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岡田龍生監督 60歳からのラストチャレンジ【注目の高校野球監督インタビュー公開!】

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2022年3月31日発売の『別冊野球太郎2022春』に掲載されたインタビュー(取材を行ったのも3月)です。

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年齢的区切り、異動先が母校とはいえ、名の知れた私立の強豪校から強豪校へ監督がノータイムで異動するのは珍しい。異動の背景、準備、目指す野球……気になることだらけの岡田龍生監督に、取材時期的に履正社監督として最後の、発売時期的に東洋大姫路監督として最初ともいえるインタビューをお願いした。
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大阪2強の一角から母校へ帰還

 大阪桐蔭が他を圧倒した秋季近畿大会の閉幕から4日後。午前10時から東洋大姫路高校(兵庫県姫路市)の一室で会見が行われ、2022年3月を持って藤田明彦監督の勇退と、後任に同校OBで履正社監督の岡田龍生が就くことが発表された。この発表を受け、同日の午後3時からは、大阪府茨木市にある履正社高校野球部グラウンドに隣接されたクラブハウスで岡田が記者たちの取材に応じた。一連の経緯と現在の心境を語った。
 60歳の区切りが見え始めた頃から、雑談の中で岡田はよく冗談めかして言っていた。
「再雇用で続けるとしたら、たぶん給料も半分くらいになるので、嫁さんからは『ゴルフも半分にせんとね』と言われてるんですよ」
 しかし、いくつかの選択肢の中から下した決断は母校へ戻っての新たなチャレンジ。近年は大阪桐蔭と大阪2強を形成し、2019年には全国制覇。今や全国屈指の強豪から、こちらも全国制覇の経験も持つ隣県の名門校へ。それも監督として脂の乗っているタイミングでの異動。例の少ないダイナミックな動きに、この先への興味が一層強く沸いてきた。
 岡田は保健体育の教員だが、4月からの肩書は東洋大姫路の教諭ではなく、東洋大学の大学職員。藤田監督の時と同様、学校法人東洋大学との雇用契約で、大学が強化指定する東洋大姫路の野球部へ出向する形となる。
 グラウンドもなく、同好会レベルの選手10人ほどのところから履正社をここまでに育て上げた手腕と実績。当然、東洋大姫路側の期待は大きく、会見に出席した大森茂樹校長の言葉にも力がこもっていた。
「岡田監督には池田高校の蔦(文也)監督のような攻めダルマのイメージがあります。ぜひ本校でも強打のチームを作って頂きたい」
 古くから履正社を知る者なら、守り、バント、走塁こそ、履正社カラーとの思いがあるが、近年の戦いからはやはり「強打の履正社」。岡田も母校の近年の戦いに、打撃強化が最重要課題と認識している。
「秋もエースの森健人くんが頑張ってディフェンスと、藤田さんの勝利に賭ける執念でセンバツ切符をつかみましたが、この先は、打力をどう上げていくか。履正社が97年に初めて甲子園に出た時もディフェンス重視、攻撃はバント、バントで試合のスコアはいつも1対0、2対1、3対2……。
 でも甲子園に出て痛感したのは打たないと全国では勝てないということ。そこからはどうやったら打力が上がるか、と取り組み、その結果2度のセンバツ準優勝、2019年夏の日本一にもつながっていった。僕の現役時代、2つ上のチームが全国制覇を果たした時も、大黒柱の松本正志さん(元阪急)がいましたが、打力もすごくて、1番から9番までホームランを打てる人が並んでいました。だから、僕の中には、打力の東洋のイメージもあるんです。この先は〝強打の東洋〟と言われるようなチームを作っていきたい」

 話を聞きながら、昨今の東洋大姫路の戦いぶりは4半世紀前、履正社が初めて甲子園に出場した当時に近いものに思えた。昨秋の東洋大姫路の公式戦の打撃成績を見ても、公式戦9試合でチーム打率は3割に届かず、本塁打はゼロ。地区大会からのスコアもロースコアの戦いが続いた。ここ数年は打てない中で、2011年を最後に甲子園からも遠ざかっていた。
 打力強化のプランをどう描いているのか。ここで岡田はトレーニングの重要性を挙げた。
「秋の大阪桐蔭との試合をネット中継の解説をしながら見ましたけど、東洋の選手は細い。履正社と桐蔭の選手なら体はそう変わらないけど、東洋の子と比べたら、大人と子どもくらいの差を感じた。体の差を詰めていくために、履正社でも力を入れたのがトレーニングでした」
 岡田は東洋大学側と具体的な話を重ねる中で1つの要望を出した。それがトレーニング施設の充実だった。
「履正社の野球部ではこういうことをやってきました、と伝える中で『チームにとって一番大事な場所はトレーニングルームです』とお話しさせてもらいました。技術だけを求めてやっていても思うような結果を出すのは難しい。トレーニング、食事、睡眠も練習という意識を持ってやることが大事」
 履正社では会見が行われたクラブハウスの中にトレーニングルームがあり、トレーナーの指導の下、年間を通しての体作りを続けている。もちろん、体格的に恵まれた選手が入学してくることも少なくないが、継続的なトレーニングの結果、さらに高校3年間で体のサイズも中身もしっかりと成長。ここがベースにあっての強打でもあった。
 その点、昨秋の近畿大会のパンフレットを見ると、東洋大姫路の秋のベンチメンバー20人の内12人は身長170センチ以下で、15人が体重60キロ台。他の出場校のメンバーと比較しても、体は小さい。
 そうした岡田の要望を受け、現在、東洋大姫路の練習グラウンド横に立派な室内練習場とトレーニングルームが建設中。5月末の完成を予定しており、【強打の東洋】への一歩が踏み出されようとしている。

ノックで鍛える岡田野球

 この会見から気づけば4カ月が経過。コロナで動きも制限される中、区切りの4月が迫り、あらためて「履正社の岡田」に最後にもう一度、話を聞いておきたいと思い、3月の初めに履正社のグラウンドを訪ねた。
 会見で語った強打を目指す一方、履正社の強さを支えてきたものに堅守を誇った守備がある。岡田のこだわりでもあり、話は広がった。
「どうしても打つことがクローズアップされがちですけど、戦いの基本は守り。そこは僕らの現役時代に教わったことでもありますし、あくまでディフェンスを鍛えて、そこに打力。かつてのPL学園も今の大阪桐蔭も守備はムチャクチャ鍛えられてる。計算できるものをもってるチームは強いですから」
 履正社の守りを作り上げてきた柱が岡田のノックだ。圧倒的なテンポ、強弱をつけながらギリギリを攻める打球。練習で見るノック風景にはこれまでしばし見惚れてきたが、まさに一級品。このノックで選手たちは磨かれ、履正社の負けにくいカラーもできあがっていった。ノックの話に岡田がさらに乗ってきた。
「履正社の前に2年間コーチをさせてもらったサク高(桜宮高校)の時にメチャクチャ数を打ってノックを覚えていったんです。ノッカーがうまくないと野手は育たない、と僕も指導者から言われてきましたし、実際そう思っていましたから。一度、ここに小倉さん(清一郎、元横浜高校)がふらっと来た時にも『あんたはノックがうまいから履正社は強くなるよ』と言われたことがあったんですけど、とにかくいろんな打球が打てるように、ひたすら打ってきました」
 阪神の矢野燿大監督がいた当時の桜宮で、24、25歳の時にコーチを務め、26歳で履正社の監督に就任。ここからノックに一段と磨きがかかり、スピード感が増していった。
「それには理由があって、当時は部長もコーチもいなくてノッカーが僕一人。守ってる選手を休ませないために、どんどん打っていくしかないから、テンポが上がっていったんです」
 97年に甲子園出場するまでは部長兼任。まさに1人でチームを作る中のノックで鍛えた守りが戦いを支える生命線だった。
 何より、ノックのレベルが60歳になった今も保たれていることに驚かされる。
「体がリズムを覚えてるから今更テンポを遅くもできないんです。体はそれなりにボロが出て、膝にサポーターを巻いたり、ノックを打ち終わった時の疲労感には年を感じます(笑)。でも、もうしばらくは打ちます。せめて後継のノッカーが育ってくるまでは」
 岡田が現役時代の強い東洋大姫路を作った梅谷馨監督、田中治副部長(監督経験もあり)の2人もノックの名手だったという。梅谷監督は主に内野ノックを担当。難しい当たりではなく基本の動きを確認させるような打球が持ち味だった。一方、田中副部長の外野ノックは、落とす、伸ばす、スライスにフックまで自由自在。「狙って外野ポールに当てたことがある」「阪急ブレーブスの上田利治監督からノッカーとして誘われた」などの逸話も残す伝説のノッカーだった。
 2人のDNAも引き継ぐ岡田が、甲子園モデルで作られた現在の東洋大姫路の練習グラウンドでノックバットを振るう日が何とも楽しみだ。
「ノックを打つとなっても、しばらくはペースに慣らしていかないと選手は動き方もわからないし危ない。でも、最初にちょっとノックを見せて、生徒をびびらせなアカンっていうのは思ってます。新しい監督が来て、どんなもんや、って見てくるでしょうからね、こっちもなめられんように見せていかんと(笑)」
 岡田流のノックが当たり前に繰り広げられるようになった時、東洋大姫路の伝統でもある堅守がもう一段レベルアップすることだろう。

“チーム東洋”ができるかどうか

 全国屈の強豪へ駆け上がっていった履正社のチーム作りには、役割分担を明確にした指導者の働きもあった。岡田を中心に、長く部長として支えた松平一彦(現大阪体育大野球部コーチ)、副部長で4月から岡田の後を継ぐOBの多田晃。さらに投手コーチは社会人で実績のある2人が引き継ぎながら務め、体作りの面は信頼の置けるトレーナー、スカウティング部門も岡田の東洋大姫路時代の同級生が中心となり長く支えた。
 何もないところから岡田が作り上げていく中で“チーム履正社”とも言うべき組織が確立。近年のチーム作りはより安定した形の中で行われるようになっていたのだ。
 今回、岡田が新天地へ移ると聞いた時、気になったのがこの点だった。気心の知れたスタッフや教え子、岡田野球を知る者を連れていくのか、どうか。しかし、結果は単身での挑戦。当然、このあたりについては岡田にも思うところがある。
「今までは僕の考えをわかってくれているスタッフの中でやっていたので、1つ言えば考えを察して3も4も動いてくれた。いろんな情報もグループラインで共有しながらやっていましたし、流れができてからは楽でした。だから、これからは生徒だけじゃなく、コーチやスタッフに僕の考えをわかっていってもらわないといけない。これがどのくらいのスピードでできるかですね」
 これまで東洋大姫路で藤田監督を支え、引き続き残る3人のコーチとはすでに面談をし、岡田の考え方や、大きな方向性は伝えてある、と言った。4月からはそこに岡田のつながりで社会人経験のある東洋大姫路OBが投手コーチに、さらに東洋大学卒業の新卒スタッフも加わる。ここから“チーム東洋”と呼べる組織ができ上っていくのか。チーム作りと並行し、注目していきたいところだ。

残された時間は少ないが

 岡田野球の1つの肝は、選手に考えさせるところにある。自身の現役時代を振り返りながら、このあたりの野球観の変遷についても話が続いた。
「高校時代は全国でも1、2じゃないかと思うくらいの練習をやっていたと思います。しょっちゅう辞めてやろうと思っていましたから。言葉は悪いですけど、監督のロボットみたいなもので、特にキャプテンは何かにつけて怒られる。いつも頭にきながら、ノックの時なんかもノッカーの梅谷監督をめがけて投げてましたね(笑)。でも、先輩も僕らもそれで勝っていたので、これだけやってるからや、とは思っていたんです」
 それが、どこで変わっていくのか。
「大学、社会人と経験する中で、練習でも試合でも自分で考えて動けないと伸びていかない、と気づき始めて、これまでの野球でよかったんかな、と疑問を持つようになっていったんです。それでも自分が指導者になると、やっぱり経験に頼って、生徒には厳しくいってしまってたんですが」
 97年、監督就任10年目でつかんだ初の甲子園から5、6年が過ぎた頃。生徒へのいきすぎた指導により謹慎。ここでじっくり考える時間を持ち、やらせる野球から、選手自らが考え、動く野球へと方針転換。それからは言いたいこともしばしば飲み込み、選手がサインを出す紅白戦なども頻繁に実施。できないことを怒るより、考えの見えないプレーや行動を指摘するようになっていったという。
 あらためて話を聞きながら、ロボットのように動いていた岡田が40数年を経て、自著のタイトルである『教えすぎない教え』を語る指揮官となり、母校のグラウンドへ戻って来たことに感慨深いものを感じた。
 さあ、新天地での再挑戦。どんな展望を持っているのか。戦いの舞台も大阪から兵庫へ替わる。
「兵庫に大阪桐蔭はいませんからね(笑)。大阪ではPL学園、大阪桐蔭と、ここを倒さないと甲子園にいけない、という明確な相手がいましたが、今の兵庫にそこまで抜けたところはない。その中で選手が集まっているのは神戸国際大付属、明石商、報徳学園……ですかね。もちろん、スカウティングも大事になるので、一定のレベルの選手がきて、しっかり教えていくことができたら十分勝負になると思っています。あとは兵庫の場合、大阪と少し違って公立が戦いの中で絡んでくる率が高いので、このあたりは実際公式戦でやってみてどんな感じなのか。ただ、頭の中は兵庫で勝つことより、どうやって甲子園で勝てるチームを作るか。そっちにあるので、守りをしっかりやりながら、やはり打力をどれだけ上げていけるかです」
 展望は明るいが、時間はそうない。藤田が今回65歳で勇退となったのも、学校法人東洋大学の規定に沿った定年退職。岡田も雇用先は東洋大学であり、普通に考えれば残された時間は5年ということになる。
「初めにお話をいただいた時に『3年で』と言われたので『3年は厳しいです』と言わせてもらったんですが、僕の中にも5年という頭はあります。履正社の35年で得たノウハウを5年で伝えて、しっかり結果も出したい」
 当然、周囲の期待は大きく膨れ上がっており、重圧も大きいだろうが、ここは笑顔で流した。
「この年になったら、そういうのはもうあんまりないですね。謹慎もしたし、センバツ決勝で2回、大阪の決勝でも負けたり、逆に日本一にもなれたし。いろんなことを経験させてもらってきたので、だいたいのことは大丈夫です」
 とはいえ。東洋大姫路の野球部は伝統も全国制覇の歴史もある。特に姫路は地元の野球熱が高く、熱心なファンも、勝ってきた経験を持つOBも多数。その中で東洋大姫路の野球や伝統といったものは、どうとらえているのか。
「今は時代もどんどん変わって、『東洋の野球はこうでないと』という時代でもなくなっているはず。藤田さんは真面目な人なので、『伝統を守らな』という気持ちは僕よりはるかに強かったと思います。でも、僕は藤田さんほど真面目じゃないんで(笑)。勝っても負けても責任を取るのは監督、履正社で後を継いでくれる多田先生にも『好きなようにやったらいい、なんやったら、ユニフォームを真っ赤にしても緑にしてもいい』と言っていますし、僕も好きなようにさせてもらいます。
 それに『東洋の伝統って何か』と考えていくと、最終的には『強い東洋大姫路』に行き着くんじゃないか、と。そう思えば、すべては勝つため、勝利を目指すことが野球部の伝統を守ることになるだろう、と思っています」

 すべてを受け入れ、腹を据えての挑戦。吹っ切れた明るい話っぷりに伝わってきたのは確かな自信と、野球人生の終盤戦に母校で野球ができる喜び。かつては着慣れていたのだから当たり前と思いながら、アイボリーに紺で胸に「TOYO」。このユニフォームが似合いそうですね、と向けると胸の昂りが聞こえてきそうな笑顔で返してきた。
「僕はあのユニフォームを着たらサードに走っていきそうな気がしてるんです」(高校時代サード)
 汗と泥にまみれた青春時代を思い出しながら、60歳新監督の新たな挑戦がここから始まる。

(文中一部敬称略)
取材・文=谷上史朗