去って生まれて#2 「希望というモルヒネ、絶望との二人三脚」

才能があるから続けるのか
続けれているから才能があるのか
よく"夢"に対して使われるこの表現だが人生や生死に置き換えて考えてしまっていた最近の私
生きる才能,生き抜く才能
死ぬ才能,死ねる才能
才能があるから私は生きているのだろうか
才能が無いから私は生きてしまっているんだろうか

3月22日、誕生日を迎えた
誕生日に対して"おめでとう"となぜ言われるんだろうと考えてしまっていた最近の私
私にとっての誕生日とは一年の区切りである
大晦日なんていうものより、よっぽど自分ごとに感じれる区切りだ

その区切りからくる"おめでとう"とは「今日までよく辿り着いたね,よく生き残れたね、おめでとう」の"おめでとう"である
しかし他者からの祝福のニュアンスは「あなたが生まれた日だね、本当に尊いよ、おめでとう」という受け取り方を私はしてしまう
このニュアンスで言われて嬉しい人は、自分が生まれた事を自分で祝福できる人だ
生きてて良かったと大声で叫べる人が今この世界ににどれぐらいいるのだろう
これは拗ねた私の絶望を他に理解してほしいから考える事か、それとも世の真理か
あなたは生きてる事が嬉しいですか?
私は、生きてて良くない存在だと自分のことを認めた上で自己愛を使って生かす事に精一杯である

「生きてて良かった、生きてて良かった、そんな夜を探してる」とフラワーカンパニーズは歌う
生きてて良かったと思える希望とはわざわざ探さないと見つけれないぐらい小さくて微かで淡いのだ
裏返すと、死にたい瞬間とは生よりずっと近くに常に隣に存在している
私は両方を敬い、同価値であるとみなしている
生まれた事を祝福するなら死に対しても祝福すべきだ、生という苦しみ,痛みから逃れたのであるから
生きてて良かったと思える日,希望というのは、その死や絶望を跳ね除けるぐらい何百倍も光り輝いてるのだろうか
私が今まで生きた経験からして希望の賞味期限は生きる上で余りにも短い、絶望はその逆でいつまでもついて回る
なので他者から誕生日に言える一言は、「(今日までサバイブして生き残ってくれて)ありがとう」
そうだ、感謝かもしれない
ただ、何にしても他者が自分を祝福してくれる際の心持ちは、絶望を跳ね除けるぐらい嬉しい事ではある

生きてくれてありがとう
死ねておめでとう

津野さんがいない
誕生日にも思い出してしまった
赤い公園が5月28日に解散する
津野さんの曲はデータやCDとして残るが、紡いで演奏される事はこれからは稀なケースとなるのだろう

日本のポップス,ロックの作詞作曲家、ひいてはギタリスト、ひいてはラジオパーソナリティとして伝わるそのお人柄に私は惚れていた
2014年9月から聴いていたオールナイトニッポン0、2016年から始まったゆうパラ水曜日での優しい1人喋りや素敵な選曲,解説
何より彼女が作った曲の数々はとにかく不思議なベールに覆われていて、そこにたっぷりの普遍性とスパイシーでキャッチーなフレッシュさがあるリリックとメロディが本当に大好きだった
時間ができた17年からはライブにも足を運んだし、自分が以前の会社のフェス仕事で初めて担当したステージは、なんと赤い公園の現メンバーが立ってくれた事を誇りのように今も胸に携えている

彼女は死を選んだ
私が誕生日を選んだ世界は彼女が死を選んだ世界
死因も理由も何もかもわからないが、その選択を取らせた"何か"や"全て"がどうしても憎い,悲しい
ただそれと同時に、彼女の死をリスペクトしたい,しなければならない
私が考えた理屈なのに情がこもってしまっている人に対しておめでとうとはどうにも言い辛いが
この痛み,苦しみを耐えて生き抜いた結果、彼女は死に辿り着いたのだ

自分はいつどこで死を選ぶだろう
「できれば良きタイミングで」死を待ち構えていたいと思ったが受け身でそれを選べるほど都合よく出来ていない気もする
せめてハプニングじゃなく死を選び進めれるように、最善を考えて生を進めていきたい
この場合の最善とは居るべき場所で成すべき事を成す事だと私は考える
生活,仕事,人間関係
あらゆる要素を含んだ人生に対して居るべき場所を見つけ,作り,示す
成すべき事を見つけ,作り,実践し,成す
見栄や社会としての価値を積む時間があるのであれば、とにかく最善を尽くす,尽くせるよう努める
可能性を燃やし尽くすように生きて死ねたらどれほど幸福なんだろう
表裏一体な構造である人生で私は今日も明日もモルヒネを打ち死神と踊る

#去って生まれて  #コラム

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