プラトンの危惧を全力で実験

書かれたものは、それを読むのにふさわしくない人のところにも届いてしまう。しかも、書かれたものは、不適切な読まれ方をしても自分では反論できない。

古代ギリシアの哲学者プラトンは、どこかでこういう意味のことを書いていた。文字の効能と問題を論じたくだりだったと思う。

私もそう思う。Amazonのカスタマーレビューなどを見ていると、「ああ、この本も(少なくともいまは)読まれなくてもいい人のところに届いてしまったのだな」というケースをまま見かける。もちろん何を読もうが人の勝手である。

例えば、学術の専門書は、一定のトレーニングを積んだ人に向けて書かれている。そうしたトレーニングを積んでいない人がいきなりこれを読んで、「難しすぎて分からない。けしからん」と述べたとしても、基本的には「そらそうだろ。勉強してから出直しなさい」で終わりである。これはある本が、それを読むのに相応しくない状態にある読者と遭遇した場合。

ただし、この出合いがいつも不幸であるとは限らない。「うーん、難しすぎて分からない。でも、ここに書いてあることを理解したいから、基礎から学ぼう」という人が現れることもある。同じ本でも、読み手の状態によって、その意味と価値は変化する。それは結果的に幸福な出合いとも言える。

ところで、このところのTwitterは、プラトンの危惧を全力で実験してみる装置の様相を呈しているように見える。

といっても、もともとTwitterの仕様からして、投稿した言葉は、相手を選ばず送り届けられる可能性があった。その結果、投稿者の意図とは別の読み方がいたるところで生じる。もちろんそれはそれでひとまず構わない。言葉とはそういうものだ。

ただ、Twitterの仕組みによって、投稿されたテキストと多様な読み手との組み合わせが機械的に生成されることで、不要な出合い――なにをもって必要か不要かということ自体自明ではないのだが一旦こう述べてみる――と、それに端を発する摩擦が生じている可能性もある。

おそらくTwitterを設計した初期段階では、面白いことや役立つ知識を共有しようぜ、というノリだったのではないかと思う。そして実際そうだった。あっけらかんとした性善説による設計といおうか(もしTwitterの設計者たちが、現在のような殺伐とした状況になることを予見していたら、どういうインターフェイスにしただろう)。

しかしいまになってみて明らかなように、投稿した内容が誰にでも届きうるというのは、よいことばかりではない。あちこちで時々刻々と生産されている大量のいわゆるクソリプや、各種の差別発言、立場を異にする人への罵詈雑言を見ていると、「人類にTwitterは早すぎたんや……」という冗談が冗談とも思えなくなってくる。

というよりも、見ず知らずの人同士が顔の見えない状態でテキストを交わすという設定が人類には早すぎたのだと思う。人類が言い過ぎなら、日本語による利用者と限定してもよい。

思えば私たちは、誰もが一応共通で受ける義務教育において、こうした環境で不特定多数に向けていかに発言するかといったトレーニングをほとんど積まない状態で卒業しているのではないか(マナーや注意はあるとして)。

では、どうしたらよいか。仮に、他人に対する最低限の礼儀を弁えることを人に期待できないとしても、少なくとも次の二点を理解していれば、投稿できなくなるツイートも多々あると思われる。

①インターネットではどのような仕組みで投稿が送信されるか
②名誉毀損と著作権に関する法律ではなにを規定しているか

①は、アカウントが匿名だからといって、ネット上で必ずしも匿名が保証されているわけではない仕組みを理解するという意味である。②は、自分の投稿が違法行為に該当しないかどうかを考えるという意味である。

ただし、実名のアカウントでヘイトスピーチまがいの投稿を繰り返す人もいるので、①が完全な抑止になるわけではないらしいことは窺える。とはいえ、自分は特定される恐れがないと勘違いして投稿している人びとに対しては一定の効果があると思う。

もっとも、この二つのことをそれなりに理解したり、教えたりするのは簡単ではないかもしれない。となると人間には期待せず、Twitterのシステムによってある程度、問題を解消する方向で考えざるを得ないのだろうか。

冒頭のプラトンに戻れば、いまなら投稿したツイートが、それなりに自衛する仕組みも技術的に可能だと思う。という話は長くなったので、また今度。

*以上は、季評「文態百版――人間の記号接地問題」(『文藝』2019年冬季号、河出書房新社、2019)の第3節「差別の構造を見直す」で書き切れなかったことの一部を述べてみた。

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