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自分は何者か、何者でもないのか?〜哲学から答えを探る〜

「自分は何者か、何者でもないのか?」
10代の思春期で他者との違いや普通とういう言葉に踊らされ、社会に放り出され、20代から30代で社会人としての役割から生まれる悩み。
人の営み=対人関係の中で生まれ続ける悩みとも言えます。
いろいろと悩むなかでたどりついた哲学。
数千年前、哲学者たちも同じことを悩んできたらしい。
現代人の悩みごとなのかと思っていたら、数千年人類が悩んできたらしい。
僕自身ずっと探求し続けている「自分」。
自分は何者なのか、それとも何者でもないのかを考えたことをつらつらとまとめます。



 自分は一体、何者なのか? また、何者になりたいのか? 誰しもそんなことを考えるときがあると思います。
一般的には青春期に抱きがちな悩みであるものの、この変化の激しい時代にあっては、いくつになっても突如としてそうした疑問に襲われることがあります。
いろんな方と学びを共有する中で、この問いに向き合ってきました。
新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)も、そんな悩みを持つのに十分な不確実性をもたらしましたのも事実。
自分は何者だったのかと。

自分を確立せよ

まずは「自分とは何者かが分かる」と考えている、米国の発達心理学者エリク・エリクソンから紹介します。エリクソンはアイデンティティーの概念で知られています。アイデンティティーとは自己同一性とも訳され、分かりやすくいうと自分が何者なのか、分かっているということです。

人間は成長しますし、また環境も変化していきます。そんな中で、いろいろな役割を演じなければならないでしょう。しかしながら、そうした多様な自分を統合する何かがあるはずです。それこそがアイデンティティーにほかなりません。

エリクソンは、その意味でのアイデンティティーのことを、「私」とも表現しています。この「私」はさまざまな自己をすべて経験した存在であり、またさまざまな自己すべてを意識し得る存在でもあります。だからこそ生きているという感覚、ひいては実存の本質的基盤という感覚とほとんど同じものだとさえ言うのです。

こうしたアイデンティティー、あるいは「私」は、確固たる存在であって、まさに何者かとしての自分なのでしょう。エリクソンは、そんな自分を確立せよと言うのです。そしてそれは、彼が漸成(epigenesis)と呼ぶ概念が示す通り、もともと自分の中にあるものが発生するとともに、次第に形成されていく過程にほかなりません。

つまり、私たちの中に自分の基となる素質があり、それが経験の中で発達すると同時に、新たに形成されていきます。世の中の変化が自己を新たに形成するための契機になるというわけです。これは、割と実感が湧く考え方であるように思います。

確固たる自分なんてない

これに対して、そもそも「確固たる自分などない」と主張するのが、フランスの哲学者ミシェル・セールです。セールの考え方を理解するためには、同じフランスの近世の哲学者デカルトにまで遡る必要があります。

デカルトといえば、「我思う、ゆえに我あり」のフレーズで知られる自分発見のパイオニアです。彼は考える自分というものがこの世に存在し、それこそが私たち人間の本質だと言ったのです。

哲学の世界では、基本的にこの考え方を支持してきましたが、セールは全く正反対のことを唱えました。考えるということは、必ず何か考える対象があるはずです。ということは、何か対象がなければ、考えることはできません。そしてデカルトが言うように、考えることが私の本質なのであれば、対象がないときは何も考えられないのですから、私は存在しないことになってしまいます。

つまり、私たちは何か対象があって初めて存在するということです。本当は「我思う、ゆえに我なし」だということです。もっともセールは、私たちがエートル(フランス語の基本動詞)、英語でいうbe動詞のようなものだとも言えるとしています。なぜなら、Iが主語ならamになり、Heが主語ならisになるように、対象によって形が変わるからです。

その点では、自分は存在するのでしょうが、少なくとも確固たるものとはいえないでしょう。自分が何者なのかは相手や対象次第。誤解を恐れずにいえば、あたかもカメレオンのように環境によってその都度変わるということです。この考えもまた、ある意味で説得力があります。

死ぬまで自分が何者かに悩む

果たして自分は何者かになり得るのか、それともなり得ないのか。この問いだけになら、エリクソンもセールも同じ答えを与えることができそうです。どちらに従っても、おそらく何者かにはなれるのでしょう。なぜなら、仮にセールのいうエートルのような自分であったとしても、相手や対象によって変わる存在として、何者かではあるからです。

現に私たちは、日ごろ相手や対象によって複数の自分を使い分けています。親としての自分、社員としての自分、地域の役員としての自分、あるいは最近だと副業も増えていますから、本業とは別の仕事をするときの自分といったようにです。

問題は、確固たる自分はあるのかという点です。これもまた、固定されない自分を意識し、受け入れているなら、確固たる自分といえるような気がします。何にも影響されることなく、全く変化しないのが確固たる自分だとしたら、それこそあり得ないのではないでしょうか。エリクソンでさえ、経験や環境によって自分が変化することを前提にしています。

結局、自分とは、それがある程度確立されていようが、固定されていなかろうが、変化することを運命づけられた存在であることは間違いなさそうです。だからこそ、何者なのかという悩みは死ぬまでつきまとうのです。生きている限り、自分とは「形成された」ものではなく、常に「形成されつつある」ものなのではないでしょうか。

人生は奥深い。


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