コートに吹く風

乗る電車を間違えていることに気づくのは、いつも見知らぬ駅の名がアナウンスされる頃だ。読んでいた文芸誌から顔をあげて車内の電子掲示板を見ると思わぬ場所へ運ばれていた。

次の駅で降りて逆方向の電車に乗る。間違えた直後なので慎重に。といっても、以前この調子で幾重にも間違えたことがある。確実に到着するまでは油断がならない。

気を取り直して乗った電車はたいへん混んでいる。ドアのすぐ横のスペースにぴったり収まってなるべく縦長になるよう務めていると、ベージュのコートをはおった男性が乗ってきた。ドアが閉じて電車が動き出す。私は正しい電車に乗っただろうか。

目の前のベージュコートの人は、眼鏡越しにスマートフォンの画面を見ている。ゲームをやっているようだった。その彼が、左手でコートの左襟のあたりをつかんで、ふーっと息をかけ始めた。

小さな点のようなものがついている。衣類につく小さな甲虫だ。男は間を置いては「ふーっ」とやる。虫はかえって繊維にしがみつく。男は息を吹く。虫も頑張る。風と風のあいまに、反対のほうへ逃げる。

もうすぐ到着する駅名がアナウンスされる。どうやら今度は正しい電車に乗っていたようだ。ドアが開く。ベージュコートの人も降りる。ホームで引き続きふーっとやっている。

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