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読書記録「芸術の陰謀」

ジャン・ボードリヤールの「芸術の陰謀」を読んだ。

訳と解説は塚原史。

ボードリヤールの他の著書を読んでいないため分からないことが多いまま読み進めて、塚原さんの解説を読んでやっと理解したことを現時点でまとめる。


「芸術の陰謀」とは…

タイトルになっている「芸術の陰謀」とは、現代アートが「無意味・無価値」になってしまったという事態を隠すためにあえて「私は無意味・無価値だ」と言い張ることで、「そこには何か意味があるに違いない」と思わせることであるという。


マルセル・デュシャンの「泉」という作品は、現代アートの歴史を語る上で最も重要だと行っても過言ではない。

それは、ただの「小便器」だ。喩えではなく、便器そのもので、これはレディ・メイドと呼ばれる。つまり、それまでの美術作品のように、作者が自分の手で作り上げたものではなく、工業製品であり、また、美しくもない。

1917年に公開された際は、「無意味・無価値」どころか、「醜い」といってむしろ評価はマイナスであった。作品自体も公開後行方不明になってしまったという。


次に重要な人物が、アンディ・ウォーホル。

ポップ・アートの代表的人物である。ちょうど今代表作「マリリン・モンロー」などが、ユニクロのTシャツのデザインになっていたりと、彼の名前は知らずとも、多くの人がその作品は目にしたことがあるはずだ。(ユニクロがウォーホル作品とのコラボにこぎつけたのにも多大な努力があったが、ここでは割愛)

ボードリヤールはこのウォーホルを特に重要視している。


美術品の値段は高騰している状況は、現代アートというジャンルにおいて特に顕著である。なぜか。それは、現代アートが「無意味・無価値」であるからだ、とボードリヤールは述べている。さらには、「芸術が無価値であるはずがない」という一般人の思い込みもそれを助長している。これが第二の「芸術の陰謀」である。


マルチメディアやIT技術が進歩し、今や誰もが「美的なもの」のクリエイターになることができる。そんな中で「美的なもの」は日常生活に氾濫する凡庸的なもの、月並みなもののシミュレーションの操作となってしまう。ここで芸術は「超・美的なもの」になる。

現代アートは、この凡庸さ(工業製品の使用など)そのものなのである。


ボードリヤールは、ウォーホル以降の現代アートは。価値はつけ続けられているものの、存在価値はない、と言う。そして彼は、この「芸術の終わり」を嘆くどころか、むしろ、芸術の、超高額マネーの代替物のして流通する新たな社会的機能を祝福し、この現状を、「芸術のトランス・エステティック(美学の超越)」と呼ぶ。一方で、芸術が、それ自体が「無意味・無価値だ」になってしまったという真実を「嘘」として流通させる「陰謀」に成功した、と皮肉る。


この本では、現代アートと、その価値、今持っている社会的機能について考察している。決して、現代アートの是非を問うものではない。自由な発想で作られた作品たちは、我々を様々な形で楽しませてくれ、時には哲学的な問いかけをしてくる。中には、それこそ「意味の分からない」ものに出会うことも少なくないし、それすらも楽しめばいい、と僕は思う。日本にも、河原温、草間彌生、奈良美智といった、作品にウン億円の値段が付くアーティストがいて、日本各地で彼らをはじめとする現代アートの作品を鑑賞することができる。


来月は、瀬戸内国際芸術祭に行ってみる。

来年から岡山県に住むので、ある意味予習でもあるし、純粋に現代アート、演劇のファンとして、でもあるし、自分のこれからの作品作りにおける何か指標のようなものを得ることを期待しているのかもしれない。


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