勉強したいけど勉強できない……という「認知的不協和」
勉強しなきゃ勉強しなきゃ……でも勉強したくないぃぃいいい…
ああセンター直前なのになんで勉強できないんだ…どうしてやる気が出ないんだ…自分にはやっぱり勉強する才能も努力する才能もないんだ…
これが一浪した1月(センター直前)の僕です。
この状態で毎日毎日「何で勉強しているんだ…」自問自答し続けていました。どうしても勉強する「何か重要な意味や目的」がほしかったんです。
うん、なかなかしんどかった笑
今回は受験勉強を終えて一年たった今、当時のこの苦しみはなんだったのかをいろいろ考えてみました。
認知的不協和とはなにか
突然ですが、認知的不協和という言葉を知っていますか?
認知に関する矛盾や不協和という意味ですが、詳しく説明すると
認知的不協和(にんちてきふきょうわ、英: cognitive dissonance)とは、人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語(Wikipediaより)
ということです。
詳しく説明します。
認知的不協和の例
認知的不協和がある状態とは具体的にどういうことなのか。
有名な例え話に、「酸っぱい蒲萄」というイソップ童話が用いられます。
お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。
これのどこに「認知的不協和」があるのでしょうか。
はじめ狐には、認知①「ブドウが食べたい」と認知②「ブドウを食べることができない」の2つの認知が同居しています。
この2つの認知は、ブドウが食べたい「から」ブドウを食べることができないという風に「順接」の接続詞でつなぐことはできません。
ブドウが食べたい「けれど」ブドウを食べることができないという風に「逆説」の接続詞を用いる必要があります。
つまり二つの認知は「相反している」訳です。
したがって狐は、新たな認知③「あのブドウは酸っぱくてまずい」を追加して、認知①「ブドウが食べたい」を緩和しようとする。
このようにして、新たな認知を追加したり、すでにある認知をゆがめたりして認知の矛盾を解消しようとする。この試みを、「認知的不協和の解消」といいます。
本題
ではこれを踏まえて、先ほどの「勉強しなきゃいけないのに勉強できない」状態について考えていきます。
このとき、僕の脳内には二つの認知があります。
①勉強はしなければならないものだ
②勉強をしたくない
この2つの認知は当然のことながら矛盾します。
さてこれをどう解消するのか。
よくよく分析してみると、今までの僕は「新たな認知を追加することによって元々ある認知をゆがめる」作戦をとっていました。
具体的に何をしていたかというと、勉強しないと社会的に認められないとか、勉強しなければ友達から見下されるとか、勉強しなければ人生うまくいくはずがないとかいう世の中にあふれる「勉強は大事」という大量の「認知」を取り込んだのです。
そうして認知②「勉強をしたくない」を「これだけ勉強は大事なのだから、自分は勉強したいに決まっている」と言い聞かせることによって「勉強したい」にゆがめてしまっていました。
つまり、勉強せねばならない理由をかき集めることによって、「勉強したくない」という認知を「勉強したい」に変え、認知的不協和を解消しようとしていたわけです。
しかし、「解消」といってもそれは所詮幻想です。「勉強したくない」という現実をありのままに受け止めない限り、鈍痛のような苦しみをずっと味わい続けることになります。なんとなくモチベーションが続かない、勉強が全く楽しくない、といった異変から始まり、最終的には感覚が麻痺した結果「なんでか何もしたくない」という無気力状態になります。これが鬱寸前の状態です。
これがまさに当時の僕。
勉強したくないと思っている自分を認めてしまえば、それは社会に出てから価値を認められない人生を送ることを承認してしまうことになる。
そんなものを認めるわけにはいかない。
そういう状態でした。
今考えると相当こじらせていたなぁと思いますが、当時はそんなこと毛ほども考えていなかったのでめちゃくちゃにきつかったです。
なつかしい。
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