精神の散歩のように(脱線・本線・試線について)

気ままな散歩のように、心に浮かぶよしなしごとを書いてみる。
私には、そういう精神の散歩が必要だ。

うろ覚えの記憶のまま書くけれど(だから眉にツバして読んでください)、エッセイ(essay)とは、もともと「試してみる」という意味だったと思う。

日本語ではどういうわけか、ちょっと気の利いた面白い文章のような意味で使われることも多いが、硬く訳せば「試論」、試しに論じてみるというのが原義だった。そういえば、モンテーニュの元祖『エセー』は、まさに、かたとき心のなかである考えを試してみた結果を記したものだ。

試してみることには、正解や不正解はない。こっちに進んだらどうなるだろう? これを押していくとどうなるかな。そんなふうにして、精神の上で実験してみるようなものだ。

これは、ロレンス・スターンが脱線小説『トリストラム・シャンディ』のどこかで書いていたのだが、ともすると悪いことのように見られる脱線も、そんなことでもなかったら試さなかった何事かを味わえるという妙味がある。ガリレオ・ガリレイも『天文対話』かどこかで、科学の議論を対話体で書いたのは、散文ではやりづらい脱線も自在にできるからだという意味のことを述べていた。

そもそも「脱線」とは「本線」を前提とした言い方だ。本線とは、はなから目的地が決まった話で、そのゴールに向かうという観点からしたら、道草をくったり、路地裏に迷い込むのは本線を外れた脱線というわけである。無駄を嫌う場所では、脱線も嫌われる。例えば、受験に関係ない知識は勉強しても無駄、なんて発想はその最たるものだ。私たちは中高の段階で、そういう思考を刷り込まれているのかもしれない。受験に部分最適化した知識の吸収は、受験が終わるとともに意味をなさなくなる道理である。

しかし、常に本線が見えているとは限らない。だいたい人生からして、本線などありはしない。本線がないところに脱線はないのだとすれば、そこにあるのはなにか。試しに行ってみること、そんな言葉はないかもしれないが、試線だけがある。

試線を進んでゆくとき、予め何がどう役に立つかは分からない。受験や会社での仕事のように、目的を狭く限定した状態とは違うからだ。そうした限定した目的に邁進するのを悪いとは思わない。ただ、目的に合わせて物事を部分最適化しすぎると、その他のことがお留守になってしまう。

例えば、企業の利潤という目的に部分最適化して物事を進めた結果、地球環境を破壊して結果的に自分たちの健康も損なう、なんていうのは目も当てられない失敗である。

そうはいっても人間は、一度にそんなに多くのことを考えられないものだ。だからこそ、いろいろな事物が直接間接的に、どんなふうにつながりあっているかということを、誰もが確認できるマップがあればよいと思う。

私は、アレクサンダー・フォン・フンボルトやエルンスト・ヘッケル、南方熊楠や寺田寅彦が考えたこと、あるいは比較的最近なら、レベッカ・ソルニットや多和田葉子の物の見方に、そうしたマップをつくるためのヒントがあると睨んでいる。

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