数学用語のできるまで 第3回 適切かどうかより

前回、『東京數學會社雑誌』(1880)に掲載された或る文章の前半を読んでみた。そこでは、数学の用語をどのように訳すかという課題が論じられていた。今回は、その続きを見てみることにしよう。

 これは特に数学に限ったことではない。あらゆる学問で同じようなこと〔マセマティクスを数学と訳すように、原語の意味を必ずしも反映しない訳語を使うこと〕がある。

 仮に不適当な用語〔訳語〕であっても、無名なものより有名なほうがよいし、不定であるより定まっているほうがよい。と、こう考えるわけである。無名であったり不定であったりする用語は、学問の進歩を害することも少なからずあるだろう。とはいえ、いやしくも学問の進歩を目指すなら、その〔学問で使う〕用語を定めるのが、たいへんな急務なのである。それが適切か不適切かといったことを問うている場合ではないのだ。

 ただし、〔用語を〕定めるといっても、一人で勝手に決めるようということではない。みなで定めようというわけである。なぜなら、人はみな、それぞれ違う意見を持つものだ。一人で決めたからといって、みなが従うものではない。この東京数学会社で「訳語の会」を設置するのもこのためである。つまりこの会では、多くの人が同意する訳語を、一つ二つ選ぶ。

 議論の場では、語の適不適を論じるにしても、まとまらずに用語が遅々として決まらないということがないようにしたい。その場合、小さな事にこだわって、事の本質が分からないという非難を招くだろう。そこでみなさんには、始終、用語を定めることに集中して欲しい。とはいっても、熟していない字や、俗っぽすぎるような語は、私としても採らないことにする。

 これまで長いあいだ定訳がなかったことについては、数学社会一同、嘆かわしく思っていたところだ。この会社をつくって以来、訳語について問題を提起したのは私だけではなかったが、今日までのところ手つかずだった。そこで私が、死馬の骨〔より優れた人を引きこむための踏み台〕になろうと、草案作成の仕事を買って出て、ここに端緒を開こうというわけである。議事を停滞させたくないという杞憂のあまり、あえて一言をみなさんに申しあげた。だからといって、みなさんは私を侮蔑して責めないで欲しい。

 ここまでが前口上のようなものだ。

 つまり、この筆者(あるいは語り手)は、東京数学会社のメンバーに向けて、訳語の会をつくる理由を説明しているわけである。

 面白いのは、訳語の適切さよりも、すでに広まっているもの(無名より有名を)、なにもないよりは決めること(不定より定を)優先するというその方針。

 前回見たように、もともと「サイエンス」という意味の「マセマティクス」という語を、まるで違う意味の「数学」と訳してよしとするのも、この方針による、ということだろう。

 この提案がなされたのは1880年頃のことで、江戸幕府が倒れてから、まだ十余年のタイミングである。これからヨーロッパ流のマセマティクスを日本でも学び発展させていこうという段階で、ともかく言葉を整理しようじゃないか、という抱負が述べられている。

 具体的には、どのように議論が進むのか。これが興味のあるところ。前回と今回、現代語訳で読んでみた「訳語会議院諸君に告ぐ」(★1)に続いて、同じ人物が「「ユーニット」の訳語」という文を寄せている。この例を見ると、彼らがどのように訳語を検討しようとしたかも見えてくる。次回、これを読んでみることにしよう。

★1――中川将行「譯語會議院諸君ニ告ク」(『東京數學會社』第29巻第3号、1880、所収)原文は、あとでまとめて掲載する予定。

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