話し言葉と書き言葉

金沢へ向かっている。

日頃どちらかといえば出不精で、用がなければ家で静かにしていたいほうである。このたびも、故あって金沢工業大学へ向かっている。仕事である。

車中は、できればゆっくり小説か詩でも読んで過ごしたい。しかしこれは願望であって、実際には「マルジナリアでつかまえて」という雑誌連載の文章を書いていた。

途中何度か睡魔に襲われて眠る。目覚めると続きを書く。また眠る。ときどき体が寝なはれと言ってくる。ここ数日は不調もあいまってリクエストが多い。こういうときは逆らわないようになった。

3000文字ほど書き終えて、あとは推敲するばかりのところで、担当のTさん(原稿などにもお名前を記すたび、気づくとこう直されているのでここでもそうしておこう)から、そろそろどうですかとメールが届く。

本当はプリントアウトして赤ペン片手に直したい。だがあいにくプリンターはない。せめて画面上でうまく見直そう。

できれば音読したい(私は原稿を見直すとき、音読するようにしている)。しかし、あいにく車中には他の旅客も乗っている。せめて脳裏で擬似音読をしよう。

同じ文章でも、黙読だけでさっと読むのと、声に出して読むのとでは随分印象が違う。私はどちらかというと、音読してしっくりくる文章が好みである。

いま何度目かの試行錯誤をしながら書いている日本語の文法の歴史に関する本でも、話し言葉と書き言葉の関係を整理する必要を感じているところ。

両者がいかに違う言語かということは、誰かのおしゃべりをそのまま文字に起こしてみると分かる。聞いていたときには意味が分かったのに、文字になると読みづらく、ところどころ意味が通らないということがある。

これとは逆に、書かれた原稿を誰かが読みあげるのを聞くと、理解しがたいこともある。仕事で各方面の学会発表の音声なども随分文字起こしをしたが、話が分かりづらくなる原因の一つは、原稿読み上げである。ただし、原稿読み上げの音声は、ことの次第からして当然ながら、文字に起こすと読みやすい。

おそらく話し言葉では、理路整然とするだけではダメで、耳から入った音の意味が像を結ぶまでの時間を要するのだろう。話す速度、ポーズの置き方、繰り返し、なんらかの冗長さなどが適度に必要となるわけである。

いったんこのように区別したが、実際には両者は入れ子のようになっている。ことはもうちょっとややこしいはずである。

話が思わぬところに出た。しかしそれでいいのだ。

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