無かろうと、あの時あの可愛らしい女子社員に勇気を出して聞かなかったことをカナコは深く後悔した。先に車を降りた京香が、預けた荷物の中から水着を取り出そうとフロントに向かうと、朝とは違う女性が居た。フロントの女性はチェックインには少し早いけど、掃除も済んでいるのでどうぞと快く鍵を渡してくれた。部屋に入った二人は、またもその絶景に感動していた。オーシャンビューのこの部屋は、ベランダからそのまま海に向かうことが出来てその上このベランダにはシャワーが着いている。海との距離が一段と近い部屋を押さえてくれた京香にカナコは全力で感謝を伝えると、照れながら満更でもないらしく嬉しそうな顔を見せた。朝から興奮しっぱなしの30代前半BBA二人組は、もう若い頃と同じ程のスタミナは持ち合わせていない。運よく予定より早く部屋に入ることも出来たし、一度ひと休みしてから海に入ろうと各自荷物を使いやすい場所に置くと、ベッドに転がって仮眠を取った。15分くらい経ったところで、寝るなんてもったいないと思い直し、やっぱり水着に着替えて海に入ろうと出掛けていった。
海に入った二人は、泳ぎながら海水の味について話していた。グルタミン酸なの?とか、サンゴの味がこの味なの?とか、塩辛くなくて美味しいと言って喜んでいる。遠泳が得意な京香にカナコも着いていこうと頑張ったが、沖から海辺まで帰って来る体力に自信が持てず、先に浅瀬に戻って遊んでいた。京香が戻ると、もう2時間海の中で遊んでいたことに驚いて、ホームセンターに行って浮き輪のようなレジャーグッズを手に入れたいねと話し、酒蔵で教えてもらった美味しい居酒屋に行くことに決めた。賑わった居酒屋に到着すると、この島の料理には鹿児島と沖縄をミックスしたような郷土料理が沢山あった。どれも美味しい。少し多めに料理を注文すると、残ったらそれをオリに詰めて持ち帰り、ホテルの部屋で続きをやることにしていた。ジョッキのビールをスグに飲み干した京香とカナコは黒糖焼酎の水割りを頼んでいたのだが、どうも酒の割合がとても濃い。最後の方の注文では、頼んでいた水割りにお水が入っていたのか疑問なほどだった。こんな調子で8杯の焼酎を飲んだところで代行を呼んでもらい、会計を済ませた。代行が到着すると、酔っ払いのカナコはフラフラと後部座席に乗り込んだ。京香は助手席に座った。代行の運転手がレンタカーのエンジンを掛けてサイドブレーキを下すと、爽やかに
「お願いしまーす」
と声を掛けるものだから、京香とカナコもとっさに、
「お願いしまーす」
と声が揃った。走り出して間も無く、観光で来たのかと運転手が聞いてくる。完全に出来上がったカナコは、返事を返すのも億劫で全く使い物にならないと言った風だ。京香はどんな時も神対応で丁寧に会話を楽しみながら話し続けていた。ここからホテルまでは15分ほどだ。せっかく来たのにマリンスポーツもレジャーも予約が取れないと嘆いた京香に、人のいい運転手は何か他の案を探している。
「運転手さん、明日何か予定あるんですか?」
間髪入れない京香の質問に、
「僕は代行なんで、昼は休みです」
と素直に話す。
「ホントに〜?泳ぎは出来ますー?」
「ええもちろん。島の人間で、泳げない人は、あまりいません」
「もしー、もしですよ、お兄さんが良かったら、私たちと一緒に泳ぎませんか?本当はシュノーケリングがやりたかったんだけどぉ〜……」
暗闇の中でも京香の無念な思いは隠しきれない。
「じゃあ、シュノーケリングをやりましょう」
「えっ?」
酔って寝ていたはずのカナコと京香の声がハモった。運転手は、この辺りの海なら、どこでもサンゴや綺麗な魚たちが居るから同じだと話す。地元民ならわざわざ参加費を払うようなことはしないとも言う。それもそうだと納得した。カナコが後ろでヤッターと言っていると、京香は運転手のやっくんに話を続けた。
「あのね、後ろで酔ってる子フリーなんだけど、誰か独身の男の人って居ないですよね?」
「いっぱい居ます〜」
「え〜。うそー!じゃあ、シュノーケリングに連れて来れたりします〜?」
「それは、無理です。昼間は、みんな、仕事があるから、僕だけしか来られません」
「それもそうだよね〜。それじゃあ、明日連絡するから、やっくんの連絡先教えてくださ〜い」
リズミカルな会話の中で、京香は居酒屋から出てたったの3分で連絡先を聞いていた。実に見事である。それにしても、やっくんの話す奄美大島の独特なイントネーションは、それだけで人を和ませる力がある。
ホテルに着いた二人は、居酒屋で持ち帰ったたこ焼きとポテトフライと枝豆をアテに飲むつもりでいたけれど、さすがにたったの数時間の間に沢山飲み過ぎていた。明日のことを考えてお風呂を済ませようと話しながらデッキに出ると、夜空に瞬く星の光に酔の力も借りてうっとりと見惚れていた。ここで空に向かって箒ではたくとポロポロと降ってきそうなほどである。夜の奄美の外気は暑すぎず、寒くもなく、海がこんなに近いのにベタつきもさほど気にならず磯臭さもない。完璧なリゾート地だ。その場で潮騒を聞きながらこのまま何時間でも居られそうだとカナコは言う。
「カナコ先にお風呂入る?楽な方でいいよ、酔ってるしー」
酔ったカナコを気遣う優しい京香にありがとーと返事をすると、カナコは先にシャワーを浴びた。そして、京香にお先にと伝えに行くとデッキチェアに寝そべり、美しい星に感極まり泣いていた。京香が風呂に向かい、代わりにデッキチェアに腰を下ろしたカナコは再度立ち上がり、酔い覚ましの水を取りに部屋に入った。棚の中からグラスを取ろうとするとアイスペールが目に留まり、そのまま氷を取りに部屋を出た。氷を手に入れ部屋に戻ると、何の迷いもなく昼間の工場見学で行った酒蔵で手に入れた焼酎の瓶とグラスを右手に抱え、左腕におつまみの入った袋をぶら下げ、手にこんもりと氷の入ったアイスペールを持ってデッキに出た。
お風呂から上がった京香が遮光カーテンを開けると、部屋から漏れる灯りが眩しく感じた。
「えっ?嘘、また飲んでるの?」
「うん〜、奄美のポテトは美味しいね〜」
「はっ?ポテトはどこで食べても同じじゃん……てゆうか、歯磨きしたんじゃないの?」
「あはは〜、そうだね〜、また磨くからいい〜」
完全に出来上がったカナコはデッキチェアから起き上がることを拒み、今夜はここで寝ると言い始めた。(確かにここで見る星の美しさと波の音はいつまでも眺めて聞いていたいよなあ)と、つい納得した京香は、
「ちゃんと頃合い見て部屋に入るんだよ」
と言って窓を閉めた。京香の心配をよそにすっかり寝ていたカナコは京香の声で目が覚めた。
「もうカナコー。そんなとこで寝たらダメだってば〜。そろそろ部屋に入んなよ〜」
「おお……」
「ほら。そうやって外で寝ちゃって朝気温が上がって熱中症になるってテレビでやってたよー?年寄りだったら死んじゃうんだから〜。ほら早くっ!」
「ああ……、すいません……」
ヨタヨタと起き上がり、溶けて水の溜まっているアイスペールや焼酎を抱えて部屋に入ると、デッキに忘れたままのたこ焼きを京香が回収した。
「もう寝なー」
「うんー。飲み過ぎたあ。もうダメだあー」
そう言いながら、カナコはベッドにドサーッと横たわる。京香はもうテレビ消すよと言い、眠る姿勢を整えた。
翌朝起きた二人は、朝食を食べに向かった。出来ることならご飯を抜いて眠っていたいところではあったが、朝食の後は唯一予約の取れたレジャーのカヌーを漕いでマングローブの森に行く予定になっている。昨日の酒は二人にジャブのような攻撃を仕掛けてくる。自称二日酔いのプロである京香とカナコは、定期的に襲う具合の悪さを各々上手に交わしつつ、なんだかんだ言いながら南の島の持つパワーを味方に今朝も元気だ。そして、京香はビュッフェスタイルの朝取れサラダにカタツムリが潜んでいるのを見て、
「並外れの朝取れ感を出している」
と呟き、何事もなかったように一度手に取ったサラダボウルをプレートに戻している。それを見ていたカナコは席に座るともずくのスープを飲みながら京香の落ち着き払った態度にプッと吹き出した。
「なに?」
笑いながら問う京香に
「私たち、オッサンじゃん」
と言うと、
「しょうがないよね。たとえここに男が居ても『キャー、虫ーっ』ってはならないよね、今更」
と話す教科の言葉をしっかり頭の中で思案したカナコは、しみじみと
「確かに」
と続けた。朝食も終えたしそろそろ行こうと、見た目とは裏腹なメンタルおじさんの二人は車に乗って出発した。
今朝カナコは京香より早起きしてお洗濯をしようと外へ出ていた。そこで話した宿泊客によると、台風の多いこの島でお天気に恵まれることはとっても珍しいことなんだと話していた。それを京香に話すとへーそうなんだ、それは知らなかったと喜んでいる。走るレンタカーのラジオから流れる若大将の音楽は、どれも南の島にピッタリとハマっている。カヌーの森に着く頃に、昨晩のやっくんから電話が入った。電話に出た京香は、今日のスケジュールを話している。親切な彼は二人が泊まっているホテルまで迎えに来てくれるそうだ。電話を切った後、午前中はカヌーで遊んで午後はシュノーケリング出来るなんて夢が全部叶ったねとはしゃいだ。
晴天に恵まれ、カヌーに乗ってパドルを漕いでいるうちに、昨日のお酒は抜けていた。南の島ではどんな遊びもとても楽しい。お腹がすいたと言う感覚が全くないまま、帰り道にランチで郷土料理の鶏飯を食べた。シュノーケルセットをホームセンターで仕入れると、待ち合わせの時間が迫っているのでホテルへ急いだ。その彼と合流し、水着を持って土盛海岸へ向かった。途中、今夜の晩は何食べるのかと聞かれ、実はそれも予約が取れなくて困ってたんだと説明すると、もしよければ友達と四人で食事しませんかと言って来た。京香とカナコは彼のこのお誘いのおかげで全ての悩みが一斉に解決した。土盛海岸に着くと、やっくんはシュノーケルを使うのが初めての京香に、空気の抜き方や海水の抜き方を教えた。3人で少し練習して海に入った。
水に顔をつけると海の底までが透き通って見える。そこにはリトルマーメイドの世界が広がっている。サンドロ・ボッティチェッリのビーナスの誕生のような大きな貝に大きな魚、色とりどりの美しい熱帯魚に囲まれた。カナコが美しさに驚き顔を上げると、京香も同時に顔を上げた。
「ねぇ、凄いんだけど!」
思わず京香が吐露すると、カナコも目をキラキラさせて、
「ホントだ!ねぇ、もっと向こうまで行ってみようよ」
と、二人は乙女のように沖まで足に付けたヒレをパタパタさせた。そんな中やっくんはバラバラに泳ぎ回る二人が見えるように、ちょうど中間地点で見守っている。サンゴが沢山ある場所を泳いでいると、このサンゴたちの呼吸する音が聞こえた。そうしているうちに気が付くと、もう3時間も過ぎていた。3人は備え付けの水道で軽く砂を落とすと、着替えのために一度解散し、ホテルに戻った。部屋でシャワー浴びた京香とカナコは着替えながらやっくんに心から感謝した。偶然彼が代行で迎えに来てくれたおかげで、夏を満喫したいとゆう二人の願いが全て叶ったのだった。準備して再度合流すると、地元民の彼はどこに行くにもついでにガイドをしてくれる。そして、奄美大島の美しい自然と暖かい人達に沢山パワーをもらっているようだと話す京香とカナコに、島を好きだと言ってもらえることが一番嬉しいと彼は言う。彼が探してくれた島料理を食べさせてくれるお店を目指して、奄美の繁華街に向かう途中でやっくんは後輩のヒロシを拾った。車に乗り込んだヒロシは明るくて真面目な男ではあるが、緊張のせいか妙なテンションである。人見知りだと言っておきながら、
「自分はMでもSでも大丈夫です」
と突然性癖を告白した。
「聞いてない」
と、京香の間髪入れないツッコミに気分を良くしたヒロシは、ひたすらボケを出し続けている。やっくんが予約した店に到着すると、4人は改めて自己紹介し、島料理をアテに飲み会が始まった。ヒロシがボケると京香がツッコむ。カナコはフワフワと酔い始め、やっくんは一人称をヤスノリと言い始めた。都会っぽい旅人の二人は、島に来たら一度は食べておくべき郷土料理を全て制覇することが出来て、純朴な島人の二人に心から感謝した。全員一致で2軒目にハシゴすることが決まると、4人は揃って外を歩き始めた。
そこに見えている派手なゲイバーの看板に吸い寄せられるようにこの店にで2次会をすることが決まる。店の扉を開けると、中はとても賑わっていた。酔いっぱりの四人はしばしゲイママのショーを眺めて楽しんだ。ショーが終わるとママが同席した。京香とママが話し込んでいる最中、やっくんは客の歌うカラオケに合わせて太鼓を叩いていた。カナコは昼間のカヌーで日焼け止めを塗り忘れて、太ももに軽い火傷を負っていた。酒に酔っていたこともあり、隣に座るヒロシの膝に両脚を乗せると、着ているロングワンピの裾をスルスルとめくり、真っ赤に日焼けした太ももを見せながら、カヌーで日焼けしたことを説明している。それからしばらく仲良く話していたのだが、ヒロシは突然京香を呼び出し外へ連れて出ていった。やっくんは太鼓を叩き続け、カナコはママと話している。二人が戻ると、ヒロシはカナコに散歩に行こうと誘っている。足元のおぼつかないカナコがカバンを取って、テクテクとヒロシについて行く。それを見たゲイママは走って店の外まで追いかけてきた。心配そうな顔をしてカナコに、
「ホントにいいの?」
と言っていたが、カナコは
「だいじょーぶー」
と言いながらママにまたねとハグをした。道路に出るとヒロシが二人で話したいと言うので、とりあえず公園に向かって歩いた。公園でベンチに座り、彼の話を聞く体制に入ったが、聞き取れない言葉で何かをムニャムニャと言った後、やっぱりここではダメだと言う。酔いながら歩き回ると、徐々に奄美の暑さに参ってきた。どうゆう訳かヒロシは今夜は持ち合わせがないと言い始めるが、公園ではなくもっと静かな場所に行きたいとおねだりするような顔をしている。余りの暑さにウダウダとした気分で(シャワーでさっぱりしたいなあ)と考えたカナコは、
「お金の心配はいいから、どうしたらいいの?」
と問うと、彼はどこか部屋に入りたいと言う。だんだん疲れがピークに近づくカナコは、彼が入りたがるビジネスホテルを巡りに巡ったが、このハイシーズンにどこにも空き部屋は無かった。たまらずカナコは聞いた。
「奄美ってラブホ無いの?」
ヒロシはあるよと言いながらそこで良いのと驚いている。カナコは内心(じゃあ、どこなら良いんだよ)と思いながら、せっかくの旅の時間を無駄に使いたく無いので、さっさとタクシーを拾った。さっきまでフワフワしていたカナコが見せる行動力に驚きを隠せない様子のヒロシを横目に、運転手に行き先を伝えるように促した。究極に酔っ払っている上に、この辺りの土地勘なんてさっぱり持っていないが、タクシーに乗れば大丈夫だろうとクーラーの効いた車内で涼みながらラブホに向かった。カナコがタク代を精算し車からとっとと降りると、さっさと部屋に入って行った。ゲイバーを出てここへ来るまで2時間ほど経過していて喉がカラカラだったので、何か飲もうと部屋の中を探していると、ヒロシが外の自販機へお茶を買いに行った。ソファーに座って待っていると、カナコは(明日帰るのに、日中の観光が二日酔いで潰れたら嫌だし、お風呂に入って寝たいなあ)とぼんやりしていた。酔いも眠気も限界で、カナコはフラフラとベッドサイドに歩き、着ていたブラトップのワンピースを脱いだ。パンツ一丁になったところでヒロシが部屋に戻ってきた。
「あ、おかえり〜」
と、着ていたワンピースを右手で肩にぶら下げて、左手を腰にかけ当たり前のように挨拶するカナコにヒロシは動揺を隠せない。けれどもカナコにしてみれば夫を亡くして以来一人暮らしなので、誰にも構う必要がないこともあり、このようにして着替えることは当たり前のことだった。それに加えて酔っていてヒロシの存在はもはや空気と化していた。そんなヒロシは部屋の入り口に立っている衝立にしがみつき、ミラクルボディの裸体を前に見て良いのか良くないのか判断のつかないままチラ見を繰り返しながら言う。
「カナコちゃん!そんな格好で何してるの?俺、男だから……」
「お風呂どうする?」
「…家で入ってきた」
そうかと頷いて歩き回って疲れたカナコは、さすがに汗を流したいのでシャワーを浴びた。シャワーでさっぱりした後に爽快な気持ちでいると、またも一人だと勘違いし、バスタオルも巻かずに全裸で髪を拭きながら風呂場から出てきた。そして、ソファーに座るヒロシを見て、(あ、人が居た!)と恥ずかしくなってフェイスタオルで体の前面を隠した。プッと吹き出しながらヒロシは言った。
「今更……、カナコちゃん、さっきパンツ一丁だったよ」
と、照れながらヒロシは笑っている。そのまま二人はベットに向かって一直線だった。数年ぶりの”フンフン”が終わり時計を見ると、午前3時半過ぎだった。とりあえず仮眠を取ろうと2時間だけ眠った。
先に目を覚ましたカナコは、京香からのラインを開くと、今帰ったよー。鍵開けて先に寝てるからねーとメッセージが入っている。眠さをこらえてタクシーを呼び、朝から仕事のあるヒロシを自宅に送り届けた。京香が鍵を開けていてくれているので帰って寝ようと思っていたが、どうしても寝付けなかった。完全なる二日酔いの二人は、部屋で会話することもままならず、買っておいたポカリスエットをチビチビ飲みながらうっすらと入る浅い眠りを繰り返した。それから、ホテルの人に頼んでチェックアウトを最大限まで延長させてもらい、正午ギリギリにチェックアウトした。
車を出して観光スポットに向かったものの、二人は若い頃と同じようにはいかないねと漏らしながら、老いをひしと受け止めるしか無かった。観光スポットに着いたけれど、観光する余力はもう残っておらず、そこの駐車場に車を停めてシートを倒し寝ているうちにフライトの時間が近付いた。レンタカーを返す途中の車内で、
「ねー京香〜。わたし昨日のゲイバー辺りから記憶ないんだよね〜」
と告げた。
「ちょっと。ヒロシが可哀想じゃない」
と言った京香に覚えている場面を話して聞かせた。車を返し、飛行機に乗り状況を理解したカナコは機内でようやく深い眠りについた。
旅から帰って2週間、カナコはヒロシと毎晩連絡を取っていた。彼の話を聞いていると、前妻との間に3人の子どもがいるそうだ。そのうちの1人を引き取ってご両親と一緒に娘を育てている。彼はカナコに奄美に嫁に来てくれと言っていた。カナコはある晩、地元の10歳年上の先輩ルミさんに電話した。久しぶりに訪れたロマンスなのだと浮かれたカナコの話を彼女は笑って聞いていたが、とても冷静に
「カナコちゃん、その人のこと好きじゃないんだと思うよ」
と切り出した。どう言うことなのか聞いてみると、ひとつだけルミさんはカナコに聞いた。
「その人といつでも逢いたいと思う?」
その問いにカナコはう〜んと唸りながら答えられずにいる。要するに数年ぶりの”フンフン”の効果は絶大で、カナコはすっかり情が移っていたのだった。これはちょっと冷静になる必要があると感じたので、ヒロシのことを思い出しながらルミさんとの電話を切って、ひとり状況の整理をしてみた。
彼には200万円の借金があった。一年前に小学校からの友達に誘われ、人生初のパチンコデビューを果たした。それをきっかけに仕事帰りは毎日パチンコ店に通うようになり、ボーナスで返せば良いやと思っているうちにあっという間に200万まで膨らんでしまったそうだった。そう言えば週末、カナコが友達と飲んでいるとヒロシから電話があった。合間を見て折り返すと、パチンコで1万円負けたんだと沈んでいた。この男は、カナコが友達と飲みに行くと伝えてあるにもかかわらず、そんなことお構いなしに電話をかけて慰めてもらおうとしている、なんともだらしない男だった。それからも毎日ヒロシからの連絡が来ていたが、話すのは愚痴ばかりで、悪いのはいつでも誰かであって自分じゃないと言った口振りに、3週間と経たないうちににカナコは盲目から目が覚めた。
旅から帰ってきて、以前にも増して執筆は捗らなかった。その週の日曜日、カナコは信じられないほどの腹痛と高熱に襲われた。眠ることさえ儘ならないほどお腹を下しトイレとベッドの往復をし、ぐったりしたまま朝が来るのを待って、町医者に行って診察してもらった。それから3日間激痛に耐えながら毎日点滴に通った。この胃腸炎をきっかけにヒロシとの距離を置くことにすると、体の調子はみるみる回復し始めた。ヒロシのおかげで気付いたことは、病気の時に話し相手が居ることがとてもありがたいことだとゆう当たり前のことだった。身に沁みるとはこのことかとも思った。独り身になって以来、丸一日誰とも話さない日も多々あった。けれど、やりたいことをほったらかして暇潰しに誰かと話すのは何か疲れるばかりでもあった。まだ独身の頃のOL時代に社員のみんなが出払っていて、オフィスで一日中ひとりで過ごし、家に帰ってもまたひとりで過ごしたこともあった。カナコは腕を組み、うーんと声に出してしっかり考えた結果、これを機にアバンチュールは辞めにして、日常に戻ることにした。
その昔、悲しみに暮れ、自分ひとりのために作る手料理に嫌気が差していたころ、凝り性のカナコがハマった厳しめの糖質制限は、いつの間にかカナコにタンパク質を避けるよう脳内から指令を出していた。大好物のご飯とパンを諦めて、その代わりに食べる肉や魚に飽き飽きしていたのだ。あの腹痛から回復して、再び始めた気分転換のウォーキングは、カナコの心身の健康を着実に取り戻してゆく。そして、日々着々と体内の脂肪と筋肉を消費し続けた。ところが、どうも始めよりも持久力が落ちている。更に、有酸素運動のもたらすリラックス効果で信じられないほどの眠気と戦い、カナコは(睡魔に手ぶらで戦っても勝てない)と思うと、すぐにベッドに転がって仮眠を取った。たまに訪れる睡魔ならともかく、このところ週に2、3日のペースで目を開けていられないほどの強い眠気に加え、身体のだるさがカナコを襲う。そして、仮眠から目覚めてもスッキリするどころか、肌掛け布団をズルズルと引っ張り出して本格的な眠りの体勢を取って二度寝する始末である。目が覚めると自己嫌悪に陥り、(これじゃあ私は、ただの怠惰な小説家かぶれの無職じゃないか…しっかり放蕩までしてしまったし…)と肩を落とすのである。しかし、これは単にバカンスで残した睡眠負債を返済している過程の一部だということを、カナコは知らずに過ごしていた。そんな真面目すぎるがゆえにストイックになりがちなカナコの性格は、理想的な食事といわれる一汁三菜を目指し、ひじきや納豆に冷奴、ごぼうのサラダにきんぴら、めかぶにもずくなどの副菜から三種類、それを一日に三度食べ続けて、常にお腹が一杯の状態過ごしていた。必要と言われている栄養素を摂り続けて腹八分目とは、一体どういうことなのか不思議でたまらなかった。そしてまた両腕を組んで、う〜んと考えると、ここまで手の込んだ料理を日常的に摂り続けるのは難しく、そもそもこんな量を食べないだろうと気がつくのである。
ある日、カナコは毎朝の日課でSNSをチェックしていると、ある人が食事の写真を載せていた。そこには、[僕は食べたいものを食べる。強いて言えばタンパク質の量に気を付けている]と書いていた。寝起きで頭の回転もそれほど働かないカナコは、タンパク質について検索した。偏った食生活が腸内環境を見出してしまったことを反省し、しっかり野菜を取り入れてもう一度整えようと考え直し、再度食生活を見直すきっかけになった。カナコの得意技は強い忍耐力である。それと共に凝り性が重なると、悪く言えばやり過ぎなのである。理想の食事を追いかけすぎて、主菜の存在を忘れていた。それに気づいた瞬間は、もう目から鱗としか言いようがなかった。そもそも、ヨシエや母が作る残り物野菜や油揚げやキノコを使った味噌汁を真似ていれば、大変な思いをして副菜作りに時間を掛けなくても栄養は取れてしまうのである。
翌朝は目覚めのお白湯を、飲みたかった豆乳に変えてみた。いつものように日課のトイレに向かうとすーちゃんとさーちゃんが付いてくる。生後5ヶ月目に入ったさーちゃんは、すーちゃんに遊んでもらおうと必死であるが、すーちゃんは抱っこしてもらおうと便座に座るカナコの太ももを狙っている。じゃれ合う二匹の猫を横目に、カナコは用を足す。いつもは長い間ここに座っているのだが、最悪だった腸内環境もそこそこ落ち着いていて、長居する理由がなくなった。ペーパーを手に巻き取っていると、すーちゃんがジャンプして太ももに乗ってきた。いつもと同じように愛らしい目つきで甘えても、今日は少し撫でてもらっただけで降ろされてしまった。それからいつものウォーキングに行った。今朝は帰って朝食を取った後もそれほど眠たくならなかった。昼食や休憩を挟みながら、夕方まで順調に筆を進めた。ところが、翌日は何か足が思うように上がらずなんとか1時間歩き終えたが、ストレッチでも筋肉の伸びが固かった。朝食を済ませ、ハッと気がつくと1時間以上も居眠りをしていた。昼食後は頭がぼんやりとして、パソコンの前に座る気が起きない。三日目の朝はもうウォーキングも執筆も休養日とした。一体どうしてこんなに身体の動きが悪いのかと調べてみると、カナコは自分の問題に気が付いた。
ある日、好んで飲んでいたお白湯が妙に喉を通らない時に、冷蔵庫にある柑橘系のジュースが目に留まった。その瞬間、美味しそうだと思って身体が欲しているのに、カロリーを気にして我慢した。カナコは身体が欲しがっているものを、どういうわけか積極的に拒んでいた。いつかウェブサイトで見た糖の取りすぎは便秘に繋がるといった記事を鵜呑みにして、それを恐れてのことだったが、それはカナコの体内でビタミン不足といった二次災害を引き起こした。アミノ酸であるタンパク質を拒み、ビタミン豊富なフルーツジュースを拒み、それでも趣味のウォーキングを欠かさずに過ごせば、内臓は懸命に処理を進め、当然頭もボーッとして、身体が怠くなるのは当然のことなのだ。試しに、冷蔵庫を開けてグレープフルーツジュースをグラスに移して飲んでみると、苦味は全く感じなかった。とても美味しく爽やかなジュースを飲み終えると、(つくづく自分が嫌になる)としばし自責の念に駆られながら過ごしていた。すると、(そもそも今年はファンキーに生きると決めていたことだし、小説なんざ四苦八苦しながら作るものだから達成感があるんだ)と、脱稿した時の快感を思い出した。この瞬間、ここ最近疎遠になっていた前向きな閃きに、カナコはビタミンの力を思い知ったのである。
今朝のウォーキングはいつもより大股で歩き、40分以内に終わるようにメニューを変えた。そして、朝食はもち麦ご飯で玉子ご飯を作り、野菜と油揚げのお味噌汁にした。副菜はレンコンのきんぴらとヨーグルトにきなこと蜂蜜をかけておいた。腹8分目の朝食は気持ちも身体も軽くしてくれる。あの時、夜も寝られないほどの下痢と腹痛を起こした胃腸炎の猛威を経験して以来、カナコに便秘への恐怖心が植え付けられた。何はともあれ、夫を失い体調不良を繰り返していたけれど、様々な命の恩恵を預かって不摂生を正し、カナコは数年ぶりに心身の健康を取り戻したのである。そして、これは毎朝の習慣となってカナコの夢への挑戦の背中を押したのである。

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