数学用語のできるまで 第4回 Unitをどうすべきか

 日本語の数学用語は、どのようにつくられてきたのか。

 明治期に、欧米からの文物の移入がそれまで以上に増える。そうしたなかで、学術の各方面についての知識ももたらされた。その際、英語、ドイツ語、フランス語をはじめとする異言語の用語や概念を、日本語でどう受け止めるのかという翻訳の課題も改めて生じる。
(「生じる」といっても、江戸期にオランダを経由して摂取されていた蘭学や洋学でも、すでに検討されていた課題であった)

 はじめのうちは、人それぞれ、めいめいが必要に応じて自分で工夫をしていた。その結果、当然のことながら、同じ言葉でも人によって違う訳語を当てることにもなる。だが、それでは互いに話が通じなくて困る。というので、訳語を統一しようじゃないか、という機運も生じる。

 数学については、明治期に設立された東京数学会社で、訳語統一の検討が始まった。この連載では、その様子を眺めてみようという次第。幸い、彼らは検討の過程を議事録に残し、『東京數學會社雑誌』という学会誌に載せている。

 ここではもっぱらその議事録を読んでみようというわけである。

 さて、前回まで『東京數學會社雑誌』(1880)に掲載された「譯語會議院諸君ニ告ク」(『東京數學會社』第29巻第3号、1880、所収)という文章を眺めてみた。筆者(語り手)は中川将行。なぜ、訳語を統一する必要があるか、実際にどうやって訳語を策定するかを論じた演説である。

 今回は、その中川が Unit について検討した「「ユーニット」ノ譯語」(前掲同書、所収)という文章を見てみたい。

 面白いことに、Unit という単語については、なかなか訳語が定まらなかったようだ。

 というのも、訳語会では、毎回いくつかの言葉について、訳語案をもちよって提示しているのだけれど、他の訳語がどんどん決まっていくなかで、「Unity ?」(第27号)とか「Unit 未定」(第29号)などと、決まる気配がない。

 これに業を煮やしたのか、やはり中川が演説している。その内容を、現代語に訳してみる。こんな話である。

 「ユーニット」の訳語については、議論紛々で結局決まっていない。肝付兼行君が発議して「程元」と訳してはどうかと提案したが、賛成者はおらず、立ち消えとなった。私は、草案者という立場上、議論の場では賛成の意見を述べられず、たいへん不本意であった。そこで、これからみなさんに愚見を開陳して、次回の会で他にも賛成者が現れることを期待したい。

 程元――「程」は、国語で「ほど」と訳される。つまり、ものの度〔合い〕という意味だ。「熱度」の「度」のようなもの。例えば、「何程の力か」と言えば、「力量はどのくらいか」という意味である。また、「何程の水か」と言えば、「水量はどのくらいか」という意味である。したがって「程」が「量」と同義であるのは明らかである。ただし、「力量」とは言うが「力程」とは言わない。「里程」「航程」とは言うが、「里量」「航量」とは言わない。これは用語の習慣によるものだ。

 さて、「程」は「度」であり「量」であり、「数量」と通じている。およそ数量を〔計〕算しようという場合、まずはその「元」を立てなければならない。例えば、角度の大小を〔計〕算するには、「一度」をその「元」とする。米麦の多寡を〔計〕算するには、「一石」をその「元」とする。つまり、この「一度」や「一石」とは、角度や米麦の数量の程度である。〔こう考えることではじめて〕「この角はこれ「ほど」ある」「この米はこれ「ほど」ある」と言うわけも理解できる。したがって、「一度」や「一石」というものを総称して、数量の「元」、つまりは「程元」と訳すべきである。かつ、「程元」の字面は、ぱっと見て勘違いされるものでもない。これは最もすばらしい点である。

(『東京數學會社雑誌』第29巻第3号、1880より/「さて」の前の改行は山本による)

 訳語がなかなか決まらなかったUnitについて、「程元」という提案があった。だが、訳語会の検討の席では賛成者がなく、採用に至らない。「諸君、これはそう捨てたものではありませんぞ」と言ったかどうかは分からないが、中川は、この訳語でいいではないかという理由を述べて「程元」を推しているわけである。

 ここで注目したのは、中川による解説が、もっぱら「程元」という訳語案の語釈に集中しているところ。言い方を変えれば、Unitという英語が、これを使う英語圏での数学の文章でどのように使われているか、という検討ではない。

 というのは、あくまでも後世の目から見た後知恵に過ぎないが、こんなとき、私なら英語の文章でUnitがどう使われているかを検討して、そこからその文脈に適した訳語を考えてみたくなる。あるいは、そうしたことは出席者たちのあいだでは、すでに共有されていたのだろうか。彼らが、どのようなテキストから、こうした訳語のもととなる英語を抽出しているのか、この点もできたら確認したいところ。

 それはさておき、この演説で言われていることに、理解しがたい点はない。中川は、「程元」という語を構成する「程」と「元」という漢字の日本語における使われ方を例示している。「程」は数量という意味で使われる。その数量を計算するには「元」が必要だ。だから、程元でいいだろうという論だ。

 検討を要することがあるとすれば、英語の数学用語としてのUnitは、果たして「一度」や「一石」といった具体的な「元」とぴったり対応するのか、それともなにかズレがあるのか、といったところだろうか。

 また、ここで「程」や「元」と言われている言葉は、いまならそれぞれ「程度」や「単位」と言いたくなるところ。東京数学会社で、この議論が行われた1880年(明治13年)当時の日本語では、このあたりの言葉がどのように使われていたのか、いなかったのか。そう、こうした文章を読む際には、その当時の日本語の環境がどうなっていたか、という点によく注意しなければならないのである。

 というわけで、いくつかの宿題もできた。それについては、見通しが立ったところで別途報告することにして、訳語会の活動を見ていこう。

 Unitの運命やいかに。


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