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平凡な暮らしに潜む影

さゆりの自宅のお隣さんは、窓も網戸もガラガラっ、ピシャん!と閉めている。度々さゆりはこの老婆はどうして扉をそっと閉めることが出来ないのだろうかと思っている。老婆はいつも、紫色のよれたワンピースの裾から破れたシミーズをはみ出している。太めの身体に長靴を履いてドスっドスっと土を踏む音を立てながら、あーーーキツイ、あーーキツいと大きな声を出して庭の生い茂った雑草をむしりとっている。まだ越したばかりの頃に引っ越しのあいさつは済ませたが、それ以上に関わることは出来るだけしたくない。ある日、夫が仕事から帰宅して洗面台で手を洗っていると、大きな声で”隣の奥さんはいつも宇宙人”と話していたと聞いた。それを聞いたさゆりの脳内ではストラップのぶら下がったガラケーを耳に当てている老婆の姿が目に浮かぶ。そして、いつもと言うのが引っ掛かる。なぜならさゆりはこの家に後妻として来たからだった。分かりやすいマウントにさゆりの本心は、どっちが宇宙人なの?と思っている。老婆の住む家に挨拶へ伺った際には、
「ワタクシどもは働いたことがございませんの。ボランティアで子どもたちに弓を教えております・・・」
とムニャムニャ何かを言っていた。老婆の話す、働いたことがないといった発言に、もう他の情報が入って来る余地はなく、相槌を打つさゆりには笑顔の裏で(収入がないと言うのはナマポの人間だろうか)といった思考が流れていた。だって、相手は日焼け止めすら塗っていないし、恐らく何十年もお化粧と無縁だろう。更に破れた服を着て、頻繁にこの辺りをウロウロとしているのだ。経済的に苦しい状況にあるのだろうか?とも取れる。なんとも騒々しいお隣さんだったがさゆりにははっきり言ってどうでも良かった。小競り合いする時間と労力がもったいないからだ。そんなわけで、用事があれば勝手に出向いて来るだろうとそのまま放っておくことにした。
土曜日の朝、いつものようにさゆりが太一を仕事に送り出すとお弁当の支度で使ったキッチンのあと片付けをした。我が家の小次郎と名付けたルンバが掃除を始める。洗濯はいつも太一がやってくれるが、今日はさゆりに任せてある。とりあえず洗濯機を回しておく。寝室へ篭って大好きな朝寝をするための準備は万端だ。寝室に入るとペットの猫が一緒に入りたいと扉をシャカシャカしてくるが、ベットで一緒には寝ない。ここで分厚い方のカーテンを開いてレースカーテン一枚にして眠るのがポイントなんだ。だいたい週末はいつも8時半頃にこうして朝の昼寝に入る。少し肌寒いコスモスが満開に咲く季節は、軽く凍えながら羽毛布団の中で背中を丸めて縮んでいる。少しづつ身体があったかくなって来ると、硬直状態にある筋肉が徐々に和らいでくる。微睡んでみたり眠っていたりを繰り返しているとお顔がポカポカとしてきた。冷えていた身体は芯から温まっている。9時半になる頃が一番気持ちいい瞬間だ。まさに極楽。もう少し寝るか起き上がるかいつも悩んでしまう贅沢な至福のときである。この時点で満足できない時でも、10時までダラダラ出来たら、自然とグーンと背伸びしてさゆりの充電が完了する。ハッピーな目覚めを迎えることが出来るのだ。そしてうっかり独り言を口に出している。
「朝寝坊って最高だな」
平日の疲れはまだ取れていないが、さゆりは朝寝坊のおかげで喜びに満ちている。少し浮かれた気持ちで脱水が終了したまま待機していたお洗濯物をカゴに移す。カゴを持ち縁側に歩いてそれを置くと、すぐに靴下を手に持てるだけまとめて持ってぶんっ!っと振ってシワを伸ばし、ついでに繊維の隅々に酸素を送っておく。こうすることで除菌率も上がるだろうと踏んでいる。さゆりお得意のやらないよりはマシ精神だ。手慣れた手つきでさっさと干し終えると、次は買い物リストのチェックに入る。平日の疲れがピークになると、書き忘れが増えるから冷蔵庫を空けて最終チェックをするのだ。
「納豆の粒とひきわりが2個、トマトとミニトマト・・・」
一人で居るのについ声に出てしまうのは一人暮らしが長かったこともあるのだろう。それから、毎日猫に話しかけたりしてしまうタチなので、何かを思った時に口に出してしまうことに大した違和感は起きなかった。午前中に買い物を済ませ、お昼は適当に済ませることがほとんどだが、密かにカップ麺や袋麺が食べたいといつも思っている。さゆりに中でペヤングとうまかっちゃんとサッポロ一番みそラーメンがトップ3を占めているが、今日はジャンクフードはやめておこうと自制して買い物リストから外した。車に乗って近所のスーパーとドラックストアで買い物を済ませて帰宅した。壁掛けの時計が指している時刻は11時半だ。お肉やお魚やお野菜たちを冷蔵庫にしまうと、すぐに昼食の準備をした。
さゆりはアカモクという海藻を実家に帰ったときに母から持たされていた。母はたまごご飯にすると美味しいよと言っていたが、さゆりは仕事で月に2回も検体の提出を義務付けられているので、生卵や牡蠣といったものに加え、生のお肉も食べられなかった。食べることと料理が趣味なだけあってとても残念なことだけれど、この職業は2年間だけ続けると初めから決めていたので、楽しみは先送りにして取っておくことにしようといった大義名分を持ち寄って受け流している。2年というのは、調理師免許の受験資格に必要な経験年数である。それでも、本当はどんな味か食べてみたいけれど、冒険はしない。自分の名前を下の名前で呼ぶリョーコという、太り気味のいい子ぶった悪い先輩に「検体を提出したその日ならバレないよ」と唆されたが、さゆりはその手には乗らないのだ。そんなわけで、今回はお味噌汁の中にアカモクを入れて食べることにした。それから目玉焼きを焼いてサラダを添えた。パッと見はただのモーニングプレートに見えるが、さゆりの朝食はいつもハチミツをかけたヨーグルトやフルーツと、それにコーヒーだ。さゆりからしたら、この普通の朝ごはんを昼食で摂れることはもはやハッピーなご馳走なのである。食べ進めているうちにちょっと足りないなと、ひきわり納豆を追加する。
「あ〜、美味しかったぁ」
5分ほどダイニングテーブルでぼんやりすると、いつものようにコーヒーを淹れに行った。最近ハマっているハワイのコナコーヒーが好きになったのは、さゆりの人生の恩人千秋ママに教わってからだった。しかし、お気に入りのコーヒー屋さんは、コロナ渦中でハワイの店を畳んでしまった。とりあえずAmazonで買ったコナコーヒーは香りも味もイマイチだが、買ってしまった手前、捨てるのはもったいないので、アメリカンのように薄めに淹れて飲んでいる。因みに千秋ママとさゆりが好きなブランドは、ハワイアンアイルズのバニラマカダミアコーヒーだ。今じゃ幻となって残念な結果になってしまったが、無いものを欲しがってもしょうがないので、二人の美味しくホッコリした良い思い出の味として心に留めている。
昼食を終えたらちょっとだけYouTubeを付けてみた。さゆりは軽バンで車中泊生活をしている若いカップルの動画の更新をいつも楽しみにしている。日本中の長閑な自然と美味しいグルメと魚釣りが楽しめる。さゆりは、夫の太一とキャンプや登山を含めて、自然をフィールドに遊びに行くのが趣味だったこともあり、車中泊で作る美味しそうなご飯を見て、今度やってみようと思ったりしている。30分ほどで終わった動画で俄か旅人になれたことに満足していると、眠たくなってきた。まぶたの感覚がムズムズとして視界は狭くなり閉じてきてしまっているので、アレクサにテレビを消してもらい、このままリビングのソファーで昼寝をすることにした。
しばらくしてぼんやりしながら目を覚まし、壁にかかった時計を見ると15時半になっている。そろそろお洗濯物を取り込んでお夕飯の支度をしないと太一が帰ってきてしまう。今夜のメインメニューはアジフライにしている。お魚屋さんにお願いして開いてもらっているので、下味を付けたら衣を付けて揚げれば良いので簡単だ。なんだかんだとあっという間にひとり時間は終わってしまうが、1週間分の疲れはずいぶんと回復してきた。更に休日はもうあと1日日曜日も残っている。こうして週末を過ごすと、月曜日を朗らかに迎えられる。

今週も、いつものように月曜日の朝が来た。さゆりの朝は早い。最近は健康診断を控えていることもあって、いつもより1時間早く起きている。親友から結婚のお祝いでもらったネイビーブルーとベージュのマグカップにお白湯を注いで飲んだら、今度はその手にアイフォンを持ち、まだぼんやりとした頭が冴えるまでソファーに座って歯磨きをする。シャカシャカと磨いているうちに、トイレに行きたくなってくる。全く健康的な朝である。スッキリしたその後はプロテインを飲んで筋トレをやる。初めの方こそウォー!と呻き声をあげながらやっていたが、今では軽く余裕を持ってトレーニングをしている。やり過ぎると仕事に差し支えるのでバリエーション豊富に10分間のセルフケアとしてやるだけだ。そうこうしている内に太一がおはようと起きてくる。太一と朝食を済ませたらお弁当の支度に取りかかる。お弁当の中身は、昨日の晩ごはんを取っておいた物に加えて煮豆や玉子焼きだ。そこにバランは使わないように心掛けて、代わりに大葉でおかず達を仕切っている。お弁当箱にミニトマトを添えたら完成する。その間太一は大学時代の親友に教えてもらった腰痛のストレッチをしたり、ヨガで筋トレや仕事で凝り固まった筋肉をほぐしている。太一が「行ってくる」というと、さゆりは作業の手を止めてパタパタと玄関に向かい、外に出て「行ってらっしゃい」とお見送りをする。これが2人の習慣になっている。彼を送り出すと、さゆりはメイクして仕事へ向かう準備を始める。職場までの通勤時間はドアツードアで15分のところにある。四季折々の自然を満喫しながらドライブ出来る田舎暮らしは最高だ。そう思いながら毎日気分を一新することを心掛けている。なぜならそうでもしないとやってられないからなのだ。
職場の玄関では、先に着いたリョーコが気怠げに下駄箱へコッポレみたいな靴をしまっている。さゆりは笑顔でおはようございますと声を掛けた。
「おはよ〜。石田さんて毎日なんでそんな元気なの〜?そーゆーとこ尊敬するわ〜。・・・あー。今日も仕事だるいわ〜」と言った。
「朝が一番清々しくないです?通勤中も景色綺麗だし〜」さゆりがそう言うと、リョーコはミニトマトの話をしてきた。
「今までミニトマトって出たことなかったんだけど、バナナとかミカンならまだ分かるけど、ミニトマトはさすがに食べたくないわ〜」
「あー、次亜漬けするからですか?」
「うん、皮剥いたりしないから、間接的ならまだしも・・・」
リョーコにとって何が気に入らないのかというと、今日は給食の献立にミニトマトが入っている。師走の時期のクリスマスメニューで、滅多に入って来ない一品のひとつだ。はじめに下処理としてミニトマトのヘタを取り、1槽目のシンクに大きなタライを入れて水を張り、一粒づつ洗う。洗い終わったあとのタライの底には土が残っている。大きめの汚れが落ちた証拠だ。次は2槽目のシンクに移してもう一度タライの中で洗う。ここの槽でも洗い終えたあとのタライの底には小さな汚れが少し見える。その次の3槽目は、リョーコが気にしている次亜漬けだ。次亜とは次亜塩素酸のことを指している。別名をキッチンハイターとも言う。希釈したこれにつけて置いて、そのあと真水にさらして処理は終わる。ミニトマトに雑菌が繁殖しない程度で、食べても人体に害のないところまできちんと処理をするのだが、偏見の強い調理員のリョーコは栄養士の先生の指示が気に入らず、いつもブツブツと口を突っ込んでいる。いや、もしかすると調理員と名のつく7割の職員が、事務所で献立を考えている栄養士の先生を逆恨みしているとも考えられる。
ところで、さゆりの勤務している給食センターは、このようにして毎日2500食ほどを作る、田舎では規模の大きな調理施設である。更衣室に行って作業着に着替えると、肌が見えている部分は手首から指先と目の部分だけになる。さゆりと同じパートだけで20人ほどが勤めている。このパート勤務の20人の中で情緒の安定しない人がリョーコとエリコだった。エリコは大学へ進学して他県に引っ越してしまった息子と離れて暮らす寂しさで、散々周りの人に当たり散らしていた。常勤で栄養士の資格を持つみな実さんは、フットワークの軽い足取りでエリコにつけ寄られていたが「知らんしら〜ん。知らんよぉ〜」と話を聞いてもらえていない様子だ。聞いてしまったら最後、私語に時間を取られて仕方がないのだ。しかし、そう言っているみな実さんは、毎日娘がどうだ息子がどうだとペチャクチャと大きな声で喋っている。思っている以上に緩い職場環境だ。マスクをしているから大丈夫だと踏んでるのだろうが、このような食べ物を扱う工場勤務で私語の多い職場は珍しいと思う。暖かみがあってフレンドリーと言えばそれまでだろうが、安価なマスクを信頼し過ぎて不衛生にも程がある。業務は基本的に午前中に調理して、午後には児童や生徒が使った食器が返却される。それを洗浄して乾かして一日の工程が終了する。
いつかまださゆりが入職したての頃に、ホクソさんと密かにあだ名を付けている責任者とリョーコに言われたことがある。
「ここの職場ではね〜、手を動かして仕事しながら話せんと務まらんよ〜」
午後の工程の作業中に、ホクソさんと向かい合って食洗機に食器を並べているリョーコは、大型食洗機の轟音に負けない程の大声でケタケタと笑いながら、そうだそうだと相槌を打っている。ハッキリ言ってこの人はろくでもない。さゆりはそのふたつ手前の水槽に両手を突っ込み、熱めのお湯と洗剤に浸した食器かごの中にある大量のお椀に、しっかり洗剤が行き届くよう、アコーディオンの蛇腹を膨らます要領でザブザブと洗っている。そこから大きな水槽に移してすすぎ洗いをするために引き上げる。このように職場環境の悪さから、新人さんは入って来てもすぐに辞めてしまい、さゆりの前に入った先輩は勤続年数が2年と言った。2年もの間新人の誰もが続かずにあまりの人手不足でこの工程の人数を一人抜いているのだ。2人分の仕事量でも当然時間は止められず、一日の行程は同じように進んでいく。巻きで作業をすればするほど、食器かごを引き上げてすすぎの水槽へ移す度に、掛かる水圧は重くなる。さらにすすぎの水槽でも同じようにザブザブしながら漬け置いた洗剤をすすぐために労力を注ぐ。この時の季節は夏真っ只中で、さゆりは大粒の汗を流しながら「そんなことは出来ません」と伝えた。謎めいたこの職場の常識を押し付けられようにも、体力勝負な上に精神力まで使えだなんて無理な話しだ。出来ないものは出来ないのだ。ここの責任者をさゆりがホクソさんと呼んでいるのには理由がある。ある日さゆりが勤務中に足を滑らせて転んだ時に、その様子を見にきた責任者の浅利さんはほくそ笑むように笑って去って行った。この浅利さんの特徴は、いつも職場の誰かの悪口を誰かにペラペラと喋っている。嗚呼、全くどうしようもない人間だ。
さゆりはパートの時間が終わると自宅へ帰ってしばらく放心する。そして、つくづくあの職場で働いている人たちに感心する。一体何が良くてここの職場で働きたいのか、さゆりにはさっぱり分からなかった。仰向けの状態でしばらく膝を抱えて腰痛を和らげる姿勢をとって落ち着いたら、夕飯作りをする。お隣さんから頂いたきゅうりを棒で叩いて、ごま油と塩としょうゆに付けて簡単な和え物を仕込む。これは太一の好きなおかずのひとつだ。夕飯を作っているといつもより早く太一が帰ってきた。
「おかえり〜、早かったね〜」
太一を玄関に迎えに行くと、最近運動不足だからこれから歩かないかと誘って来た。さゆりは仕事で散々肉体労働をしているけれど、ウォーキングすると腰痛が和らぐのでいいよと言って二人で歩くことにした。歩きながら二人で今日起きた出来事を話すのがいつもの日課だ。さゆりも太一もこの町に移住した者同士だ。さゆりは聞いてみた。
「今日は仕事納めだったんだけど、みんな冬休みも春休みもどこにも行かないらしいよ?家で何してるんだろう?」
「子どもがいる人がほとんどだから、子育てで大変なんじゃないの?それに、出掛けるのに家族全員の旅費とか工面するのも結構出費になるしな」
「まあそれは分からんじゃないけど、なんか話し聞いてると、ここで生まれてここだけしか知らずに、旅行も行かないってなんか凄いなーって思っちゃう。どっか行くのも町内の実家とか言ってたよ」
「そんなもんだよ。地の人には地の人の交流で退屈はしないから」
「え?そうなの?」
「うん。地元の同級生と毎週集まって、と言うか昨日集まってその流れで一緒に買い物行く約束して翌日も出掛けてるからな。週1なんてペースじゃないよ。若い時はこの地元感に憧れたけど、歳とってくるとな。考え方も変わってくる」
「え?そんなずっと友達と遊んでて、家族の時間ってどうするの?」
「どうしてるんだろうね。俺的にアレもわからんのだけど、前の晩に見たテレビの話ししてるやろ?そんな時間どこから捻出してるのかも謎だよ」
「本当よね〜、仕事から帰ってご飯作って食べて、お風呂入ったらもう寝る時間で眠くなるし、私なら睡眠優先しちゃうもん。寝不足になるとろくなことない」
と笑う。さゆりは起きたい時間から逆算して寝る時間を決めている。取りたい睡眠時間も8時間とできる事ならたっぷり欲しいと思っている。たまたまだったが、太一もよく寝る人だった。二人とも朝の静かな時間に活動するのが好きだから、寝る時間は20時半と早い。ウォーキングから帰り、一昨日仕込んでおいたチキンレッグをオーブンで焼いて、たたききゅうりと共に食卓へ並べた。毎年クリスマスに作るブロッコリーのフジッリを使ったショートパスタも、今年は塩加減が丁度よく出来上がった。話題は太一の職場の話に移っていた。
「事務所で吉田さんと原さんが喋ってて、いきなり吉田さんが原さんは大雑把だから分からないでしょうけどってぶっ込んで来て、それいる?って思ったよ。ハラハラしたわ〜」
「吉田さんって原さんに恨みでもあるの?」
「吉田さんは一番新人なのに太々しい所があって、更に空気が読めなくて時々こうして場を乱すんよ。一通り落ち着いたところで副社長がふぅ〜。ってため息漏らしてたわ。原さんも切り返しが凄いから、はい、几帳面な吉田さんどうされましたか?って言ってて、決して吉田さんは几帳面じゃないしな。って思ってしまったよ」
「あはは、面白いじゃん」
「いや、後になれば面白いけど、その場におったら事務所にいる人全員凍り付くからな。それにこっちにとばっちりが来て返事を間違えたら大変なことになる。ホント辞めて欲しいわ〜」
こうして石田家は一家団欒の時を過ごす。職場で起きる小競り合いもこうしてなんとか日々のストレスを乗り切っている。寝る前に今年のクリスマスも穏やかに過ごすことが出来て良かったなぁとさゆりが呟くと、太一もそうだねと言っていた。
ささやかな幸せを噛みしめながらクリスマスが終わり、実家で家族と正月を迎え、新たな一年がまた始まる。
仕事始めの朝、さゆりはいつものようにパート先で仕事をしていた。常勤の犬上さんはさゆりに聞いてきた。
「石田さんの携帯番号は前からその番号なの?」と聞くので、犬上さんの質問の意図がわからないまま「そうですけど・・・」とそれがどうしたのか聞こうとすると「何でもない」と言い残して去っていった。さゆりの電話番号はいつもニコニコな日常が送れるようにと願をかけて、下4桁を2525にしていたのだ。しかし、いつか女友達と居酒屋のカウンターでご飯を食べている時に、ちょっと驚いた話しがあった。一緒に食事していた友人が出した名刺の電話番号の下4桁には1515と書かれていた。それを見た隣の客が突然「私の番号は2525だ」と口に手を当てながら身を乗り出して話しに割り込んできた。少し下品な出立ちのその隣のオバサンは「2号2号って意味〜」とお茶目な身振り手振りで付け足してきた。左手にチョキを出し、右手にパーを出す。ご丁寧なオバサンではあったがさゆりには理解し難い内容で、1号は本妻、2号は愛人と言った内容に全く共感が出来なかった。それに加えて、そんなつもりで携帯の番号を2525にしているなんて思われたら大変な侵害である。なので、さゆりはキッパリと私はそのつもりではなくて、ニコニコな人生を送りたいからだとオバサンに伝えた。しかし、オバサンにはさゆりの話していることは伝わっていない様子だったが、二度と会うことは無さそうだし、もういいかと放っておいたのである。
さゆりは犬上さんの一言でピンときてしまった。(あー。ホクソさんの車のナンバーって2525だったけど、もしかしてそういう意味?そういえば1年前に離婚したって言ってたしな。あー嫌だ。仮にも女なのに、マジでこの手の下品な発想が苦手だわ。)モヤモヤと思案しながらこの手の話に巻き込まれたら面倒だから、犬上さんの言ってきたことはとりあえずほっとこう。そう思ってさゆりも仕事に戻った。
翌朝の出勤時に一台の車が勢いよく駐車場に入ってきて駐車している。ナンバーが2525と書かれている。不機嫌そうに車から降りてきた男は、所長不在の給食センターの事務所を取り仕切る次長だった。これにはいくら鈍感なさゆりでもいい加減気が付いた。(え・・・。キショいわ〜。こいつら付き合ってたってこと?てか、桐谷さんって既婚者じゃん)職員入口のドアを開けた桐谷は、後ろを歩くさゆりのためにドアを開いて待っていた。疲れ切ったような顔で「おはようございます」と声をかけた桐谷に、さゆりはお礼を伝え挨拶をした。挨拶は返したものの、桐谷に聞く気はなかった様子でとっとと事務所に入って行った。
しばらくして寒さの厳しい二月のある日、12時の休憩中にさゆりの後にパートで入った美里が言った。
「昨日スーパーで桐谷さんによく似た人にあって、頭を下げたら向こうも下げてきたんですけど、誰だったんだろ?綺麗な女の人と一緒に歩いてました〜」
桐谷とホクソさんが不倫していることを知らない人の方が少ない中、休憩所はそれはもう大騒ぎだった。一番大きな声で騒いでいたのはホクソさんだった。
「そいつは彼女か〜?」さゆりは(ホクソさんはやっぱりアホなのか?そんなもん嫁に決まっとるだろがいっ!)と心の中でツッコんでいた。
浅利さんは(ホクソさん)は週に一回しか買い物に行かない。週に2回に増やしてしまうと、平日に40分のタイムロスが出来るからだと言っていた。時間とお金の節約が好きなのか、低所得が故にそうせざる追えないのかそこは深く考えたことはないが両方とも当たっているのだろう。前に話した通り、この人は数年前に夫と離婚した。理由は反社会的な職業とまでは行かないけれど、飲み屋のオーナー業だったとか、そんな話だった。リョーコが大きな声で「結婚した後に知ったんだったらしょうがないよね〜」と言っていたが、そんなことを理由に離婚という末路を迎えるのも、結婚前の夫の職業を知らなかったというのもあまりピンとこない話だ。要は愛人稼業に勤しむのが目的だと思っている。元夫は本当のことは一切知らずに、今も浅利と良好な関係を築いているそうだ。さゆりにとってホクソさんには、まだまだ不可解でしかない点がたくさんある。ホクソさんは、毎日日課のようにイライラ〜っとする人と所に行って、わざわざ意地悪な指摘を誰彼構わず繰り返す。すると、パート仲間は半ベソでさゆりの元へ駆け寄ってきて、「ちょっとあんなの意地悪すぎませんか〜」と訴えてくる。ここまで聞いただけで安易に想像がつくが、浅利さんは他の人たちと違って決定的に心の栄養が足りないのだろう。この人から余裕というものを感じたことが一度も無い。しかし、この人にも子どもはいる。女の子が二人。上の子は中学を卒業後、高校には行かずに働きながら准看護学校へ通っている。娘が志望したのかどうかはざだかでは無いが、高校進学の進路を考えている時期に、お母さんも早く自由な時間が欲しいから自立して欲しいと言ったそうだ。さゆりはそんな話を小耳に挟むたびに、不毛な恋とはどこまでも盲目なのだなあと思っていた。子どもたちが巣立って行っても、桐谷との時間が増えることは無いだろう。
3月に入ってもうすぐ新学期の準備に入る頃、ホクソさんは懲りもせずに常勤の千鶴さんに嫌がらせを繰り返していた。歳は50代中頃でホクソさんよりも10歳年上だ。千鶴さんは1年前から五十肩で腕が痛く上がらないと伝えてあったが、ホクソさんは、への字に曲がった口元のまま「大変だね〜、気を付けてね〜」と言っただけで、いつもと変わらず千鶴さんに大量の仕事を押し付けていた。千鶴さんは断ることが苦手な性格だ。ある日ホクソさんは、桐谷とのことで悩みを抱えていた。いつか美里が言っていた桐谷の連れていた女のことが気になって仕方がない。そして、いつもこの手の話を聞いてくれるのがリョーコだった。調味料室でお味噌やお砂糖を軽量中しているリョーコに話したくて堪らず、調理場での仕事を千鶴にあれもこれもお願いと言い残し、そそくさと調味料室に入って行った。さゆりからしたらそれはとても迷惑な話で、班長の千鶴に大量の仕事を押し付けたら、パートにも歪みがのしかかってくる。大きな釜で作る味噌汁に入れる豆腐なんて、重いなんてものじゃない。一人で抱えるのも大変な上に、カゴが釜のふちにでも当たって割れたりしたら、給食を食べた子どもたちが「なんだこれ?」と気がついて、異物混入だと騒ぎになるのが目に見えている。そういうこともあって安全対策のひとつとして、一人でカゴを抱えて釜の中に材料を入れたりはしないのが鉄則である。しかし、ホクソさんはルールを守ることが苦手だ。実は今、彼女はもう仕事どころでは無いのだ。
「リョーコさ〜ん、ちょっと気になって仕方ないんだけど、桐谷さんが異動になるとかあるのかな」
「あ〜、もうすぐ公務員の人事異動の時期だもんね。無いんじゃない?知らんけど」
「かな〜。不安で堪らなくてさ〜、昨日帰っても家でじっとしてられずに車でウロウロして。全然落ち着かなくてさ〜」
「あ〜。こればっかりは私にもどうにも出来んから、二人が上手くいくことを願ってるよ〜」
そう言い残してリョーコは調味料室を後にした。リョーコの本音は手洗い場に向かう足取りと表情でげんなりしているのが目に見える。ロッカーで水筒のお茶をガボガボガボ〜っと飲んだあと「あ〜あ」と呟き、めんどくさそうな顔をしていた。ちょうどトイレに行こうとしていたさゆりを見つけると、すれ違い様に「寒いね〜」と言って「早く帰りた〜い」と呟き去っていった。側から見たら中々大変な職場である。
さゆりはパートを終え自宅へ向けて運転しながらふと考えていた。覚えた仕事の量が増えたから大変な訳ではなく、ここの人間関係で疲れてるんじゃ無いかな?と。人は自分のことになると中々客観視することが難しいので、今夜は太一に話してみようと思った。太一の車が自宅に帰ってきたが、夕飯作りで今は手が離せない。玄関が開いた音がしたので声を掛けた。
「おかえり〜」
「ただいま〜」
太一は鞄の中から弁当箱と水筒を取り出してキッチンに持ってきた。
「ねぇねぇ、最近ちょっと思うんだけど、なんか疲れが全然取れないんだよね〜。歳のせいかな〜とか思ったりしたんだけど、多分違うな」
「覚えた仕事が増えたから抱えすぎてるとかじゃなくて?」
「う〜ん、どうだろ。仕事覚えるのは大変だけど、覚えてしまったらあとは毎日コツコツやればいいだけじゃ無い?」
「そうだよ。違うの?」
「う〜ん。なんかね〜、浅利さんさぁ、気分でコロコロ変えてくる所があってさあ、何が正解か分かんないんだよね。だから、そこがめっちゃストレスなんだよね〜」
「ほっといたらダメなの?」
「ほっとくとかいう選択肢は無いかな。意図的に嫌がらせしてるように見えるから」
「さゆりがいじめられてるん?」
「私も別に好かれては無いけど、千鶴さんがニトリルっていうゴム手袋したままラップかけようとしたら、浅利さんに手袋外してって言われていて、でもね、小さいおかずの和え物を作って、その後冷蔵庫に入れて冷ますんだけどさあ、サラダとか火を通さずに直に口に入るものを素手で何かするのって衛生上ダメなわけ。浅利さんは頭のいい人じゃ無いからそういう理由でこうなってるとか、理解出来てない所が問題点で、かつ、自分のイライラする人に刺々しく仕事の邪魔をしたがるのよねえ」
「それが嫌なんだね」
「うん。一番大変なのはターゲットの千鶴さんなんだけど、神経使う仕事だし、ミスの無いよう出来れば落ち着いて仕事したいけど、結局私にもそのリョーコさんとの無駄話の歪みが出てバタバタしてしまうし、内容を知ってるだけに腹立って仕方ない。だいたい、なんで走り回って仕事しないといけないわけ?公衆的にも精神的にも衛生上良くないし、結局浅利さんの不倫に全員引っ掻き回されて迷惑なんだけど」
「不倫ね〜。周りの人を巻き込むのは良く無いよな。昔俺も聞かされてたけど、あれは疲れるわ。仕事中の私語ほど無駄なもんは無いよな」
「そうなんよ。分かってくれてありがとう」
さゆりは聞き上手な夫に恵まれて心底良かったと思いながら夕飯を食べた。そして、翌朝目覚めると同時に、あのドロッとした職場の環境と人間関係が頭をよぎってため息が漏れた。
「朝からお疲れやね」
「初めから決めてたけど、2年経つまであとちょっとだから」
「無理しないで。キツかったら2年にこだわらずに仕事辞めることも考えてね」
太一の気遣いに救われながら、今朝も1日が始まった。

パートが終わって自宅のキッチンでさゆりがコーヒーをいれていると、リビングの窓の方に足音をドスドスと立ててこちらに歩く、ツッカケを履いた身体の大きな老婆が見えた。ピンポーンとチャイムを鳴らしたのはお隣さんだった。「はーい」と返事をすると「隣の鬼瓦ですが、石田さんちのネコについてお話がありますっ!」と、3件先のご近所さんにも聞こえるような大きな声を張り上げてきた。(うわぁ〜、明らかに面倒臭そう。仕事で疲れてるんだけどなぁ・・・)そんな気持ちを隠してさゆりが玄関を開けると、鬼瓦さんはがっしりと腕を組んだ仁王立ちで待ち構えていた。しかし、いつもの装いではなかった。ヒラヒラの付いた厚手のブラウスに、タンス臭の漂うツーピースのスーツは、スカートの丈がふくらはぎの下まであるレトロなものだった。そのおかげか、今回は破れたシミーズは見えなかった。授業参観の装いで現れた鼻息の荒い鬼瓦さんはここぞとばかりに喋り始めた。
「お宅の大きなキジ猫が、うちの敷地に入ってきて困っています。そのキジ猫が庭で穴を掘ってるのを見て、私は主人に怒鳴りつけられました。とにかく言っておきますがキジ猫に困っているのはこの辺り皆さん全員です。今日はご近所さんを代表して来てますっ。二度と家から出さないようにして下さい。わかりましたね?」
頭ごなしに突然大声で怒鳴りつけられたのと、愛猫を悪く言われたことにさゆりはカチンと来ていたが、ここ最近仕事に出かける時間を見計らって、2回ほど猫が脱走してしまったことは事実だった。パートに出ている間、猫は外での大冒険を楽しんでいた様子である。そんなこともあったのでさゆりは素直に謝罪した。
「すみませんでした。確かに何度か脱走したので鬼瓦さんちに入ったかもしれません。お騒がせしてすみませんでした」
ガミガミと感情をぶつけて来る鬼瓦に対して、何度も何度も愛猫の起こした粗相に頭を下げ謝罪を繰り返すさゆりの様子を見て、図に載ってきた鬼瓦は更に声を荒げた。
「入ったかもじゃないんです!私の庭で猫がフンをして困っているんですっ!どうして私が主人に怒鳴りつけられなきゃならないんですか!」
瞬時に(アンタの家の夫婦喧嘩を私に怒鳴られても知らんがな)と思ってしまった。すると、だんだんさゆりも腹が立ってきた。そもそも、この辺りのご近所さんは、飼っているペットの散歩も鬼瓦さんの嫌がらせのせいで外に出せないと聞いていたからだ。犬が嫌がる薬をスプレーを撒いたりするので、愛犬が何か変な薬にヤられでもしたら大変だからと、車に乗せて公園まで行ってからでないと散歩が出来ないと言っていた。加えて野良猫ならこの辺りには沢山いる。まず、そこにあるフンがうちの猫のものだといった理由が見当たらないし、さゆりは毎朝ねこトイレの掃除でフンの回収もしている。さゆりには鬼瓦愛は全く無いしむしろネコ愛のほうが大きい。それもあって、鬼瓦さんは思い込みで当てつけを言っている様にも思えてきた。それに、アンタが亭主に怒鳴られたのは、大方アンタのその性格が問題なんだろう。全部ひっくるめてさゆりのせいにして来るのは、お門違いじゃ無いかと思わずにはいられない。さゆりの表情もいよいよ曇り始めた。一度しっかりと鬼瓦の目を見直してからさゆりは聞いた。
「その、猫がフンをしたというのは、うちの猫だったのでしょうか?」
「・・そこは見てませんが、穴を掘っていた場所の近くにもフンがありましたっ!」
「それは知りませんでした〜。それがもし、うちの猫のやったことだったら謝ります。これからは出来るだけ猫を外に出さないようにしていきたいと思っています。今回は本当に申し訳ございませんでした」
ここまで大騒ぎしても気の済まない鬼瓦は、ありもしないことをペラペラと話し始めている。猫に心底迷惑しているのはここに住む住人全員だとさっきよりも大袈裟に話しをループしている。普段なら全員じゃねーよ、てめーが知らねーだけだろばーか。と思っている本音を夫に聞いてもらってスッキリと終了するのだが、この年寄りには昔宇宙人呼ばわりもされたことがあったので、流石に我慢の限界がきた。今度はさゆりが4件先まで聞こえるような大きな声を張り上げて、「わかりました!」と言った。鬼瓦の大声よりも良く通る声で言ったので、瞳の奥がビクついたのがわかった。
「それから鬼瓦さん・・・、少し申し上げにくいのですが、先ほどご主人に怒鳴りつけられたと何度もお伺い致しました。そちらはご家族で話し合いされてみてはいかがでしょうか?ご夫婦の問題を私に言われても何も解決できませんので。それでは私からのお話しはもうありませんので、これで失礼いたします」
そう言って、今度は頭を深く5秒ほど下げた。そして顔を上げると、への字に曲がったままの口でさゆりを睨みつけ、ふんっ!と向こうを向いて帰って行った。さゆりが玄関に入り鍵をかけると、はぁ〜っと息が漏れていた。しかし、この人によるご近所トラブルは初めから想定内だった。やかましい系の人だろうなとは思っていたが、やっぱり来たか〜。という気持ちも混ざり合って、ドッと疲れた。幸か不幸か、今だけは職場のホクソストレスが小さな悩みの様にも感じる。僅かに震えた手でほうれん草のお浸しを作ったところで疲れの限界がきた。思考は止まり、さゆりの脳内は(もう何もやりたく無い)でいっぱいだった。太一に話して、今日はデリバリーのピザでも取ってもらうことにしようと決めた。たまらず冷蔵庫から缶ビールを取り、飲みながらピザのチラシを眺めて太一に電話した。
「もしもーし、お疲れさーん」
「ねえねえ、後どれくらいで帰ってこれる?」
「う〜ん。10分くらいだよ。なんで?」
「いやねえ、お隣の奥さんが怒鳴り込んで来たんよ〜。それで、夕飯がまだ何も出来てない」
「お隣さんって鬼瓦さん?」
「うん。猫が畑で地面を掘ってるの見て亭主に怒鳴られたって言って、めーっちゃ怒っとったよ。恐ろしかった〜」
「あの人すごいやろ〜、でも、この辺りじゃご主人の方が曲者だって言われてるんよ。夕飯出来てないなら、今日は食べにでも行くか?」
「頑張ってほうれん草のお浸しは作ったけど、ピザでも取らないかなー?って思ったの。出掛けてもいいけど、どっちにする?」
「ピザ良いねえ。今日はピザにしよう!俺ジャーマンポテトとコーラがいい」
「ふふふ、わかった。そしたら、半分は私の好みで注文しとくね。気をつけて帰って来てね」
電話を切ってしばらくすると太一が帰ってきた。
「おかえり〜」
「ただいま〜」
「いや〜、今日はつくづく思うけど、たいちゃんが居てよかったよ〜。こんな状態で一人だったらやるせなさ過ぎるもん」
「そーゆのあるよな。今日で鬼瓦さんがうちに怒鳴り込んで来たの2回目だな」
「そーなの?」
「うん。前はうちの庭の雑草に明日除草剤を撒きますって言いに来てな。その頃はまだ小さい子どもたちが居たから、やめてくださいって言ったんだけど、次の日俺が仕事に行ってる間に勝手に敷地に入って撒いて帰ったみたい。最悪やろ?」
「えー?信じられん。そんなこと勝手にやって言い訳?てか、やりすぎじゃない?」
「鬼瓦さんはそういうところがある。変わってんねん。年に一回ある班の草取りの時は、そこの山下さんの奥さんが”鬼瓦のクソババア”って言ってたぞ。それで鬼瓦さんが班長だった時は、回収してもらえなかったゴミ回収を紐で吊し上げてデカデカと”誰ですか?”って貼り付けんねん。ありえんやろ」
「もうあの婆さんイカれてるな。あーこわい。でもそれなら追い返して正解だった」
こっちを見る太一に続けた。
「いやねえ、ネコが悪さしたのは本当に申し訳なく思うから謝るんだけどさあ、謝ってもネチネチ本当の話かよく分からんことを言ってきて、最初ははいすみませんって言ってたけど、放っておいたら気が済むまで私でストレス発散しようとしてきた様な気がしてね。私が話すことはもう無いからって帰ってもらったんだよね」
何があったのか説明すると、太一は笑いながら言った。
「さゆりすごいな。この辺りでそこまでやった人はおらんかも知らんな。宣戦布告やね」
「宣戦布告するつもりは無いけど、仲良くする義理もないし、したくもない。それにしても、ここらの人は本当に騒がしいな。職場の浅利さんにしても、鬼瓦さんにしても、タイプが違いすぎて天と地がひっくり返っても仲良くできないわ〜」
そんな話をしているうちに20分ほどでデリバリーのピザが届いた。明日は土曜日だ。こんなことに気を取られて過ごしたら時間がもったいないと思ったさゆりは、太一を久しぶりに登山に行ってみないかと誘った。3月下旬。この辺りの気候は暖かく、山頂に少し雪が残る程度だろう。行動力の高い太一は大賛成だった。しっかり食べてさっさと寝て、早起きに備えることにした。
久しぶりの登山は、朝3時に目覚ましを鳴らして4時に出発することにした。そして、5時か6時に入山のつもりでいたけど、どうも時間配分を間違えたみたいだ。夏の暑い時期に思い付いたこのタイムスケジュールで3月に動いてしまうと流石に寒過ぎる。去年最後に行ったのは10月で、その感覚のまま準備してしまった。どちらにしても、せっかく準備もしたのだから、二人はこのまま4時に出発することにした。登山口についたのは5時半で、日の出とほぼ変わらない時間だ。二人は準備運動をして登り始めた。
「最近山頂でご飯食べなくなって、ザックが軽くていいね〜」とさゆりの話に太一は「そうだね〜」と相槌を打っている。山の中ではいつもこんな感じで歩いている。職場の話やその時気になっていることを話すことが多い。登る山によっては過酷過ぎて、話している場合では無いほどフーフー言いながら息切れしている時もある。二人は基本的に展望の良い山を探して登っているので、時折見える絶景に感動したりしている。まだ寒い3月の末は雪が溶けていて足場はそんなに良くないが、空気は澄み切っていた。休憩を挟みながら歩いて9時に山頂に到着の予定だったが、8合目あたりからまだ溶けていない雪が邪魔をして歩きにくい。ボチボチと歩き進めて9合目に差し掛かると、それはとても大きな岩場で、凍った岩を登らないと先に進めなくなった。スタートの時点で二人よりも先に入山している人や、トレイルランの人に抜かれたりしていたし、山頂から降りてくる人もチラホラ見かける。ということは、みんなこの岩を器用に登っているのだろう。どうやって登ろうか、どの位置に足を掛けるかさゆりが迷っていると、太一がスイスイと先に行ってしまった。それを真似てみるとさゆりも登ることが出来た。急勾配の中ゼエゼエと息を吐きながら歩いていると、ふと目線を先に伸ばすとそこは山頂だった。ゆっくりと絶景を眺めたいところだったが、溶けたばかりの雪が足元の土を緩ませている。そのせいで腰を掛けるところがなかった。それでも達成感は二人の気分を高揚させた。「山はいいね〜」と登山に飽きることはなく、何度口にしたか分からない。本当ならコーヒーの一杯でも入れたいところだが、日陰になっている山頂はまだ真冬のように寒かった。太陽に当たるところを探していると、その先は下山コースに入っている。「時間も遅くなったし、このまま降りるか」と太一が言った。「そうだね。下山してお昼食べに行こう」とさゆりは提案した。山を降りていると、さっきまでのさゆりのように、ゼエゼエと息を切らしたおばさまご一行様とすれ違った。「山頂はもうすぐでしょうか〜?」と聞くおばさまに、太一が優しく道案内をする。疲れていて他人に親切にする余裕のないさゆりはいつもこの光景に感心する。というよりも、他に誰もいない状況ならさゆりもこうするのだろうが、太一がやってくれるから甘えているだけでもある。結局今回の登山は思ったよりも時間がかかってしまい、下山したのは昼過ぎの1時少し前だった。そこから街中に出ないと、食事屋さんはない。車を走らせる中、朝コンビニで買っておいたおにぎりやサンドイッチの残りが二人の空腹を凌いでくれた。
「ここで食べない方がごはん屋さんで感動するのは分かってるけど、ランチが終わってる可能性もあるもんな」
「そうなんよね〜。朝多めに買っといてよかった。それにしても、久しぶりの登山で明日は全身バッキバキだろうね。もう無理かもって思ったけど、山頂まで行けて良かった」
「俺もさゆりは断念するかと思ってたよ。寒くて滑りやすくて大変やったけど、一瞬でも絶景が見れて良かったな」
さゆりはニコニコしながらうんと頷いた。車を走らせて二人は定食屋を探して入った。ちょっとクセのある大将が作った料理は思ったほど美味しくはなかったが、店は大繁盛している。絶品でなくても疲れた身体で空腹がしっかり落ち着いたのでまあ満足した。あとはどこでも良いので温泉を探して汗まみれの服を脱ぎ、身体をさっぱり洗い流してお湯に浸かってサウナに入り、水風呂の後に外気浴する。登山後の温泉は本当に気持ちが良い。自宅へ向かう帰り道にふとさゆりは思う。(来週もがんばろー)車の窓から山の方を見て、この気持ちにさせてくれることに深く感謝していると、隣で運転しながら太一が言った。
「来週も仕事頑張れそうだ」
「え〜、驚いた。今私も全く同じこと考えてた!」
こうして、またあの鬼瓦さんや浅利さんを筆頭にしためんどくさい職場やご近所さんの人間関係も含めた全てのストレスから解放された。
太一とさゆりが求めている平凡な暮らしを手に入れるにはちょっとしたコツがいる。頑張りすぎないことがポイントだ。明日は月曜日。何もない日常より、この面白そうな日常を過ごしていたいと思う。そうこうしているうちに、さゆりの目標の2年間はもうすぐ終わるのだ。

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