【ネタバレ?】映画:君たちはどう生きるか?の感想とやま、的ダラダラメモ(解釈)

感想が賛否両論に分かれている、映画:君たちはどう生きるか?についての感想を述べたい。
怪作という言葉が当てはまる凄まじい作品だったと思う。
見ながら頭がグルグル回転して、どういう意味なんだろうと常に考えさせられる作品で、見終わった後、疲れ果てた。


思考の整理も含めて、メモ的に文章を書きたい。
ダラダラと書いているだけなので何ら結論は書いてない。
ネタバレも含むので、ネタバレが嫌な方はすぐにでも帰ってほしい。
見ている方が前提なので、見てない方には分からないものになることを前提に話していく。
適当な妄想なので、正しいかは知りません。
あくまでも妄想と受け止めて頂けるとありがたい。







あの話はニヒリズム、明治後の敗戦までの人工的に作った国体の崩壊、継母への複雑な気持ち、自らの卑怯性との向き合いなど、文学青年の自我に起こる葛藤とその青年が過ごした世界が破壊されたことを重ね合わせたものが比喩表現として描かれている。
気になった項目毎にダラダラと語りたい。


『物語の主軸:主人公眞人』
 最初、母親の病院が焼ける所から始まる。眞人は母親の病院に走って向かう。まあしかしココで引っかかるのが、わざわざ寝巻きから着替える所。
この辺りに眞人の自意識を感じる。本当なら着の身着のままで向かうべき所、世間体を気にする自意識が描かれていた。更に病院に走るシーンで周りにいる人々がボヤけて描かれている。ここについても世間と自分が違う世界にいる。眞人が金持ちのブルジョアであり、大衆の中で生きる人々の現実が見えていないことを表していたように思う。
 最初の眞人は典型的な金持ちのボンボンの世間知らずの軟弱の文学青年であり、その眞人が母の死をきっかけに変わっていく。
母親の死後、親父が母の妹と再婚して、田舎に引っ越すことになる。親父は航空機製造業の社長であり、空襲を避けて引っ越すことにしたのだろう。
その中で眞人の母親とよく似た妹との再婚を受け入れられないまま、田舎へ引っ越しした眞人は継母の夏子を受け入れられない。
また、引っ越しをした田舎の実家ではお手伝いさんがガメツイ(大衆)。
これも都会では触れ合わなかった人との出会いで、眞人としては強い違和感を感じたのではないかと思う。
そうした中で、主人公は『君たちはどう生きるか』を読み、涙して自分の世界観が変わるきっかけを見つけて、別の世界(恐らく精神世界)への冒険へ向かっていく。


『アオサギ男』
アオサギ男、あれは眞人自身であり、大衆を表しているのだと思う。眞人がアオサギの羽で作った矢は、大衆自身が以前発した言葉で自分自身が縛られてしまうことの比喩であり、それによって飛べなくなるのは、大衆が何も言えなく、言わなくなってしまうことを表しているのだろう。愚かで卑怯でありながらも、憎めない良い人の部分も持ち合わせているという大衆の二面性を描いており、それは眞人自身も持っているもの(自分で石で頭にぶつけたのにも関わらずにケガの理由を言わずに学校や周りに心配や迷惑をかける)であるということで、ブルジョアの特権階級である眞人もまた大衆であることを表していたのではないだろうか?
で、最後の方で眞人が「アオサギ男」も友達としたところで、自分の大衆性と、これから工場の跡取り息子として、大衆(労働者)を一人一人の個人として向き合うことの覚悟を決めた。それはガメツイお手伝いさんも含めた美しい精神性ばかりではない人々の世界に根を張って生きていくということを
決めた。だからこそアオサギは世界に一緒に来たが最後消えていったのであろう。


『我から学ぶ者は死すとペリカン』
石のお屋敷の中に落ちていくと『我から学ぶ者は死す』と書かれた門とその墓が出て来て、ペリカンの大群に押されて中に入っていく。
これは我から学ぶ者は死すとは、ニヒリズムの比喩表現だと思う。ニヒリズムとはそれに落ちたものは抜け出せずに狂ってしまう。中には自殺をしてしまうものもいるわけで、文学者であった「芥川龍之介」「太宰治」が死んでいった。またペリカンは「大正教養主義」を表しており、大正的な教養、つまり『西洋的な文脈での教育や文学』と実生活での『日本的なモノ』、和魂洋才の葛藤、特に文学を学ぶエリート層が陥った分離状態での葛藤とその葛藤の中で生まれるニヒリズムを描いていたのではないかと思う。
つまり、ペリカンに押されて、『我から学ぶ者は死す』と書かれた門に入っていくということは、ニヒリズムに陥る文学青年の陥る病を比喩として描いているのではないかと思うのだ。

『老キリコと若キリコ』
キリコというお手伝いさんが出てくる。ガメツイお手伝いさんの一人であり、老婆であった。しかし、別世界に行くと男らしいサバサバした若い女性として出てくる。
若い時と年を老人になった時の精神性の違い、つまり若いときは積極性があり、責任を持って労働できるが、年を取ると保守的になり、チャレンジ精神を欠いてしまうことを描いたのだろうか?で、それまた人間であり、仕方ないとしたのだろう。


『石の塔と積み木、大叔父とインコの大将、そしてインコ人間』
物語の後半、石の塔が天から降ってきたことが描かれている。それが丁度明治の御一新の時であると書かれていることから、あれは明治体制(西洋化した戦前の日本)のことを表している。田舎の旧家の泉に落ちたということはいかに明治体制が異質なものであり、無理やり作り出したものかを描いたのだろう。そして主人公の実家が色々と囲おうとしてケガ人を出したことが描かれていたが、それを日本人自身が変えようとして変えられなかった、つまり違和感を持ちながらもそれを受け入れた日本人自身の苦労を比喩していたのではないかと思う。積み木が壊れるというのは、大東亜戦争(太平洋戦争)の敗戦で、その異様な建築物が壊れたことを描いているのだろう。
それを壊したインコの大将は軍部であったのだろうし、インコの大将は一応に彼なりの正義感や美学を持って、大叔父が作った世界に対して責任を持っていて、卑怯なものではなかった。あれは、敗戦時の陸軍大将の阿南惟幾を表していたのではないか?そして壊してしまったのは陸軍(軍部)自身も日本帝国の崩壊を意図しておらず、彼らなりの美学や正義感があったことを表しているともいえるのではないだろうか?
 で、大叔父は大御心、つまり天皇陛下を表しており、大叔父とインコの大将の関係は大日本帝国における陛下と軍との関係を表していたものと言えるかもしれない。主人公が、積み木を作るのを拒否したことは、所謂民主制の移行を示していたのではないか?
 主人公を食べようとしたインコ人間はファシズムや主戦論に熱狂した大衆を表したものであり、主人公を食べようとしたシーンは非国民と断罪した異様な空気感を示したものかもしれない。インコの大将が理性的であったものと比較すると大衆の危うさを敢えて描いたのではないか?と感じた。

『夏子とヒミ(久子)』
 もう一人の主人公は夏子(主人公の母の妹かつ継母)であろう。夏子自身も主人公の眞人同様に受け入れられていなかった。主人公と同様にアオサギ男(夏子の場合は女だったかも)がいたのだろう。
 彼女の場合は、奪ってしまったという罪悪感も持っていたのかもしれない。そういう意味では主人公と対立しつつも共鳴するものもあった。
 主人公が母(ヒミ)に連れられて彼女が寝かされる部屋で夏子を母と呼んだのは、主人公からの和解だろう。そして、最後の出口で別の出口でヒミと分かれ、夏子と一緒の出口に進むのは、現実を受け入れたことを表しているのだろう。


色々と書いたけど話が纏まらない。誰か喋ろうぜ!!!

で、色々と解釈は出来るんだけど、あの話が何を言いたかったのかは分からん。その辺りの話も聞いてみたい。

以上、たらたらと書いてみた。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?