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富雄丸山古墳の被葬者は、時期は違いますが、卑弥呼と男弟を連想させますね。

 3月14日の朝日新聞デジタルに、「「異様」な副葬品 奈良・富雄丸山古墳の木棺、被葬者の謎に迫る」という記事が出ています。

 今回の調査を指揮した奈良市埋蔵文化財調査センターの鐘方正樹所長の「墳頂部の被葬者は男性で軍事を、造り出しの被葬者は女性で祭祀を分担したのでは。きょうだいだった可能性が高い」という発言は、卑弥呼と男弟を連想させますね。
 もちろん、邪馬台国は3世紀の話なので、富雄丸山古墳の方が新しいのですが、3月13日付け朝日新聞デジタル「葬られたのは女性? 奈良・富雄丸山古墳の木棺から銅鏡3枚など出土」で、木棺の中から3枚の銅鏡や髪に挿す竪櫛などが見つり、副葬されることが多い刀剣や甲冑などの武器が木棺内にはなく、女性が葬られていた可能性があるということなのですが、墳頂部のメインの埋葬施設では明治時代以降、刀剣や石製品などが見つかり、被葬者は男性とされるので、卑弥呼の時代から時期が経っていて、巫女である卑弥呼が女王とされていた3世紀から、男性がメインで政治が行われるようになり、女性は祭祀面で補佐するという形に変わっていったとも考えられるでしょう。

 ただ、被葬者が女性であるとすると、何故盾形銅鏡や蛇行剣があるのか疑問ですし(これに関しては、奈良市のYoutubeで鐘方正樹所長も謎だと語っています)、本来は被葬者の頭部に納められるはずの鏡や櫛が、今回は足の近くにあったにも謎です。
 また、盾形銅鏡は鏡面が上向きで、古墳頂上部のメインの埋葬施設を意識して置いたとも考えられ、「盾形銅鏡はメインの被葬者を守るためのもの。造り出しの被葬者は呪術によって主を守る役割があったのではないか」と、3月13日付け産経新聞「富雄丸山古墳「ナンバー2」の棺、異様な埋葬方法に神秘性 ヤマト王権と密接な関係」で、奈良県立橿原考古学研究所の岡林孝作・学芸アドバイザーが述べています。

 「富雄丸山古墳が築造された4世紀後半は、卑弥呼が邪馬台国を率いた2~3世紀と、5世紀の「倭の五王」の時代の間の文献記録がない「空白の時代」といわれ」、「ヤマト王権の勢力が強まる一方で、奈良盆地の中の古墳の築造場所が南東部から北部に移動するという大きな変化が起きている」時期であり、大和盆地内の豪族の勢力の消長が関連していると考えられます。いろいろ謎だらけですので、今後の研究の進展に期待したいですね。
 

 

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